FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

薩摩藩の幕末維新余話

 薩摩藩の幕末維新を書き終えましたが、余韻が冷めやりません。本編では書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでご紹介します。




 薩軍に参加した熊本県の部隊は、宮崎八郎の協同隊の他に池辺吉十郎、佐々友房を指導者とする熊本隊7百名がいました。こちらは自由民権運動家の宮崎と違い藩校時習館に学んだ尊王攘夷派。池辺は熊本県少参事を歴任するなど新政府でも登用されました。維新後士族たちが冷遇されることに不満を抱き下野。西郷軍挙兵に同調し参加します。

 熊本隊は、田原坂の戦闘では吉次峠方面を守備、激しく戦います。以後西郷軍の転戦と共に宮崎に入りました。佐々友房は宮崎で負傷し官軍に捕まります。池辺は西南戦争後行方をくらましますが、明治10年10月、政府軍に捕縛され同月26日長崎で斬首。明治時代のジャーナリスト池辺三山は彼の子息です。

 佐々は死罪は免れますが獄中青少年教育の重要性を痛感し明治12年出獄、現代でも名門である濟々黌(甲子園優勝経験あり)を設立しました。また明治21年には濟々黌付属女学校も開設、こちらは現在の尚絅高等学校です。ちなみに彼の孫には、警察・防衛官僚で現在危機管理評論家の佐々淳行氏、その姉で元参議院議員紀平悌子氏(故人)がいます。


 宮崎八郎を出した宮崎家は、八郎の弟たち民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)も有名です。弥蔵は支那の革命に共鳴孫文と交流し支那渡航を本気で考えますが、その矢先病に倒れ死去、享年30歳。民蔵は兄八郎の死後宮崎家の当主となりますが、自由民権運動に身を投じ1902年土地復権同志会を東京で設立、1905年には『土地均享・人類の大権』を記しました。民蔵の活動は頭山満、幸徳秋水ら左右問わず支持されますが、政府は私有財産制の否定につながると危険視します。政府の弾圧を受けますが、一方孫文の革命運動を支持、昭和3年まで生きました。

 末弟の寅蔵(滔天)が一番有名かもしれません。孫文を荒尾の生家に匿ったり、朝鮮の金玉均の亡命も支援しました。金玉均が上海で暗殺されたときは、遺髪と衣服を持ち帰り東京浅草本願寺で葬儀を営むなど信義に厚い人物でした。孫文の辛亥革命を全面的にバックアップ、辛亥革命の対外宣伝にも努め、亡くなる前年まで大陸に渡航したそうです。大正11年12月病死、享年51歳。

 これを書くと身バレしそうであまり書きたくはないんですが、我が家と宮崎家は無関係ではありません。うちの80代になる老母は、女学校時代宮崎民蔵さんの娘さんが恩師でした。娘さんの名前と経歴は私の母が身バレするのでご勘弁ください。NHKの朝ドラでも有名になった柳原白蓮と再婚する宮崎龍介は滔天の長男で、民蔵の娘とは従兄弟同士。柳原白蓮の映画を老母は恩師や女学校仲間と見に行ったそうですが、恩師ははしゃぐでもなく静かに見入っていたそうです。あまり龍介の行状を気に入ってなかったのでは?というのが母の談。

 ちなみに柳原白蓮は、本編で出てきた公卿柳原前光の側室の子で大正天皇の生母柳原愛子の姪にあたります。
スポンサーサイト

薩摩藩の幕末維新Ⅺ 城山に消ゆ(終章)

 西郷軍が人吉盆地から宮崎県に入った時3千人程度に減っていました。新政府軍はこれを鎮圧するため第1旅団、第2旅団、第3旅団を主力とする7万人にも及ぶ大部隊を集めます。すでに三月七日西郷軍の根拠地鹿児島に官軍千数百名が上陸占領していました。官軍には勅使柳原前光が同行しており、旧藩主の国父島津久光と面会します。勅使は久光に西郷軍への協力を止めるよう求めますが、久光は「西郷に加担することはないが、すでに君臣の間柄ではなく自分としては何もできない」と答えました。

 勅使の副使として黒田清隆がいました。皮肉なことに幕末期家臣だった者が上座に座り久光に命令を下す立場になります。勅使が会見を終え帰る時、平伏していた久光が黒田に対し「了介(清隆の事)も随分偉くなったものだな。茶坊主めが」と憎しみを込めて言葉を発します。息子で旧藩主(現県令)の忠義は必死に父を押しとどめますが、顔面蒼白になった黒田は「おいは昔とは違いもんど」と弱々しく反論し逃げるように去っていきました。

 三月二十一日をもって前県令大山綱良逮捕。東京に護送され長崎に移され斬首されます。享年53歳。根拠地を奪われ補給の目途が立たなくなった西郷軍は常識的には抵抗できないはずでした。ところが驚異的な粘りを見せ都城、小林盆地を中心に頑強に抵抗します。七月二十四日新政府軍別働第3旅団がようやく都城を奪回、西郷軍は宮崎県北部に去りました。

 八月に入って宮崎、高鍋を新政府軍に占領された薩軍は宮崎県北部の要衝延岡に追い詰められます。八月十二日新政府軍総攻撃開始。このとき西郷は自ら兵を率い突撃しようとしますが、周囲から押しとどめられました。八月十五日和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲されます。ここで西郷は解軍の令を出します。これまで西郷に従ってきた多くの兵が官軍に降伏しますが、西郷と生死を共にしようという精鋭千人は最後まで残りました。

 西郷軍は軍議を開き、ここで玉砕するよりは官軍の包囲を脱し故郷鹿児島に戻ろうと決します。八月十七日西郷軍は可愛岳(えのたけ)強行突破を図りました。不意を衝かれた官軍は退却、西郷軍は弾薬3万発、砲1門の戦利品を獲ます。宮崎と熊本の県境にそびえる九州山地に向かった西郷軍を新政府軍は見失います。九月一日、西郷軍は突如鹿児島に姿を現しました。パニックに陥る官軍留守部隊を蹴散らし西郷軍は最後の決戦の地城山に立て籠ります。城山は江戸期薩摩藩の政庁があった鶴丸城背後の山で詰めの城です。西郷に付き従う兵わずか3百余り。もとより死を覚悟した布陣でした。新政府軍は、城山を何重にも包囲します。

 新政府軍の総攻撃が明日に迫る中、その夜西郷軍は最後の宴を開きました。旧中津藩士増田宗太郎は西郷軍にここまで従ってきた一人でしたが、西郷と親しく接するうちに西郷の人格に魅了されます。「先生に一日接すれば一日愛あり。ゆえに私は離れることができないのだ」と故郷の友に書き送っていました。その増田も翌日壮烈な戦死を遂げます。

 九月二十四日午前四時、総攻撃がついに開始されました。西郷は着流しに袴姿、別府晋介を護衛に堂々と城山を下ってきたそうです。西郷は銃弾を足に受けます。別府を振り返ると「晋どん、ここら辺でよかじゃろ」と声を掛けました。新政府軍の銃弾は西郷の胸を貫きます。瀕死の西郷は「介錯を…」と別府に声を掛けました。別府晋介は泣きながら西郷の首を刎ねます。49歳の波乱の生涯です。別府もその場で切腹しました。西郷の死を知った村田新八は自害、桐野は新政府軍の中に突撃し壮烈な斬り死にを遂げます。日本最後の内戦西南戦争はここに終わりました。

 薩軍戦死者6765名、官軍戦死者6403名、西郷はこれらの犠牲者と共に明治新政府が抱える様々な矛盾を背負って死んでいったとも言えます。西南戦争の結果、明治新政府はようやく日本全国の支配を確立しました。富国強兵に邁進し日清日露戦争の勝利でようやく日本は植民地化の危険から脱し、列強の一角を占める国になります。


 東京で西郷の死を聞いた大久保は号泣し「おはんの死と共に、新しか日本が生まれ変わる。強き日本が…」と何度もつぶやいたと伝えられます。大久保とて決して西郷が憎かったわけではないのです。国家に対する考え方の違いが生んだ悲劇でした。大久保は参議・内務卿として明治新政府を主導し中央集権化を進めます。明治十一年五月十四日、大久保は宮中参内のため馬車に乗って屋敷を出ました。馬車が紀尾井坂に差し掛かると突然暴徒に行く手を遮られます。大久保の中央集権化に反対する石川県の不平士族たちでした。「何者じゃ、訳を言え」と大久保は声を掛けますが、「問答無用」と斬りつけられ絶命します。享年47歳。冷酷非情な大久保は反対派から激しく憎まれますが、彼自身は清廉潔白で無私の政治家でした。

 大久保の遺産は140円。ところが8000円もの借金があったと伝えられます。所有財産もすべて抵当に入っていましたが、債権者はあえて返済を遺族に求めなかったそうです。大久保の負債は、新政府の計らいで彼が生前鹿児島県庁に学校費として寄付した8000円を回収し返済に充てられました。


 西郷、大久保の死をもって薩摩藩の幕末維新は終わります。明治国家は幕末維新期に生まれた矛盾を克服し貧しくとも強き国を建国しました。幕末維新で散って行った数多くの命は日清日露の戦いの勝利で報われたと思います。しかし大東亜戦争で敗れ平和ボケしている現代の日本人は彼らやその後の戦争で散った英霊に顔向けできるでしょうか?国家について、日本人について色々なことを考えさせてくれます。



                                (完)

薩摩藩の幕末維新Ⅹ 田原坂

 熊本県北部、玉名郡玉東町から熊本市北区植木町の間にそびえる小丘陵があります。比高わずか60mながら1.5㎞にもわたるだらだら坂が続き、道の両側には堤防のような土手がそびえていました。この土手は、加藤清正が秀頼を擁して関東の大軍と戦うために整備させたとも言われ、天然の要害となります。その坂の名を田原坂と言いました。

 「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」これは民謡田原坂の一節ですが、私たち熊本県民には幼少期から慣れ親しんだ歌です。高瀬の決戦に敗れた薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため田原坂から吉次峠に至る長大な防衛線を築きました。
 
 西南戦争最大の激戦と呼ばれる田原坂の戦いは明治十年三月一日開始されます。新政府軍は第1旅団、第2旅団を主力としてこの方面に集められる最大の兵力を投入しました。陸軍卿山県有朋直接の指揮です。負ければ後のない薩軍は必死に防戦、新政府軍は攻めあぐみました。三月四日、吉次峠方面を守る薩軍篠原国幹は近衛隊陸軍少将の軍服に赤裏のマントを翻らせサーベルを抜いて督戦しました。目立つ姿は新政府軍の格好の標的となり銃撃され戦死します。頭が切れすぎるため戦いの行く末を悲観した篠原は、この戦いで自殺したのだと言われました。

 ただ田原坂の戦闘は一か月も続きます。新政府は警察抜刀隊などあらゆる兵力をかき集め遮二無二突破を図りますが、死体の山を築くだけでした。新政府軍は戦死者2千人、戦傷者2千人という驚くべき損害を出します。が、厳しいのは薩軍も同じでした。損害を受けてもどんどん新手が来て補充できる新政府軍と違い、薩軍の人的資源には限りがあるのです。兵力に余裕がある新政府軍は、薩軍が手薄な阿蘇方面に大分県から進出しました。この中に警視隊小隊長として一人の会津人がいました。その名は佐川官兵衛、元会津藩家老です。鬼官兵衛と呼ばれた彼は、維新で散った会津の同胞の敵討ちという意識で従軍します。激戦の末佐川は壮烈な戦死を遂げました。彼の墓は阿蘇の地にあります。

 三月二十日早朝、新政府軍は最大の兵力を投入して田原坂の薩軍陣地へ総攻撃をかけました。犠牲をいとわない猛攻で新政府軍は田原坂から薩軍を叩き出します。しかし後退した薩軍は植木から吉次峠に至る新たな防衛線を築き抵抗しました。薩軍が田原坂、植木方面での抵抗を諦めたのは、背後に当たる八代、日奈久に三月二十日黒田清隆率いる別働第2旅団が相次いで上陸したからです。主力を田原坂方面に集めていた薩軍は、策源地鹿児島との連絡を絶たれたことになります。重要な兵站線を奪われただけでなく、八代から近い川尻の本営に居た西郷の身の危険も生じたのです。

 開戦以来包囲を受けていた熊本鎮台は、突破作戦を開始します。包囲開始から二か月、兵糧も尽きかけていました。田原坂方面から兵を引いた薩軍は、背後から新政府軍の別動隊が迫っていた為、宇土、松橋、御船と熊本県の内陸部へ主力を転進しました。戦闘の最中、四月十六日熊本協同隊隊長宮崎八郎、八代にて戦死、享年26歳。熊本城にはなお包囲部隊を置いていたそうですが、これも四月十三日新政府軍と熊本鎮台の挟み撃ちによって開囲されます。薩軍は矢部方面から人吉盆地に入り戦局打開を目指して宮崎県に移動しました。この段階で最盛期3万人を数えた薩軍は事実上崩壊、わずか3千人余りに激減していたそうです。



 次回、最終回。宮崎から鹿児島城山に至る西郷一党最後の戦いを描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅸ 西南戦争

 明治十年二月挙兵が決まった薩摩軍ですが、方針を巡っては分かれます。西郷の弟小兵衛は長崎を奇襲し軍艦を奪取、一気に海路を進んで東京に上陸する案を主張します。桐野利秋は、かつて熊本鎮台司令官だったことから「百姓兵が守る熊本鎮台など恐るるに足りず。西郷大将が向かうと知ったら即降伏しもっそ」と鹿児島から熊本に進み九州を占領し、東京に向かう戦法を主張しました。冷静に考えると、時間をかければかけるほど新政府軍は全国から兵力を集中するので薩軍は不利になるはずです。西郷小兵衛の案は一見無謀の様ではあるが、政府に時間的余裕を与えないという意味では一番可能性が高い作戦だったかもしれません。

 西郷自身は、この戦の行く末が分かっていたと思います。しかし自分を慕う若者たちを見捨てる気にはなれず自分の身を彼らに預けていたのでしょう。薩摩軍は1個大隊2千名からなる5個大隊と若干の補助部隊を含め1万3千名。桐野利秋、村田新八、篠原国幹ら私学校幹部が大隊長として指揮しました。明治十年二月十五日薩摩軍はついに北上を開始します。この日は50年ぶりとも言われるほどの雪の日でした。

 北上した薩摩軍は新政府軍の拠点熊本鎮台を囲みます。当時の鎮台司令官は土佐出身の陸軍少将谷干城。参謀長は薩摩の樺山資紀中佐、参謀副長児玉源太郎(長州)少佐、大隊長に奥保鞏(小倉)少佐など後に日清日露戦争で活躍する人材が守っていました。熊本鎮台兵力3千。西郷軍動くという急報を受けた新政府は、2月19日有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任命し各鎮台から兵力を動員九州に向かわせました。ただ有栖川宮は名目上の総司令官で、実質的な政府軍の指揮は参軍(副司令官)に任命された陸軍卿山県有朋中将、海軍卿川村純義中将がとります。

 二月二十一日、熊本城を包囲した薩軍は、熊本鎮台軍の頑強な抵抗にあい攻めあぐみます。意外なことに江戸初期、加藤清正が築いた熊本城は薩軍の攻撃にもびくともしませんでした。薩軍は、本営を熊本南部の川尻に置き総大将西郷隆盛はここに滞在しました。熊本城が短期間では落ちないと分かった薩軍は若干の包囲の兵力を残し主力は北上、迫りくる新政府軍の迎撃に向かいます。

 西郷立つのニュースは全国の不平士族を狂喜させました。熊本では宮崎八郎率いる熊本協同隊が参加したほか九州各地の士族が薩軍に合流、3万以上に膨れ上がります。宮崎八郎は孫文を助けた宮崎滔天の実兄、中江兆民に学んだ自由民権運動家で植木学校を設立、薩軍とは思想が全く逆でしたが、新政府軍に対抗するという意味で参加しました。

 北上した薩軍は、植木で小倉から南下してきた乃木希典少佐率いる歩兵第14連隊とぶつかります。この時不意を打たれた第14連隊は潰走し、軍旗を奪われるという恥辱を受けました。乃木はこの事を生涯悔いたそうです。ようやく兵力をまとめた乃木は、木葉(玉東町)で戦国時代の城跡稲佐山に籠城しました。が、準備不足から背後の木葉山麓より薩軍の夜襲を受け、再び敗走します。菊池川を越え石貫(玉名市)まで逃れ、ここでようやく野津鎮雄少将率いる第1旅団と合流し一息つきました。

 新政府軍は菊池川の線を防衛拠点に定め高瀬(玉名市)に本営を置きます。薩軍は桐野隊が山鹿にまで進出、新政府軍第1旅団、第2旅団が守る高瀬に攻撃の焦点を定めました。高瀬は熊本県北部の要衝、江戸期は菊池川水運の中心で福岡から熊本北部に至るルート、海岸沿いの荒尾口、西国街道の南関口、内陸の山鹿口から至る合流点でした。高瀬を失陥すると福岡県までの防衛が難しくなり薩軍の北上を阻止できません。

 不退転の決意をした新政府軍に対し、薩軍は山鹿から桐野隊を呼び戻し篠原隊、村田隊と主力を投入、二月二十五日攻撃を開始しました。高瀬の戦いは三度行われますが、新政府軍は菊池川の堤防を遮蔽物としスナイドル銃の猛射で薩軍を防ぎます。薩軍は合流を待つことなく各隊ばらばらに攻撃を開始するという致命的失策を犯しました。膠着した戦線に業を煮やした小隊長西郷小兵衛は手勢を率いて突撃します。が、これは無謀な攻撃でした。新政府軍の猛烈な射撃を受け戦死、享年31歳。

 高瀬の戦いが西南戦争のターニングポイントになります。薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため高瀬と熊本の間にある丘陵地帯、田原坂に陣地を築きました。田原坂は西南戦争最大の激戦となります。高瀬方面から熊本に至る道のうち、海岸ルートを除けば田原坂と金峰山系の山麓を通る吉次峠のみが大砲の通れる道でした。現在の地図では玉名から植木に至る国道3号線がありますが、当時は湿地で道がありません。


 次回、西南戦争最大の戦い田原坂の激闘を描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅷ 私学校

 征韓論を巡る政変、明治六年(1873年)の政変で野に下った人材は参議の半分、軍人官僚600名にも及びました。ガタガタになった内政を立て直すため同年11月内務省が設立されます。内務省は地方行政だけでなく、警察、土木、衛生、国家神道と広範囲に権限が及び戦前内務大臣は内閣の副総理格という重要な役職でした。この強大な内務省の初代内務卿になったのが大久保利通。鹿児島に帰郷した西郷隆盛ら不満分子の反乱に備えての措置だったと思います。

 鹿児島に戻った西郷ですが、彼を慕って東京の職を辞した若者たちのために吉野開墾社を設立。彼らの生活と鹿児島の農業発展、産業育成を考えての事でした。さらに西郷は私学校を開きます。これは二つの学校から成り、篠原国幹を校長とし旧近衛歩兵600名からなる銃隊学校、村田新八を校長とし砲兵関係者200名を集めた砲隊学校です。他に西郷、桐野らの賞典禄を基に設立された賞典学校もありました。

 これをもって西郷が内乱を準備していたという意見もありますが、私はこのまま軍隊経験のある若者たちを放置しておくと暴発しかねないので、それを未然に防ぐために西郷が私学校を作ったのだと解釈します。西郷は鹿児島に理想郷を作り全国の見本とすると同時に、一朝事あるときには立ち上がり天下国家のために働くことを考えていたのでしょう。もちろんあくまで理想で現実は違ったのでしょうが、私は西郷の思いをこう想像します。

 西郷野に下るというニュースは全国に知れ渡ります。とくに明治新政府に不満を持つ士族たちの希望の星となりました。維新を起こした士族たちは、新しい時代が来ると生活が良くなると信じます。ところが現実は大きく違い、廃藩置県で職を失い廃刀令で武士の誇りを踏みにじられました。明治新政府も欧米列強の植民地化を防ぐためではあったのでしょうが、改革を急ぎすぎ様々な歪が生じていました。

 西郷と共に下野した佐賀の江藤新平は、不平士族たちに担ぎ上げられ反乱に踏み切ります。江藤は西郷に使者を送り共闘を模索しますが、西郷は動きませんでした。明治七年二月、佐賀の乱勃発。江藤自身は本意ではなかったと思いますが、佐賀の不平士族の数はすさまじく1万1千人も立ち上がります。新政府の大久保は事の重大性を考慮し自ら軍を率いてこれを鎮圧。江藤は逃亡し潜伏しますが、高知県で捕らえられ裁判の上斬首されます。皮肉なことに司法卿時代に江藤が導入した指名手配写真で逮捕されたそうです。

 佐賀の乱は以後続発する士族反乱の始まりとなりました。新政府は西郷の動向を細心の注意を持って見守ります。西郷の実弟従道や従兄弟の大山巌を派遣し東京復帰を説かせますが、西郷はすべて断りました。鹿児島県では県令大山綱良も島津久光に近く東京の新政府に批判的だったので、私学校関係者を積極的に県の役人に登用、金銭的にも私学校を全面的にバックアップします。さながら鹿児島県は独立国家のようでした。

 内務省が警察組織も司る巨大官庁だと前に書きましたが、ある時内務卿大久保利通は警視庁大警視(後の総監)川路利良を呼びました。大久保は川路に警視庁の優秀な人材を選抜し秘かに鹿児島に潜入、私学校の動向を探るよう命じます。そこで選ばれたのが薩摩出身の中原尚雄ら24名でした。ところが潜入はすぐばれます。捕らえられた中原は、潜入目的を問われ「西郷を『しさつ』せよと命じられた」と白状しました。『しさつ』とはおそらく『視察』の意味だったろうと思いますが、疑心暗鬼に陥った鹿児島側は『刺殺』と曲解します。いや、本当に刺殺だったという説もありますが、ここは歴史の謎です。

 これに火に油を注ぐ出来事が勃発します。大久保は西郷一党の暴発を未然に防ごうと、海軍大輔(海軍のナンバー2)川村純義に命じ三菱汽船を雇い鹿児島にあった武器弾薬を大阪に移させようとしました。川村は「かえって私学校を刺激することになる」と反対しますが、大久保は強行させます。当時鹿児島の集成館は日本で唯一、後装式スナイドル銃の国産に成功したところでした。搬送の目的は、スナイドル銃の製造、弾薬生産設備をすべて運び出すことです。鹿児島県令大山綱良が強気なのもこのスナイドル銃製造設備があってのことでした。

 明治十年(1877年)一月、搬送作業は深夜秘かに行われます。しかしその情報は私学校に漏れ、激高した私学校生が鹿児島武器庫の三菱汽船雇人たちに斬りつけました。この襲撃で数多くの武器弾薬が私学校側に奪われます。ただ、スナイドル銃の製造設備一式は何とか大阪に搬送され、私学校側は奪取に成功した一部のスナイドル銃以外は旧式の前装式エンフィールド銃で戦う事を余儀なくされました。

 私学校党の武器庫襲撃の報告は西郷にもたらされます。県令大山綱良を含む私学校党幹部は集まって善後策を協議しました。慎重派の村田新八、篠原国幹は軽挙妄動を慎むよう主張しますが、強硬派の桐野利秋は「戦を仕掛けてきたのは東京の大久保だ。ここで座して死を待つよりは立ち上がるべき」と挙兵を譲りません。そんな中、武器庫襲撃の下手人である私学校生たちが西郷のもとに出頭します。

 「すべては自分たちの責任です。我々を新政府に引き渡してください」と西郷に涙ながらに訴えました。黙って目を閉じていた西郷は「おいの命、お前たちに預けた」と一言言ったのみでした。西郷の一言で西南戦争が始まったと言っても良いでしょう。



 私学校党はついに立ち上がります。日本最後の内戦、西南戦争はこうして始まりました。次回は、挙兵した薩摩軍と新政府軍の激闘を描きます。
FC2カウンター
リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
カレンダー
08 | 2018/09 | 10
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
プロフィール

鳳山

Author:鳳山
FC2ブログへようこそ!

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。