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大オスマン帝国Ⅹ  トルコ革命と帝国滅亡(終章)

 19世紀末から20世紀初頭にかけてバルカン半島の西側からはオーストリア=ハンガリー二重帝国が、バルカン半島東側とコーカサス地方からはロシアがオスマン帝国の領土を窺います。国内はフランス革命の影響を受け支配下の諸民族にナショナリズムの嵐が吹き荒れていました。

 国内外の危機からオスマン朝内部でも改革の動きはありましたが、後手後手に回ります。オスマン朝では、軍事的な危機感が深刻で、当時オーストリアと対立していたドイツ帝国から軍事顧問団を招聘しドイツ式の軍制改革を始めました。ちょうど同じ時期、明治維新で近代国家の仲間入りを果たした日本もドイツからメッケル少佐を招聘し軍の近代化を果たします。ドイツは、オスマン帝国を重視しプロイセン王国時代から軍事顧問を派遣しており、一時は後の参謀総長大モルトケですらオスマン帝国に赴任しています。

 ドイツ帝国は、宿敵イギリスの3C政策(カイロ-ケープタウン-カルカッタを結ぶ経済ブロック)に対抗するため3B政策(ベルリン-ビザンチウム(イスタンブールの古名)-バクダッドを結ぶ鉄道建設)を推進しており、オスマン朝への軍事顧問団派遣もその一環でした。

 1878年ベルリン会議でロシアとの対立は一応決着しますが、その後欧州列強はオスマン朝の領土の切り取りを激化させます。1881年チュニジアをフランスに割譲、1882年には一応宗主権だけは保っていたエジプトをイギリスに割譲しました。1897年にはトルコ・ギリシャ戦争勃発、1908年イエメン独立(実質的にはイギリスの保護領)、1908年にはブルガリアが独立します。

 ボロボロのトルコ帝国の現状を憂い、西洋式教育を受けたムスタファ・ケマルら青年将校や下級官吏たちは青年トルコ党を結成しました。彼らはトルコが弱いのはアブデュルハミト2世(第34代スルタン、在位1864年~1909年)の専制政治が原因だと考えます。皮肉にもオスマン帝国は、イスラム法の下緩やかな専制で有為の青年たちを西洋に留学させていたのですが、それが仇になったとも言えました。

 1908年7月、彼らによって青年トルコ革命が起こります。革命勢力はアブデュルハミト2世によって停止されていた近代的ミトハト憲法復活を主張しました。1913年タラート・パシャ、エンヴェル・パシャを指導者とする統一派政権が誕生します。この混乱の中、スルタン・アブデュルハミト2世は廃位させられます。これをみても当時のオスマン帝国がスルタン専制ではなく官僚支配国家だった事が分かります。
 
 統一派政権はアブデュルハミト2世の弟メフメト5世(在位1909年~1918年)を擁立しました。国外では衰退するオスマン帝国領を狙ってブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロがバルカン同盟を結成し1912年第1次バルカン戦争を起こします。この戦争でオスマン帝国はボロボロになったのですが、領土を大きく拡大したブルガリに嫉妬した他のバルカン同盟諸国が今度はブルガリアに対し第2次バルカン戦争を起こしました。ブルガリアは袋叩きにあって領土を縮小させます。

 オスマン帝国は新政権になってもドイツとの同盟を維持、オーストリア=ハンガリー二重帝国も国内の事情とロシアとの対立からオスマン帝国との対立を止め、ここに三国同盟が結ばれます。1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公がサラエボでセルビア人青年に暗殺された事がきっかけで第1次世界大戦が勃発しました。

 オスマン帝国は、この戦争を機にイギリス、フランス、ロシアに奪われた領土を奪回できると淡い期待を抱いていたのでしょう。しかし現実は、アラビアのロレンスに代表されるイギリスの攻勢にさらされ、他の戦線でも敗退し続けました。1915年には、オスマン朝の本土イスタンブールに近いガリポリ半島に英仏連合軍14個師団が上陸します。英仏の大艦隊に守られ強烈な艦砲射撃の下上陸した英仏軍の前にオスマン軍は絶体絶命でした。このままでは首都イスタンブールが陥落するのも時間の問題。

 当時ガリポリ半島を守っていたのはオスマン軍6個師団でしたが、最終的には14個師団に増強されます。後の無いオスマン軍は必死に防戦し、戦線は膠着状態に陥りました。この戦いで活躍したのがムスタファ・ケマルでした。ケマルはアナファルタラル集団司令官でしたが、英軍の進撃を食い止めアナファルタラルの英雄と称えられます。

 そもそもガリポリ上陸作戦自体が無理な作戦でした。補給が続かなくなった英仏軍は1916年1月撤退します。大きな犠牲を払いながら得る物の無い戦いだったのです。ただ一つ、ムスタファ・ケマルを英雄にしただけ。1918年10月30日、オスマン帝国はついに降伏します。英仏連合軍がオスマン領土に進駐し首都イスランブール、ボスポラス・ダーダネス両海峡は国際管理下に置かれました。アナトリア半島のエーゲ海沿岸地方はギリシャに取られ、オスマン帝国に残された領土はアナトリア半島中央部だけになります。

 アナトリアのトルコ人たちは危機感を抱きます。このままではトルコが滅んでしまうと。統一派政権に属しながら距離を置いていたムスタファ・ケマルはこのようなトルコ人たちの不満を糾合しアンカラで1920年トルコ大国民議会を組織します。一方、連合軍に恭順していたメフメト6世(5世の弟、在位1918年~1922年)は、この動きを反逆と断じました。

 1920年オスマン帝国と英仏連合軍との間に講和条約セーブル条約が結ばれます。これによりトルコはほとんどの海外領土を失いました。アナトリア西部エーゲ海沿岸を獲得したギリシャは、欲を出しアナトリア中央部に軍を進めます。ケマルは軍を率いてギリシャ軍を迎え撃ちサカリア川の戦いで撃破しました。ケマル率いるアンカラ政府軍は、余勢を駆りアナトリア半島に展開するギリシャ軍を駆逐します。これによりアンカラ政府の実力を知った連合国は改めてトルコに有利な状況で休戦条約を結ばざるを得ませんでした。

 連合国はローザンヌ講和会議を開催する事にし、イスタンブールのオスマン帝国政府と共にアンカラ政府を招待します。ムスタファ・ケマルは国の代表が二つあるのはおかしいと考え、1922年大国民議会に諮ってスルタン制の廃止を決議します。オスマン家に残されたのは宗教的権威のカリフのみで、世俗の権威、権力一切を剥奪されたのです。実際軍隊をもちトルコ国民から圧倒的支持を受けるアンカラ政府にオスマン朝が抵抗できるはずはありませんでした。

 1922年廃帝メフメト6世はマルタ島に亡命します。600年の歴史を誇るオスマン帝国の滅亡でした。これをトルコ革命と呼びます。翌1923年ムスタファ・ケマルはトルコ共和国樹立を宣言、総選挙を実施し初代大統領に就任しました。

 トルコの人たちは、彼の事をケマル・アタチュルク(トルコの父)と尊称します。ケマル・アタチュルク大統領によってトルコはイスラム支配ではなく西洋的近代国家に生まれ変わるのです。



                                (完)
 
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大オスマン帝国Ⅸ  滅亡への序曲

 ここに一つの伝説を述べましょう。カリブ海、ドミニカの南にマルティニーク島という島があります。フランスの海外県の一つで面積1128平方キロ、2011年現在で人口40万人。

 18世紀末ごろ、この島に姉妹のように育った下級貴族の娘がいました。従姉妹同士で年も近くとても仲良かったそうです。ある時二人は、良く当たると云う黒人老婆の占い師のもとを訪ねます。

 老婆は姉を占って言いました。
「貴方は二度結婚する。二人目の亭主はさえない男だが、大きな権力を握るだろう。お前さんもそれにあやかって王妃になる。しかし栄華は長く続かず寂しい晩年になるだろうね。孤独の中でこの島の事を懐かしく思いだすよ」

 次に老婆は妹の方を占います。
「これは驚いたね。あんたは奴隷になった後皇帝になる息子を産むよ。あんた自身も大きな権力を握るけど、異郷の地で空しく亡くなるだろうね」

 ショックを受けた姉を慰めながら二人は占い師の家を出ました。年長の娘の名はジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。言わずと知れたナポレオン・ボナパルトの皇后です。一方年少の娘はエイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリといいました。二人は成長すると、カリブ海の片田舎で一生を終るのが我慢できず船に乗ってフランスへ向かいます。

 ジョセフィーヌはフランスに渡り1779年ボアルネ子爵と結婚しました。しかし浪費癖が酷いせいか間もなく離婚。当時フランス革命政府の実力者だったバラスの愛人に収まります。そこでさえない軍人だったナポレオンと知り合い、彼の猛烈な求婚に負け結婚しました。バラスが浮気性の彼女に飽きてきたためナポレオンに押し付けたという話もあります。その後の歴史は皆さんご存じの通り。

 問題はエイメの方でした。フランスへの船旅の途中船が海賊に襲われ人質となってしまいます。普通なら強姦の末殺されるか、よくて売春婦に落とされ安く売り飛ばされていたでしょう。ところが彼女の美貌は際立っていました。海賊たち(おそらくアルジェのバルバリア海賊)は、彼女をオスマン朝のハーレムに売れば大金が得られると思います。処女でなければ価値が下がるため強姦も免れたはず。こうして数奇な運命の末エイメはハーレムの奴隷女となりました。

 ハーレムには帝国各地から集められたそれこそ何千人もの美女がいます。スルタンの目に留まるのはほんの一握り。さらにスルタンの王子を産みその子がスルタンになる事など夢のまた夢だったでしょう。ところがその奇跡が彼女に起きました。第23代スルタン、アブデュルハミト1世(在位1774年~1789年)の目に留まったのです。おそらく、フランス系でカリブ海で育ったためエキゾチックな美貌だったのでしょう。

 エイメはスルタンに溺愛され、王子マフムトを産みます。しかし、皇后ではなかったためオスマン朝の伝統からいったら次のスルタンが即位する時処刑されるはずでした。奇跡はさらに続きます。1789年アブデュルハミト1世が死去すると甥セリム3世が即位しました。1807年セリム3世は改革を嫌うイェニチェリに廃位され、マフムトの異母兄ムスタファ4世が即位します。ところがムスタファ4世即位後セリム3世復位を訴える大反乱が起こりました。反乱軍に担ぎあげられる事を恐れ、幽閉中のセリム3世は処刑されます。

 反乱軍の首謀者、将軍アレムダル・ムスタファ・パシャは首都イスタンブールを制圧しました。セリム3世がすでに殺されていた事を知ったアレムダルは激怒、ムスタファ4世を廃位し幽閉します。ただ、スルタンがいないと帝国は動きません。傀儡であろうとなかろうと君主は必要なのです。そこで白羽の矢が立ったのは、背後に権門がいないマフムト王子でした。こうしてマフムトは即位し、マフムト2世(在位1808年~1839年)となります。

 エイメは、皇太后となりました。が、このままでは大宰相となったアレムダルの傀儡ですから権力がなく、いつ彼の都合で殺されるか分かりません。しかし、またしても幸運の女神が彼女とその息子に微笑みました。宮廷内の権力闘争でアレムダルが殺されたのです。宮廷内の実力者が相次いで権力闘争で亡くなったため、相対的にスルタンの権力が上昇します。こうして若年のスルタンを補佐し皇太后エイメは絶大な権力を握りました。

 エイメはオスマン帝国ではナクシディル・スルタンの名で呼ばれます。エイメは、従姉が皇后を務めるフランスと同盟を結びました。ところがジョセフィーヌが子供を産まない事を理由に離縁されたため、フランスとの同盟を破棄します。エイメは息子を補佐しナポレオン戦争、対露戦争、イェニチェリ反乱を戦い抜き9年後死去しました。晩年、少女時代に聞いた占い師の老婆の予言を思いだし感慨深いものがあったでしょう。まさに数奇な一生を送った美女でした。

 以上長々とエイメについて書いてきましたが、最新の研究ではナクシディル・スルタンはコーカサス出身だったという説が出てきています。ですからエイメの話はもしかしたら伝説にすぎないかもしれません。フランスとの同盟破棄云々も皇太后の個人的感情で決まるはずは無く、国際情勢上国益に沿って判断されたものであるはず。

 エイメの話は、この頃のオスマン朝を象徴していると思いあえて紹介しました。

 
 マフムト2世は、衰える国運を必死に支え諸改革を断行したスルタンでした。既得権益に胡坐をかき、帝国の癌となりつつあったイェニチェリ軍団を廃止したのも彼です。マフムト2世によって新式装備のムハンマド常勝軍が編成されます。イェニチェリは抵抗したものの、常勝軍の大砲の前に崩れ去りました。

 そういう努力も国際情勢の前には無力となります。ナポレオン戦争の影響で帝国の重要な領土エジプトが独立しました。アルバニア出身のエジプト総督ムハンマド・アリーはイェニチェリと共に帝国の癌だったマムルーク軍団を力ずくで排除、独自の軍を背景にオスマン帝国から離脱したのです。

 フランス革命の影響はオスマン帝国にも及び支配下の諸民族のナショナリズムに火を付けます。それまでのイスラム法の下、オスマン家の緩やかな専制では満足できなくなったのです。まずギリシャが独立戦争を起こし1829年独立。エジプトも二度の戦争の末1841年事実上独立しました。

 1853年にはロシアとの間にクリミア戦争が起こります。ロシアの領土拡張を好まない英仏が支援したためかろうじて勝利しますが、以後英仏はオスマン朝の内政に露骨に干渉しました。1878年には露土戦争で完敗、オスマン朝の命運は風前の灯となります。

 そして第1次世界大戦勃発、この戦争が帝国に止めを刺しました。次回最終回、トルコ革命と帝国滅亡に御期待下さい。

大オスマン帝国Ⅷ  第2次ウィーン包囲

 レパントの敗戦はオスマン帝国の屋台骨を揺るがすほどではありませんでしたが、少なくとも拡大路線が頓挫し何かが変わり始めるきっかけにはなりました。スレイマン大帝以後凡庸なスルタンしか出ず、宮廷は官僚や軍人の権力闘争の場となります。なかには第16代オスマン2世(在位1618年~1622年)のように、腐敗したイェニチェリ軍団を改革しようとして逆に軍人たちに暗殺されるスルタンも出ました。

 16世紀末から17世紀初頭にかけて、アナトリアではジェラーリーの乱という大規模な反乱が起こります。ジェラーリーとは山賊とか暴徒という意味ですが、この中にはサファヴィー朝の影響を受けたサファヴィー教徒のトルコ系遊牧民キジルバシの生き残りも含まれていたようです。

 ではそういう内政がガタガタの状態のオスマン帝国がどうして再びウィーン包囲できたのでしょうか?実は神聖ローマ帝国側も同時に疲弊していたからでした。ルターが提唱したプロテスタント運動、所謂ドイツ宗教改革はドイツ諸侯たちを巻き込んで1618年30年戦争を巻き起こします。戦場になったドイツでは人口1600万人が600万人まで激減したとも言われ深刻な爪痕を残しました。1648年ウエストファリア条約で終結したものの、その結果オランダが正式にスペインから独立、逆にスペインの海上覇権に挑戦するようになります。

 『太陽の没しない帝国』スペインの後退ははっきりし、地中海でのオスマン帝国との覇権争いも終息しました。もう一方のハプスブルク家、オーストリアは30年戦争の結果神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯が独立志向となり統制が緩みます。最終的に神聖ローマ帝国はナポレオン戦争で解体しました。この頃、フランスではブルボン朝ルイ14世が絶頂期を迎えており、これもオーストリア・ハプスブルクにとっては悩みの種となります。

 第19代スルタン、メフメト4世(在位1648年~1687年)は政治を有力貴族キョプリュリュ家に任せ自分は狩猟三昧に明け暮れる無能な君主でした。1676年キョプリュリュ・アフメト・パシャに代わって大宰相に任じられた義弟カラ・ムスタファ・パシャは野心多き男だったと云われます。彼は内部の矛盾をごまかすため外征で成果を上げようと考えました。

 1683年北西ハンガリーでハンガリー人が神聖ローマ帝国に対し反乱を起こします。反乱軍はオスマン帝国に援助を求めました。カラ・ムスタファ・パシャはこれを絶好の好機だととらえました。1683年、15万の大軍を動員したカラ・ムスタファはオーストリア領に侵入、首都ウィーンに迫ります。7月7日時の神聖ローマ皇帝レオポルド1世は部下に守備を任せ帝都を脱出、ヨーロッパ諸国に支援を要請しました。一説ではオスマン軍の遠征はフランス王ルイ14世が唆したという話もあります。当時の複雑怪奇な国際情勢から見るとあり得る話です。

 前回の時と大きく違っていた事は、ヨーロッパ側に軍事革命が進みテルシオ戦術、マウリッツ式大隊、スウェーデン式大隊とマスケット銃を使う戦術が飛躍的に発展していた事です。一方オスマン側は、特権階級となったイェニチェリ軍団が改革を拒み旧態依然たる戦術に固執していました。とはいえ、ウィーンの守備軍はわずか1万5千だったためオスマン軍は容易に包囲します。

 最新の築城術で要塞化されたウィーンは、劣勢の兵力にもかかわらずびくともしませんでした。オスマン軍は攻めあぐみ膠着状態に陥ります。その頃、オスマン朝と領土紛争を抱えていたポーランドのヤン3世がウィーン救援に立ちあがりました。これにロレーヌ公、ザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯などドイツ諸侯の軍が加わり7万の兵力が集まります。

 9月12日、救援軍はウィーン西方の丘陵上に布陣しました。右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万、左翼にドイツ諸侯軍4万。オスマン軍は長期の対陣で士気が弛緩していました。クリミア・タタール軍などは強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発し協力を拒否する動きさえあったそうです。偵察によってオスマン軍の弱点を見抜いたヤン3世は、12日夜早くも攻撃を開始します。これが奇襲となりオスマン軍は大混乱に陥りました。中でもポーランドの誇る重騎兵『フサリア』3千騎の活躍は目覚ましく、カラ・ムスタファの本営まで一直線に進みオスマン軍の包囲陣をズタズタに切り裂きます。

 カラ・ムスタファ自身は辛くも危機を脱し逃亡に成功しますが、総指揮官がいなくなったオスマン軍は総崩れになりました。カラ・ムスタファはべオグラードに逃れなお再戦の機会を狙いますが、さすがに無能なメフメト4世も怒り敗戦の責任を追及されて処刑されます。第2次ウィーン包囲はオスマン帝国最後のヨーロッパ遠征となりました。

 以後、オーストリアは逆にオスマン領に攻め込みハンガリーを蚕食し続けました。この戦いでオスマン軍弱しと知ったポーランド、ロシアもこれに加わります。オーストリアなど欧州諸国は神聖同盟を結びオスマン朝との戦いを続けました。サンドバッグ状態のオスマン朝は1699年カルロヴィッツ条約でようやく一息つきます。しかし、この講和条約で帝国領土が多く失われました。

 オーストリアにオスマン領ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラヴォニアを割譲
 ポーランドにポドリア割譲
 ヴェネチアにダルマチア割譲

ロシアは、カルロヴィッツ条約には加わらなかったものの、1700年コンスタンティノープル条約でアゾブを得ます。オスマン朝の衰退は明らかでした。


 軍や政府の近代化に失敗し、「瀕死の重病人」とまで言われるようになったオスマン帝国、ただバルカン半島以外では依然として広大な領土を保持していたため滅亡は緩やかに推移します。次回はオスマン帝国滅亡への序曲を記しましょう。

大オスマン帝国Ⅶ  レパントの海戦

 前の記事でガレー船という言葉が出ています。懐かしの光栄シミュレーションゲーム『大航海時代』を遊んだ事のある方ならご存知だと思いますが、知らない方も多いと思うので一応説明します。

 ガレー船というのは地中海やバルト海など風向きが安定しない内海で多用された船種で、帆走の他に多数の漕ぎ手がオールを漕いで推進するタイプです。風がある時は帆走、無い時は人力で動かします。逆に大西洋などの外海では帆走のみのガレオンという戦闘艦が使用されます。一般の方が大航海時代の帆船としてイメージするのはガレオン船だと思います。他に商船として使われたキャラックとかナオとかダウとかジャンク船とか安宅船とか色々あるんですが、詳しくは大航海時代をプレイして下さい(笑)。ちなみに、スペイン・ハプスブルク帝国は地中海用のガレー船艦隊と大西洋など外洋に乗り出すガレオン船艦隊を持っていました。


 1566年オスマン帝国最盛期を築いたスレイマン大帝が亡くなると、後を継いだのは悪女ヒュッレム・スルタンの子セリム2世(在位1566年~1574年)でした。泥酔者という綽名からも彼の能力が分かるでしょう。ただ、セリム2世、次のムラト3世(無能者)と無能なスルタンが続いても帝国の屋台骨が傾かなかったのは大宰相ソコリ・メフメト・パシャのおかげでした。スレイマン1世以後はスルタン専制というより、大宰相に代表される官僚支配国家という側面が強くなります。

 オスマン帝国最大の宿敵スペイン・ハプスブルク帝国の事情はどうだったでしょうか?こちらもカール5世が病気で退位し、息子フェリペ2世(在位1556年~1598年)が立っていました。神聖ローマ皇帝こそ従弟でオーストリア大公のマクシミリアン2世に譲ったものの、スペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリア、サルディニア、ミラノを父から継承し南北アメリカ、フィリピンに広大な植民地を有します。実質的なハプスブルク帝国の継承者となったのです。

 オスマン帝国の絶頂期がスレイマン大帝時代なら、スペイン・ハプスブルク帝国の絶頂期はまさにフェリペ2世の治世でした。オスマン朝に海上交易路を脅かされているヴェネチアなど地中海諸国は、カトリックの盟主としてフェリペ2世に期待を寄せます。

 きっかけは1570年、オスマン帝国がヴェネチア領キプロス島を占領した事でした。ヴェネチアは教皇とフェリペ2世に支援を訴えます。これにロードス島から叩き出されていた聖ヨハネ騎士団、地中海に利害関係を持つジェノバ、サヴォィアなどが加わり再びカトリック連合艦隊が結成されました。今回も総指揮官はスペインが出します。ドン・ファン・デ・アウストリアはフェリペ2世の異母弟です。私生児であったため苦労人で軍人としての道を歩みました。なかなか有能な人物だったと云われます。1571年当時24歳という若さでした。

 カトリック連合艦隊は、スペイン艦隊77隻、ヴェネチア艦隊116隻など総勢300余隻、兵力2万2千、大砲1800門。これに対しオスマン艦隊は戦闘艦だけで300隻、兵力2万、大砲2000門とほぼ互角。ただ指揮官ミュエッジン・ザデ・アリーは若い宮廷貴族で実戦経験がほとんどありませんでした。

 両軍は1571年10月7日ギリシャ、コリント湾口のレパントで激突します。カトリック連合艦隊はドン・ファンの旗艦を中心に弓型戦列でオスマン艦隊に突撃しました。コリント湾内にいたオスマン艦隊もこれを迎え撃ちます。激しい戦闘が続く中オスマン軍は乱戦で指揮官ミュエッジン・パシャが討ち取られ大混乱に陥りました。それまではどちらが勝つか全く不明でしたが、総指揮官の戦死でまずオスマン艦隊中央が壊滅。右翼も崩れます。左翼で頑張っていたウルジ・パシャは善戦したものの戦局を覆すまでには至らず血路を開いて撤退しました。

 結局、オスマン艦隊はガレー船25隻沈没、190隻が投降、戦死5千、捕虜2万5千という甚大な損害を出します。一方カトリック連合艦隊側の被害はガレー船12隻喪失、戦死7千5百、負傷7千7百にとどまりました。レパントの勝利によってスペインが地中海の制海権を奪い返したと言われますが、実態は地中海におけるオスマン帝国の拡大路線が頓挫したと言うべきでしょう。甚大な損害を出し、海上におけるオスマン帝国初めての大敗は確かに衝撃でしたが、これでオスマン帝国の屋台骨が揺らぐ事は無かったのです。

 レパントの海戦勝利によってスペイン艦隊は無敵艦隊の称号を得ます。フェリペ2世は得意の絶頂だったでしょう。ところが満つれば欠けるが世の習い。長年の戦争で戦費がかさみネーデルラントに重税を課した事でネーデルラント人の怒りが爆発、独立戦争を起こされます。後にオランダとなるユトレヒト同盟を支援するイングランドを懲らしめるため出撃した無敵艦隊は、1588年アルマダ海戦に大敗、壊滅的打撃を受けます。

 これによりスペイン海上帝国の覇権は消え去りました。レパントの海戦からわずか17年後のことです。1598年フェリペ2世の死と共に『太陽の没せぬ国』スペイン・ハプスブルク帝国も終焉を迎えます。世界史は、スペインから独立を勝ち取ったオランダ、無敵艦隊を破った新興国家イングランドを中心に動き始めるのです。



 世界史の表舞台から辺境になりつつあった、かつての世界帝国オスマン朝。実はもう一度世界の耳目を集めます。次回は第2次ウィーン包囲と帝国の衰退を描きます。

大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(後編)

 『太陽の没しない国』スペイン・ハプスブルク帝国の主カール5世(在位1519年~1556年)。ヨーロッパ随一の経済中心地ネーデルラントを領有し、新大陸からもたらされる莫大な金銀によっておそらく当時世界一富裕だったと思われます。結果論ですが、スペインがこの金銀を国内産業の育成に投じていればスペインは現在も列強の一角として残っていたはずです。

 ところが、カール5世とその息子フェリペ2世はオスマン帝国との戦争に浪費しました。イタリア半島のナポリ王、シチリア王を兼任するカール5世にとって、オスマン朝問題は地中海貿易に関わり他人事ではなかったという事もあったでしょう。しかも実弟フェルディナント1世が大公を務めるオーストリア大公国(ハンガリー王、ボヘミア王を兼任)が直接オスマン帝国と国境を接した事に対する危機感もありました。

 そして何よりも、ヴェネチアやジェノバなど地中海貿易をオスマン帝国に脅かされていた諸国がカール5世に泣きついたのが大きかったと思います。カール5世はカトリック世界の盟主としてオスマン朝との戦争の矢面に立たされました。

 一方、スレイマン1世側はどうだったでしょうか?第1次ウィーン包囲は失敗しましたが、ハンガリーの大半を版図に組み入れほぼ満足できる結果でした。スレイマン1世がフランス王フランソワ1世と結んだように、カール5世はオスマン朝の背後にいるイランのサファヴィー朝タフマースブ1世(イスマイール1世の子)と結びます。この辺り、当時の外交戦のダイナミックさが出ていて興味深いですが、宗教の違いに関係なく列強が国益で動いていた証拠でしょう。

 背後の安全を気にしなければならなくなったスレイマン1世は東方遠征を決意します。1533年スレイマン1世に率いられた大軍はサファヴィー領に侵攻しました。先遣隊がまずアゼルバイジャンを占領、スレイマンの本隊は南下してバクダードを制圧します。その後アゼルバイジャンの重要都市タブリーズに至りますが、直接戦闘するのをサファヴィー軍が避けたためイラクとアゼルバイジャンの大半を占領したことで満足し兵を引きました。

 ところが、サファヴィー軍はオスマン軍が撤退すると出撃し騎兵の機動力を生かしたゲリラ戦、焦土作戦で対抗します。これは強大なオスマン軍に対抗するには有効な策でした。両国の戦争は泥沼状態に陥り数十年続きます。とはいえ、オスマン朝とサファヴィー朝の国力は隔絶していましたからオスマン本国が脅かされる事はありませんでした。

 スレイマン1世は、スペインと戦うため海軍の大拡張に乗り出します。1533年、アルジェを根拠地とする海賊バルバロス・ハイレディンをパシャ(海軍総督)に任命しアルジェリアも帝国の版図にしました。これに対しスペインも黙っておらず、1535年には海軍をチュニスに派遣しここではオスマン軍を破っています。

 両者の海上における直接対決は時間の問題でした。きっかけは1537年ハイレディン率いるオスマン艦隊がエーゲ海、イオニア海におけるヴェネチア共和国の島々を次々と占領した事です。危機感を覚えたヴェネチアは教皇パウルス3世に訴え、教皇の提唱でカール5世を盟主としヴェネチア、ジェノバ、教皇領、聖ヨハネ騎士団から成る連合艦隊が結成されました。指揮官はジェノバ出身でスペイン・ハプスブルク帝国の海軍提督だったアンドレア・ドリア。

 連合艦隊は1538年ヴェネチアの拠点だったコルフ島に集結します。その兵力ガレー船162隻、歩兵6万。当時ヨーロッパでは最大規模の艦隊でした。オスマン海軍もハイレディン指揮の下122隻のガレー船、2万の兵力を集めます。両軍はギリシャ西海岸のプレヴェザで激突しました。数に勝るカトリック連合艦隊の方が有利なはずでしたが、寄せ集めのために纏まりに欠け連絡の不手際から一時兵を引く事になります。そこを見逃さなかったハイレディンは追撃を命じました。撤退の陣形から向き直って戦いの陣形に戻すことは容易ではありません。寄せ集めの艦隊ならなおさらです。結局連合艦隊は、自ら招いた失策によって不利な状況で海戦に突入します。

 連合艦隊は13隻のガレー船が沈没、36隻が拿捕、3千人の捕虜を出しました。損害自体は軽微なものでしたがカトリック連合艦隊が敗北したという事実には変わりなく、以後カールの息子フェリペ2世が1571年レパントの海戦で雪辱するまで地中海の制海権はオスマン帝国が握ることとなります。


 スレイマン1世とカール5世の対決は外交でも続けられ、一説ではフランス王フランソワ1世とその子アンリ2世がドイツ宗教改革を唱えていたルター派諸侯に援助した資金の出所はスレイマン1世だったとも言われます。これが本当だとすると世界史は面白いですね。両者は地中海だけでなく紅海、インド洋でも対決します。もともとスペインやポルトガルが大航海時代で喜望峰回りの航路を開拓したのは地中海貿易をオスマン朝に独占されていたからでした。

 1538年にはポルトガルに脅かされていたインドのグジャラート・スルタン領の救援要請を受けインド洋に艦隊を派遣しています。イエメンの重要港湾アデンを占領したのもこの頃です。ポルトガルはペルシャ湾の出口ホルムズを占領するなどこの方面でもオスマン朝とヨーロッパ勢力との戦いは続きました。


 スレイマン1世はオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。しかしその治世の晩年さしもの名君にも衰えが目立ち始めます。奴隷出身の皇后ヒュッレム・スルタンは残された肖像画を見ると驚くべき美貌ですが、彼女は自分の息子を後継者にするためスレイマンに他のスレイマンの王子たちを讒言、無実の罪を着せて処刑させます。この悪女は1558年死去しますが、彼女の暗躍でイスタンブールの宮廷はガタガタになりました。結局ヒュッレムの子セリム2世が第11代スルタンに即位しますが、スレイマン1世の晩年は暗いものとなります。

 家庭の不幸を忘れるため、スレイマン1世は晩年になっても外征を繰り返しました。1566年神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(オーストリア大公フェルディナント1世の子)が和約を破りハンガリーのオスマン領に攻撃を加えると、報復のため出陣します。遠征の途中、セゲド包囲戦で病を発し没しました。享年71歳。


 スレイマン1世は壮麗者という綽名の他に立法者という名でも呼ばれます。これは彼がオスマン朝の数々の立法や諸制度を整えたからで、生涯で13度の遠征と同時に行っていたのですからまさに超人でした。彼の時代がオスマン朝の絶頂期で、以後緩やかな衰退期に入ります。とはいえ、軍事的にはまだまだヨーロッパ勢力にとって脅威でした。


 次回はオスマン帝国の陰りがはっきりと表れたレパントの海戦を描きます。
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