スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大坂冬の陣の時、大坂城にはどれくらい兵糧があったか?

 先日ブックオフで『戦国の籠城戦』(別冊歴史読本 新人物往来社)という本を買いました。古本は当たり外れが大きいのですが、これは大当たりの部類。月山富田城、三木城、上田城など有名どころの籠城戦と戦国城郭の構造、兵糧事情など有意義な情報が載っていました。

 何を隠そう先日の蔚山城の戦いも元ネタはこれで、私の乏しい知識を補完してくれる良書です。この本の中で山崎合戦前の姫路城の兵糧と金銀、大坂城の兵糧・財政事情が紹介されていました。まず姫路城。本能寺の変で主君信長の横死を受け、備中高松の陣中から姫路までわずか3日で駆け抜けた秀吉の中国大返し。姫路城で1日休息した秀吉は、「どうせ負けたらこの城には帰ってこれない」と覚悟し、城内に蓄えられた金銀を2万の兵士たちにすべて分け与え、士気が上がった兵を引き連れ明智光秀との山崎の合戦に勝利し天下人の道を歩み始めます。

 ではこの時姫路城にはどれくらい兵糧金銀が蓄えられていたのでしょうか?金800枚、銀750貫目、米8万5千石だったと伝えられます。当時の兵士1人の一日米消費量は約5合。計算すると1万5千の兵士が三年間籠城できるという膨大な量でした。金800枚も米に換算すると4万石。秀吉は、三木城攻囲、鳥取城干し殺しにも代表される通り兵站を非常に重視する武将で、鳥取城攻めの際にはあらかじめ若狭の商人に命じ因幡国内の米を通常の倍の価格で買い占めさせました。愚かな鳥取城の兵士は欲に目がくらんで城内の兵糧まで売りに出したそうです。

 このように兵站の重要性を良く知っていた秀吉ですから、心血を注いで築城した大坂城にも膨大な金銀兵糧が蓄えられていたことは容易に想像できます。秀吉の死後、豊臣家を滅ぼそうとした徳川家康もこれを熟知していたからこそ、方広寺大仏殿を再建するよう勧め大坂城の金銀を消費させようとしたのです。それ以外の畿内の神社仏閣の修復も言葉巧みに実行させ、方広寺だけで1775貫目という莫大な金塊が消費されたそうです。これがどれだけの価値か想像もできないのですが、家康は大坂城の黄金をかなり使わせたと思っていました。

 家康が戦端を開いたのは方広寺の鐘の文言に言いがかりをつけたのがきっかけですが、裏を返すと方広寺大仏殿の完成を待って仕掛けたとも言えます。この時大坂城には13万石もの兵糧が蓄えられていました。大坂方は10万人といいますが、換算すると260日の籠城戦が可能です。ところが大坂冬の陣では大坂方はわずか半月で家康の口車に乗り講和しました。その後、約束を反故にされ外堀を埋められ大坂城は裸城になります。続く大坂夏の陣で滅ぼされたのは周知のとおり。

 冬の陣の時戦いは全くの互角、秀吉の築いた大坂城はびくともしなかったのですから少なくとも半年粘れば情勢は変わっていたかもしれません。実は30万集めた徳川方の方が兵糧不足は深刻で、それぞれの大名の自弁でしたから長引けば長引くほど幕府に対する大名の不満がたまり爆発しかねなかったのです。その間に遠くの地方で反乱でも起これば情勢はどう転んだか分かりません。家康は豊臣家を滅ぼすつもりでしたから、わずか半月で講和などあり得ませんでした。

 大坂方が講和に飛びついたのは、淀殿が徳川方の撃ち込む大筒の轟音に驚いたからとも、積極的な浪人衆に対し豊臣家の家臣たちは厭戦気分が蔓延していたからだとも言われます。ただ生きるか死ぬかの瀬戸際、そんな甘いことを言っていては生き残ることはできません。結局、大坂城は長期間の籠城に耐えうる状況でも、中の人間(特に淀殿と秀頼)の無能さで落ちたといえます。結局滅ぶべくして滅んだのが豊臣家だったのでしょう。
スポンサーサイト

蔚山(うるさん)城の戦い 紙一重の勝利

 韓国慶尚南道、日本海に面した人口116万の港湾都市蔚山(うるさん)。ここはかつて朝鮮の役の時加藤清正を大将とする日本軍が明将楊鎬率いる明・朝鮮連合軍5万余を迎え撃ちぎりぎりのところで勝利した蔚山城の戦いがあった場所です。

 蔚山城は、日本軍が朝鮮出兵時に築いた日本式城郭、所謂倭城の一つで、東側の最前線に位置した城でした。倭城は通常日本からの補給に都合が良い港湾都市や海側に近い小高い丘の上に築かれ、総構えで港湾も組み込みます。蔚山城も例外ではなく、海からほど近い太和江に面した標高50mの独立丘陵を主郭部とし周囲に郭を配し、太和江の支流で城の東側を流れる東川に面した小丘陵も取り込んだ城でした。記録では主要部を石垣で囲み、火縄銃の銃撃に都合が良い多門櫓を設けた堅固な城だったそうです。

 ただ築城を始めたのが1597年と遅く、同年12月には早くも敵の攻撃を受けたため未完成のまま戦ったと言われます。この城を担当する加藤清正は、ここから南15㎞にある西生浦倭城を拠点としており、毛利秀元、浅野幸長らの軍勢と共に急ピッチで築城を進めますが、明軍の襲来の方が早く来てしまいました。明軍の将楊鎬は、加藤清正を日本軍一の勇将ととらえており、清正を殺すか捕らえれば日本軍全体の士気をくじくと考えここに5万以上の大軍を集めます。

 当時蔚山城は籠城の準備もろくにできておらず兵糧も10日分しかありませんでした。城兵はわずか2千。通常なら数日で落ちる状態です。西生浦城で急報を受けた清正は、部隊の集結を待っていては間に合わなくなると思い、わずかの手勢を引き連れ太和江から船で急行します。同じく浅野幸長、太田一吉も加わりましたが、浅野幸長、毛利秀元らは築城のため場外で仮営していたところを明軍の先鋒である騎兵1千に急襲されたため大混乱に陥りました。緒戦の戦いで毛利家家臣冷泉元満、阿曾沼元秀、都野家頼らが打ち取られ460名もの死者を出します。

 城外の日本勢は慌てて蔚山城に駆け込みました。タイミングの悪いことに毛利秀元は物資を釜山に運び帰国の準備をしていて不在だったので、城には加藤清正、浅野行長、太田一吉と毛利家の留守部隊のみが籠城します。嵩にかかった明軍は12月23日三方から総攻撃を加えました。日本軍は主郭で加藤清正が総指揮をし、東側の郭を浅野勢が、西側を太田勢が、北側は毛利の留守部隊と加藤勢が守ります。浅野幸長が守る東側の出丸は本丸から離れて孤立しているため、清正は使者を送り郭を放棄して主郭に移るよう命じました。幸長も総構えが崩れそうになったのでこれに同意し部隊を移動させます。この日の明軍の攻撃は激しく総構えは簡単に突破され本丸、二の丸、三の丸の真下まで敵が迫る危機的状況に陥りました。

 加藤清正が自ら鉄砲で撃ちまくるほどの激戦です。後がない日本軍は必死に戦いようやく明軍を撃退しました。この日のために清正は鉄砲隊3百をあらかじめ蔚山城に送り込んでいたことで九死に一生を得たともいえます。その後も明軍は執拗に攻撃を繰り返しますが、戦国時代鉄砲戦術に長けた日本軍は、火縄銃を有効に使用する籠城術を身に着けその都度撃退します。

 戦いは持久戦になりました。するとわずか10日分の兵糧、飲み水も少なかったため日本軍に飢餓が訪れました。日本軍の援軍がいつ来るかに勝負の帰趨がかかっていたのです。籠城開始から10日後の翌1598年1月3日、毛利秀元、黒田長政率いる援軍1万2千が蔚山城南方の高地に到着、長宗我部元親率いる水軍も太和江を遡って着陣したため、明軍は早急に蔚山城を落城させなければ挟み撃ちにされる危険性がありました。

 楊鎬は消極策を述べる幕僚を斬って自ら督戦し最後の総攻撃を加えます。一方蔚山城では援軍の到来に士気が上がりありったけの鉄砲を撃ちまくってこれを撃退しました。明軍は膨大な死傷者を出し、もともと厭戦気分が蔓延していたことから士気が崩壊、総崩れになります。ここを城から打って出た加藤・浅野・太田勢と援軍の毛利・黒田勢で追撃し明軍の遺棄死体1万ともいわれる大勝利をあげました。明軍は多くの部隊長クラスを討たれ、楊鎬は漢城まで逃亡したそうです。

 ただ、この戦いは日本軍にとっても苦い勝利でした。援軍があと数日遅かったら蔚山城は陥落していたでしょう。兵糧はともかく、水不足は致命的でした。後年加藤清正は蔚山城の戦いを反省し、熊本城を築くとき城内に120か所の井戸を掘り、銀杏など食料になり得る木をたくさん植えます。城内の壁や畳にも芋がらなど緊急時の食糧になるものを塗りこんだそうですからよほど蔚山での籠城戦が懲りたのでしょう。

 熊本城は、加藤清正の厳しい経験がもとになって築城されたかと思うと感慨深いものがありますね。

出雲尼子軍記Ⅸ 上月城に消ゆ(終章)

 大黒柱元就を失っても、毛利家は輝元を二人の叔父吉川元春、小早川隆景が補佐し盤石の構えを見せていました。一方、山中鹿助ら尼子再興軍は多くの同志を戦で失い、ある者は毛利方に寝返り、鹿助の叔父立原久綱、娘婿亀井茲矩(これのり)らわずかばかりとなります。陶晴賢を討ち尼子義久を滅ぼした毛利氏は、今や山陰山陽12か国を治める巨大勢力となっていました。これに対抗するにはもっと大きな力が必要でした。鹿助らは、織田信長に期待します。信長は当時畿内をほぼ平定し中国地方の毛利氏への野心を示し始めていました。そのために尼子残党に利用価値を見出したのです。鹿助は織田の重臣柴田勝家を通じて信長への謁見を果たします。勝久と共に信長へ拝謁した鹿助は、武辺好きの信長に気に入られ四十里鹿毛の名馬を賜りました。とりあえずは中国戦線を担当する羽柴筑前守秀吉の配下に組み入れられます。

 尼子一党も参加した秀吉の中国遠征軍は、1577年10月播磨国に攻め込みました。播磨小寺氏の家老黒田孝高(如水)の手引きで御着城の小寺氏、三木城の別所氏ら有力豪族が瞬く間に帰順し11月中にはほぼ播磨を平定、但馬へも進出します。織田軍は播磨国で最後まで抵抗した上月城の赤松政範を攻め滅ぼしました。上月城は対毛利の最前線となるため、秀吉は尼子一党に上月城へ入るよう要請します。敵中に孤立する可能性のある上月城入城は勝久も立原久綱も反対したそうです。しかし鹿助は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と主張し秀吉の申し出を受けました。

 播磨は秀吉が平定したかに見えました。ところが播磨の国人たちは織田家の勢いが強いため表面上従っているだけで、秀吉が高圧的な態度を取るのに反感を抱きます。そこへ毛利氏の調略が及び、1578年2月播磨最大の勢力三木城の別所長治が突如反旗を翻し籠城しました。毛利方は吉川元春、小早川隆景を大将とする5万の兵で上月城を囲みます。

 城兵はわずか5百。秀吉は上月城を救援するため書写山に1万の兵で陣を構えますが、数が違いすぎて遠巻きにするのみでした。秀吉のもとに信長から命令が届きます。「上月城は捨て三木城攻略に専念せよ」ただ、このまま上月城を見殺しにすれば秀吉の評判が地に堕ちます。悩む秀吉は、たまたま上月城を離れ秀吉の陣に連絡に来ていた亀井茲矩を召し出しました。

 秀吉は茲矩に、上月城に忍び入り勝久らに城を脱出するよう勧めよと命じました。若い茲矩の目にもそれが不可能なことは分かります。上月城は長い籠城戦で数多くの負傷兵が出ていました。幹部だけが彼らを見殺しにして脱出できるはずがありません。それにもし脱出したところで、毛利方は城を十重二十重に囲んでおり捕まることは必定でした。秀吉は後世の評判のために上月城を救うポーズを示しているにすぎません。はらはらと涙を流す秀吉の目が決して本心ではないことは容易に見て取れました。しかし秀吉の命令を拒むことはできません。
茲矩は万難を排し上月城に入ります。

 鹿助と会見した茲矩は秀吉の命令を伝えますが、鹿助は寂しく笑うのみでした。勝久を囲み最後の軍議が開かれます。毛利方に使者を送り鹿助、久綱以下重臣全員腹を切る代わりに勝久を助命するよう頼みますが拒否されました。毛利方は逆に降伏の条件として勝久の切腹を求めます。

 その日城では別れの宴が開かれました。席上勝久は「私は僧のまま一生を送るはずであった。それを皆のおかげで尼子の大将となり面白い生き方をさせてもらった。皆に感謝する」と述べます。尼子一党は涙を流しました。

  翌日、勝久は嫡男豊若丸、一族の氏久(晴久の末子と伝えられる)らとともに自害します。享年26歳。これを見届けた毛利方は、鹿助らに殉死を許さず捕らえました。1578年7月5日の事です。鹿助最後の願いは、吉川元春と会見し隙を見て差し違えることでした。ところが毛利方は、鹿助の腹などとうにお見通しで、厳重に警護しながら備中松山城にいる毛利輝元のもとへ連行します。途中、備中国阿井の渡しに差し掛かりました。船を待つため小休止し、鹿助も河原の石に腰掛けます。すると突如背後から斬り付けられました。天野隆重の家来河村新左衛門です。袈裟懸けに斬られ鹿助は重傷を負いました。とっさに川に飛び込んだ鹿助でしたが、毛利方は次々と斬りかかり鹿助は壮絶な斬り死にをします。享年34歳。山中鹿助幸盛、波乱の生涯は甲部川の畔に終焉を迎えました。







 勝久の死、そして鹿助非業の最期で戦国大名尼子氏の歴史は終わります。その後の尼子一党を紹介しましょう。


 まず鹿助と共に捕らえられた叔父立原久綱。毛利方は鹿助ほどの危険人物とは見ていなかったのでしょう。警備が甘かったため脱出に成功、娘婿で蜂須賀家に仕えていた福屋隆兼を頼りました。1613年阿波国で83歳の生涯を閉じます。


 次に亀井茲矩(1557年~1612年)。上月城落城の時秀吉の陣にいて助かった茲矩は、生き残った尼子残党を纏めそのまま秀吉に仕えました。秀吉も上月城を見殺しにした負い目があったのでしょう。また茲矩自身も戦功をあげ24歳の若さで因幡国鹿野城1万3千石を与えられます。関ヶ原では東軍に与し戦後3万8千石に加増。一部ではありましたが、茲矩の下で尼子一党は生き残りました。その後亀井家は、茲矩の子政矩の時代に、石見国津和野4万3千石に加増転封され幕末まで続きます。


 あくまでも伝説ですが、大坂の豪商鴻池の始祖は山中鹿助の遺児新六幸元(直文)だと言われます。鹿助の大伯父山中信直を頼り伊丹に匿われ、成長すると武士の道を諦め酒造業で財を成したそうです。本当なら面白いですね。


 亀井茲矩に嫁いだ鹿助の娘時子は養女で、尼子氏の重臣亀井秀綱の長女でした。はじめ湯氏を称していた茲矩は、時子と結婚することで名門亀井家を継いだのです。



 余談ついでにもう一つ。経久の章で出てきた山中勘兵衛勝重の孫が山中鹿助幸盛です。山中家は尼子氏の勃興と滅亡すべてに関わっていたことになりますね。



                                 (完)

出雲尼子軍記Ⅷ 尼子再興軍の戦い

 山中鹿助幸盛(1545年~1578年)。尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に誓ったというエピソードが有名です。講談などでは鹿之介という名前で広く人口に膾炙しています。尼子家の遺臣は、主君義久が1566年毛利元就に降伏した後四散しました。鹿助は叔父立原源太兵衛久綱とともに京都に潜伏します。そこで尼子家の血を引く一人の若者を見つけました。彼はかつて尼子晴久に粛清された新宮党尼子誠久の五男で唯一生き残った孫四郎でした。

 鹿助らは孫四郎に尼子家再興の希望を託し還俗させます。孫四郎は元服し勝久と名乗りました。勝久を擁した鹿助、久綱らは秘かに隠岐島に渡ります。そこで尼子の旧臣に連絡を取り兵を集めました。その鹿助らにまもなく最大の機会が訪れます。

 1568年、毛利元就は筑前・豊前の支配権をめぐって豊後の大友宗麟を討つため全力をあげ北九州に出兵します。元就は宗麟との間で陶晴賢を討つとき密約し旧大内領の分割を決めていました。おそらく毛利が周防・長門、大友が筑前・豊前を取るという約束だったと推定されますが、いざ陶晴賢を討って防長を平定すると、元就は大友氏に筑前・豊前を譲るのが惜しくなったのです。というのも防長二国は30万石程度しかありませんが、筑前・豊前は合わせて80万石を超える石高を有し大内領国の経済的中心地だったからです。国際貿易港博多があるのも大きかったでしょう。

 元就は筑前豊前の大友方国人を調略し切り崩しを開始します。これに大友氏の重臣高橋鑑種までもが加わりました。元就は次男吉川元春、三男小早川隆景に大軍を授けこれを助けます。筑前・豊前で毛利勢と大友勢は激しく戦いました。宗麟は重臣立花道雪を派遣し鑑種を討たせます。さすがの毛利氏にとっても大友宗麟は侮りがたい敵でした。戦いは泥沼の様相を呈します。毛利勢主力が北九州に渡り後方の山陰地域が空白になったことを知った鹿助は、同年6月尼子旧臣を糾合し出雲に上陸しました。

 鹿助が上陸すると隠れていた尼子方諸将が次々と集まり6千を数えるようになります。尼子再興軍は新山城を攻略し末次城(松江市末次町)を築城、出雲奪還の本拠地としました。尼子再興軍はまたたくまに16の城を奪還し月山富田城に迫ります。尼子方の蜂起は伯耆や美作にも拡大し、毛利氏は危機に陥りました。ただ毛利の月山富田城留守居役天野隆重は寡兵良く守り尼子再興軍を寄せ付けませんでした。

 毛利氏にとって泣きっ面に蜂だったのは、大友宗麟が大内義興の甥で豊後で保護していた輝弘に手勢を授け1568年9月大内家再興を掲げさせ周防に上陸させたことでした。出雲で尼子再興軍、周防長門では大内輝弘が暴れまわり、北九州どころではなくなります。元就は憤懣やるかたないところですが、元春、隆景の北九州遠征軍を呼び戻さざるを得なくなりました。これを見ると大友宗麟もなかなかやるなと思いますが、毛利氏が去り筑前・豊前は宗麟のものとなります。宗麟は九州探題となり筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後6か国の守護を兼任する大勢力に成長しました。単純計算で総石高240万石余。ただ宗麟の絶頂期も竜造寺、島津の台頭で長くは続きません。

 毛利勢は、まず大内輝弘の反乱軍を長門長府に追い詰め1569年10月自害させます。翌1570年2月元就は自ら大軍を率い尼子再興軍を滅ぼすべく出雲に入りました。尼子再興軍にとって難攻不落の月山富田城を奪回できなかったことが致命的になります。2月14日、布部川の戦いで元就率いる毛利の大軍と激突した尼子再興軍は大敗を喫しました。以後再興軍は衰退し、追い詰められていきます。

 1571年6月、元就が75歳で死去し尼子再興軍は一時盛り返しますが、大勢は既に決していました。同年9月、尼子再興軍最後の拠点新山城が落城。尼子勝久は脱出に成功しますが、山中鹿助は吉川元春の手勢に捕らえられました。元春は鹿助の器量を認め自分に仕えるよう求めますが鹿助はこれを拒否。尾高城に幽閉されます。

 鹿助は、何度も厠に行って城兵を油断させ厠を伝って脱出に成功しました。鹿助は一旦隠岐に逃れ但馬に渡ります。すでに尼子勝久は但馬に至っており、ここに尼子再興軍は再び集結しました。鹿助らが狙ったのは隣国因幡です。因幡は尼子勢力圏で守護山名氏の勢力が衰え権力の空白地帯となっていました。尼子再興軍は因幡を制圧し伯耆、出雲と逆襲に転じようと考えます。その為に日本海の海賊奈佐日本助を味方に引き入れるなど着々と準備を進めました。

 当時因幡国は、守護山名氏の勢力が衰えその重臣鳥取城主武田高信が実質的に支配していました。高信は月山富田城の戦いの章で出てきた武田常信の子です。因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と言われ、因幡守護山名豊数と合戦して追放し毛利氏と結んで国を乗っ取りました。因幡山名家は豊数が死に弟豊国が継ぎます。鹿助らは豊国を奉じこれを大義名分として因幡国に攻め込みました。1573年の事です。

 尼子再興軍はわずか千人余りでしたが、お家再興の悲願に燃え5千の武田軍を甑山城の戦いで撃破。同年9月にはなんと鳥取城を攻略、豊国を城に入れます。高信は城を明け渡し鵯尾城に引きました。尼子一党の力で鳥取城を取り戻した豊国ですが、毛利との対決を主張する尼子一党を次第に疎んじ始めます。彼にとっては因幡国を取り戻す事だけが重要で、強大な毛利氏との対決など迷惑だったのです。

 尼子再興軍は私部城を本拠に四方を攻略し兵力も3千余りに拡大しました。ところが同年11月、山名豊国が毛利方の調略に屈し寝返ってしまったのです。すでに因幡国内で毛利方と合戦を始めていた尼子再興軍は背後にも敵を抱える危機に陥りました。但馬守護で尼子再興軍の因幡入りを支援していた山名祐豊ですら毛利氏と和睦するという最悪の状況になり、尼子再興軍は進退窮まりました。

 1575年6月、毛利氏は吉川元春、小早川隆景率いる4万7千もの大軍を因幡に送り込みます。尼子再興軍の息の根を止めるためでした。1576年5月、毛利方の圧力に耐えられなくなった尼子再興軍は最後の拠点若桜鬼ヶ城から退去します。二度目の尼子再興運動も潰えました。またしても浪々の身となった鹿助たち。ただ、彼らとて望みを捨てたわけではありません。鹿助らが頼ったのは上洛を果たし天下統一の道を邁進していた織田信長。



 毛利との最後の決戦は迫っていました。次回最終回『上月城に消ゆ』で彼らの最後の雄姿を見ていきましょう。

出雲尼子軍記Ⅶ 尼子氏滅亡

 毛利元就が陶晴賢を滅ぼして旧大内領の併呑を進めている頃、尼子晴久はどう動いていたでしょうか。大寧寺の変の翌年1552年、13代将軍足利義輝により山陰山陽八か国の守護は追認され、従五位下修理大夫に昇りました。幕府相伴衆にもなり、対外的にはその威勢はいまだ健在とも言えます。因幡、美作に出兵し1553年には備前守護代浦上宗景、美作三星城主後藤勝基ら1万5千の兵を撃破して備前天神山城まで進出するなど依然として中国地方では強大な力を有していました。この時晴久が率いた兵力が2万8千を数えたことでもそれが分かります。

 安芸・周防・長門を平定し備後、石見に進出しつつあった毛利元就も、尼子氏とまともにぶつかっては不利だと悟ります。そこで元就は尼子氏の軍事力の中核である新宮党の排除を画策しました。元就は出雲に数多くの間者を放ち新宮党が毛利氏と内通し晴久を倒そうとしていると噂を流させます。新宮党は経久の次男国久を棟梁とする一族で確かに軍事的功績を鼻にかけ尼子家中では嫌われていました。元就はさらに念を押します。吉田郡山城攻めで戦死した経久の弟下野守久幸の子経貞を抱き込んだのです。冷遇されていた経貞はこれに飛びつきました。

 もともと叔父国久一党の横暴を苦々しく思っていた晴久は、経貞の讒言を信じ秘かに近臣を集め新宮党討伐の命を下します。1554年11月1日、尼子家の旧例通り来年の方針を話し合う評定が月山富田城で開かれました。晴久は病気と称し評定に出てきません。異様なことに料理も出ず新宮党の棟梁国久は嫡子誠久とともに退座し帰途に就きます。すると道の先に晴久側近の大西十兵衛、本田豊前守らがいました。国久が黙礼して通り過ぎようとすると、「上意である」と叫んで大西らがいきなり斬りかかります。抵抗する暇もなく国久は誠久共々凶刃に倒れました。

 生き残りが新宮党の館に駆け込んだため、騒然となります。新宮党の面々は急ぎ籠城の準備をしますがこの時すでに尼子方の追手によって屋敷は囲まれていました。戦いは壮絶を極めます。同じ尼子家中、親兄弟や親戚が殺しあうのです。晴久は新宮党を滅ぼすため5千も集めたそうですから、それだけ新宮党の武勇を恐れていたのでしょう。夜が明けるまでに新宮党は国久の三男敬久以下一族郎党ことごとく討ち果たされました。いや、ただ一人誠久の五男でまだ幼児だった孫四郎(後の勝久)だけが乳母に抱かれ落ち延びます。孫四郎はまず備後の徳分寺を頼り、成長後京の東福寺に上り僧となりました。

 新宮党の討伐は後味の悪いものとなります。いくら国久に専横の振る舞いがあったとはいえ、新宮党は尼子氏の軍事力の中核でした。これを失ったことで尼子氏の力は急速に衰えます。元就は、待っていたかのように1558年本格的に石見に進出しました。ただ晴久存命中は毛利氏も石見銀山を奪うことはできませんでした。

 1561年1月9日、尼子晴久は病を得て47年の生涯を閉じます。大黒柱の早すぎる死でした。家督は嫡男義久(1540年~1611年)が継ぐも、父ほどの器量は無く尼子家の将来に暗雲が漂います。尼子と毛利の軍事バランスが崩れたことで、毛利勢は尼子領への侵略を激化させました。義久は将軍義輝に請い毛利との和睦を図りますが、元就は最初から無視し攻撃を緩めなかったため無駄骨に終わります。

 1562年、元就は次男吉川元春、三男小早川隆景と共に1万5千の兵を率い出雲に雪崩れ込みました。元就の嫡男隆元は尼子攻めに従軍途中1563年病を発し安芸国佐々部で急死します。41歳でした。毛利家家督は隆元の子輝元と定められます。第二次月山富田城攻め(第一次は大内義隆)は長引きます。それだけ難攻不落だったのです。元就は白鹿城など富田城の重要な支城を攻め孤立化を進めました。同時に尼子家中に調略の手を伸ばし次々と寝返らせます。尼子氏累代の重臣亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏までが元就に降伏するという惨状でした。元就の兵糧攻めと味方の裏切りで城内の士気は衰えます。

 それでも一年以上籠城できたのですから月山富田城がいかに堅城だったか分かります。元就の調略は凄味を増し、義久は疑心暗鬼から経久以来の忠臣宇山久兼まで無実の罪で誅殺してしまいました。1566年11月28日、義久はついに降伏を決断します。山中鹿助幸盛ら若手の強硬派は降伏に大反対したそうですが、尼子家中には厭戦気分が蔓延し大勢は覆りませんでした。

 開城した義久は、弟倫久、秀久と共に安芸国に護送され円明寺に幽閉されます。山中鹿助らは同行を願い出ますが、元就に拒否されました。さすがの元就も、義久を殺すのは後味が悪かったのでしょう。ここまでさんざんえげつない策謀をやってきた負い目もあったと思います。義久らは毛利家の客分となり関ケ原後毛利輝元が防長二州に転封となるとこれに従ったそうです。義久の降伏で戦国大名としての尼子氏は滅亡しました。







 しかし、尼子氏の歴史はまだ終わりません。新宮党唯一の生き残り勝久がいます。そして浪人となった山中鹿助ら尼子の遺臣たち。次回『尼子再興軍の戦い』ご期待ください。
FC2カウンター
リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
カレンダー
06 | 2018/07 | 08
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール

鳳山

Author:鳳山
FC2ブログへようこそ!

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。