隋唐帝国13  唐の滅亡(終章)

 最盛期には支那本土はもとより、朝鮮半島北部、満洲(高句麗の故地)、モンゴル高原、西域にまで勢力を広げ当時の世界帝国だった唐。もちろん支那本土以外は、領土というより唐を盟主とした緩やかな統合ではありましたが、安史の乱勃発により唐は海外に目を配る余裕がなくなりました。

 751年と言えば玄宗皇帝の時代で安史の乱勃発の直前ですが、遠く中央アジア、キルギス共和国にあるタラス河畔で重要な戦いが起こります。唐軍は安史の乱でも出てきた高句麗系の将軍高仙芝率いる6万。相手は当時日の出の勢いだったイスラム帝国の将軍イブン・サーリフ。イスラム軍は10万とも20万だったとも言われます。タラス河畔の戦いは唐軍の大敗に終わり、この結果唐軍の捕虜の中に製紙技術者がいたことから中東や欧州に製紙法が伝わるきっかけとなりました。

 安史の乱で弱体化がはっきりしてきた唐を見て、周辺民族はこれを侮るようになります。それまで天可汗として崇めてきたのが、実態を知りしばしば侵入を繰り返しました。特に安史の乱平定に功績のあった北方遊牧民族ウイグルは、恩賞の不満もあり毎年のように侵入、略奪を繰り返します。中央政府は何もできず、自然節度使の力が増大し軍閥化していきました。

 律令体制は国家体制がしっかりしていなくては運営できず統治能力が弱体化、再び豪族が台頭し大土地所有をはじめます。このあたり日本の律令体制崩壊、荘園化の流れとそっくりでした。軍閥化した節度使、大豪族、富豪と一般庶民の貧富の差はますます拡大します。豪族の大荘園は国家の介入を拒否し税金も収めなくなりました。国家財政が急速に悪化した唐は、塩や鉄など生活必需品の専売制を強化し乏しい税収を補おうとします。

 こうなるとますます庶民の生活は苦しくなります。政府か税金を加算し値段を管理している高い塩など買えなくなり、闇商人が横行しました。そんな密売人の一人に山東出身の黄巣という人物が登場します。874年、同じ闇商人王仙之が河北で挙兵したのに呼応し山東で蜂起した黄巣も反乱に加わりました。唐政府が闇商人を弾圧し、彼らも生きられなくなっていたのです。黄巣は反乱の中で頭角を現し、指導的立場となりました。

 これを黄巣の乱(875年~884年)と呼びます。当時の庶民は重税にあえぎ生きるか死ぬかという状況に追い詰められていましたから、反乱軍はたちまち数万に膨れ上がります。唐の中央政府は愚かにも反乱軍の首謀者を懐柔し官職でも与えれば収まると工作しますが、現実を認識できない甘すぎる対応でした。王仙之は唐朝の懐柔に乗り反乱軍は分裂します。王仙之は結局唐に騙され敗死しました。黄巣達反乱軍主力は、豊かな物資のある江南に転戦し12万という大軍に膨れ上がります。880年には唐王朝の首都長安すら陥落しました。

 第21代僖宗皇帝は、安史の乱の時のように蜀に逃亡を余儀なくされます。黄巣は長安で帝位に就き国号を斉としました。そして安史の乱のときと同じく、寄せ集めの農民反乱で国家を運営できる人材がいなかったため乱脈な政治を行い内紛により分裂します。

 黄巣軍の幹部の一人朱温は、儒家の家に生まれある程度学問があったためでたらめな黄巣の政治を見て見限りました。ちょうど唐朝から帰順の誘いがあったことから部下と自分の軍を率いて寝返ります。同じ頃山西にいた突厥沙陀部の首長李克用にも唐朝は莫大な贈り物を贈り背後より黄巣軍を衝くよう要請しました。

 反乱鎮圧に異民族の力を借りればその後どうなるか安史の乱の時のウイグルで懲りているはずですが、背に腹は代えられなかったのでしょう。李克用は雁門節度使に任じられ、朱温は僖宗から『全忠』の名前を貰い官軍となります。統治能力を欠いた黄巣は、唐軍と剽悍な遊牧民沙陀族の騎兵、唐に帰順した朱全忠の連合軍に攻められ長安から叩き出されました。

 884年5月、河南省中牟県にある王満渡の決戦で黄巣軍は壊滅的打撃を受け四散します。黄巣は故郷山東に逃げ帰ろうとするも泰山付近で追手に追いつかれ自害。その残党は李克用と朱全忠の軍によって鎮圧されました。黄巣の乱平定に功があった李克用と朱全忠、両雄並び立たずの格言通り次第に対立を深めます。唐王朝は成すすべもなく二人の実力者の闘争の行方を見守るしかありませんでした。

 両雄は、何度も戦いました。李克用は片目が極端に小さい異相で、独眼竜の綽名を持ちます。彼の指揮する精強な沙陀族の騎馬軍団は、甲冑も戦袍も黒一色に染め上げ鴉軍(あぐん、鴉はカラスのこと)と呼ばれ恐れられました。一方、朱全忠は数こそ多いものの支那の伝統に則った歩兵中心の軍だったため鴉軍に押しまくられます。

 戦一辺倒の李克用に対し、朱全忠は狡猾でした。戦で勝てないのなら政略で勝とうと、904年唐王朝第22代昭宗(僖宗の弟)に圧力をかけ、自分の根拠地に近い洛陽に強引に遷都させます。これを見ても当時の唐朝が何の力もなく、有力軍閥の傀儡化していた事が分かります。すでに実質的には滅亡したも同然ですが、その昭宗でさえも904年8月、邪魔になった朱全忠によって殺されるのです。朱全忠は操り人形として昭宗の9男哀宗を擁立しました。

 これは禅譲のために擁立しただけに過ぎず、905年朱全忠は何も知らない少年皇帝哀宗から皇帝の位を奪い即位しました。これが五代十国の始まり後粱です。後粱の太祖となった朱全忠は開封を首都と定めます。後顧の憂いを断つため廃帝哀宗はじめ唐王朝の李氏一族全員を皆殺ししました。唐王朝滅亡です。




 後粱は、唐から簒奪したとはいえ勢力範囲は中原を中心に河南、山東、陝西だけに過ぎず河北では李克用が唐王朝の衣鉢を継ぐと称し後唐を建国しました。後唐も五代の一国で、両者は同時に存在していた事になります。やがて後粱は後唐に滅ぼされ、後晋、後漢、後周と続きました。そして趙匡胤によって宋が建国され分裂した支那大陸はようやく統一されるのです。その年は、唐王朝滅亡の905年から55年後の960年。


 五胡十六国時代から変容した支那社会。宋が統一したのは従来の漢人社会ではなく北方遊牧民の侵入によって大きく様変わりした支那大陸だったと言えます。



                                 (完)
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隋唐帝国12  安史の乱

 唐の政治体制と言えば律令格式です。土地制度としては均田制・公地公民。税制は租庸調。軍事は府兵制。実は均田制というのは北魏から始まったもので、土地を国家の所有とし民衆にそれを貸し出し、対価として税を徴収するというシステムでした。これらは遊牧民族独特の社会制度が基となっており、その意味でも唐が遊牧民族鮮卑族の国である事が分かります。

 武韋の禍によって存亡の危機に陥った唐王朝。聡明であった則天武后は、権力闘争と国家運営を区別する最低限の良識はありました。ただ晩年、耄碌から来たのか寵臣に政治を投げ出し国政を蔑ろにした事でクーデターを招き引退を余儀なくされます。一方、則天武后ほどの頭がない韋后は、自分の権力維持のために一族を枢要な地位に据え好き勝手な政治をしたために唐の国家体制はがたがたになりました。

 韋后が自分の権力維持のために実の夫中宗を毒殺し傀儡皇帝を擁立した事は唐王朝の将来を憂う者たちにとって我慢の限界を超えます。その中の一人廃帝睿宗の三男李隆基は、則天武后の娘(睿宗の妹、李隆基の叔母)で権力の中枢から遠ざけられ不満を抱いていた太平公主と結び710年クーデターを敢行しました。韋氏一族の政治は民衆から恨まれていたため簡単に成功し韋后は反乱軍に斬られます。その一族もことごとく粛清されました。

 最初李隆基は、もし反乱が失敗したら父睿宗にも迷惑がかかると恐れ黙って実行します。クーデター成功後恐る恐る父の前に出ると、睿宗は「お前のおかげで助かった」と抱擁しながら涙を流して喜んだそうです。睿宗は復位し、隆基もこのたびの功績から三男にもかかわらず皇太子になりました。

 睿宗が復位した後、今度は太平公主が政治に口を挟むようになります。聡明な李隆基が居ては自分が母則天武后のように権力を握れないと焦った彼女は、睿宗に讒言しました。しかし、武韋の禍ですっかり懲りていた睿宗は、再び国政に混乱を招かないように712年さっさと隆基に皇位を譲って引退してしまいます。この時李隆基28歳。すなわち唐第9代玄宗皇帝(在位712年~756年)です。

 713年、クーデター成功に貢献した功績を盾に政治に口を出し王朝の癌細胞になっていた太平公主を玄宗は逮捕します。太平公主とその一党を処刑しようやく自らの政治を始める事ができました。姚崇や宋璟ら有能な人材を抜擢し、悪政で乱れた政治を立て直します。太平公主一派を粛清した713年、年号は開元と改元されました。玄宗の治世は、これにちなんで開元の治と称され太宗の貞観の治と並んで唐王朝が安定した時期だと評価されます。

 ところが、さすがの玄宗もその晩年政治に倦むようになります。737年寵妃武恵妃が亡くなってからは特に顕著でした。740年玄宗55歳の時一人の美女を見染めます。彼女は実の息子寿王李瑁の妻でした。欲望に負けた玄宗は寿王から妻を取り上げ自分の愛妾にしたのです。彼女の名は楊玉環。すなわち楊貴妃でした。父に自分の妻を奪われた寿王ですが、絶対権力者の皇帝に逆らう事はできず泣き寝入りします。別の女性を宛がわれますが失意の中775年世を去りました。

 父の側室を強引に妻にした高宗、息子の嫁を奪った玄宗、現代の我々から見るとおぞましい話ですが、実は支那の歴史ではよくあることで有名な臥薪嘗胆の故事も楚の平王が息子の太子建から妻を奪ったのが発端でした。楊貴妃を得た玄宗はますます政治を顧みなくなります。それでも宰相李林甫が生きている間は何とか回っていましたが、彼の死後宰相になった楊国忠は楊貴妃の従兄というだけの男で無能だったため政治は乱れます。

 その玄宗と楊貴妃に取り入って出世したのが安禄山でした。康国(サマルカンド)出身でソグド人と突厥人の混血だったと言われます。安禄山とはアレクサンドロスの漢訳でしょう。このように唐王朝は国際色豊かな宮廷で日本の阿倍仲麻呂が出世しても違和感ありませんでした。もともと唐の帝室自身が鮮卑族ですから、こだわりもなく有能な人材なら異民族でもどんどん登用したのです。

 唐は、辺境を守るために節度使を置きます。節度使は律令体制から外れた令外官で、藩鎮という軍管区を持ち軍事と政治を司りました。最初は辺境のみに置かれますが、唐の政治が乱れるにつれ節度使は増やされ内地にも設けられるようになります。安禄山は范陽節度使、平盧節度使、河東節度使を兼任し河北で20万の大軍を指揮する唐王朝最大の節度使でした。

 安禄山は玄宗皇帝、楊貴妃に巧みに取り入りついには楊貴妃の養子になってしまいます。もちろん安禄山の方が楊貴妃より年上で異常な関係でした。史家の中には楊貴妃と安禄山が密通していたのではないかと見る者もいます。安禄山は大きな野望の持ち主でした。755年、賄賂を朝廷の高官(その一人は宰相楊国忠)に送り便宜を図ってもらっていた嫌疑を受け玄宗に召集されそうになった安禄山は、腹心の史思明(ソグド人と突厥人の混血で安禄山と同郷)と語らいついに反乱を起こします。これが世に言う安史の乱の始まりでした。

 突厥に代わり台頭したウイグルと最前線で対峙していた安禄山の軍と中央で平和の慣れた唐軍では勝負になりません。挙兵1ヶ月で副都洛陽が陥落。この期に及んでも玄宗は安禄山の反乱を信じなかったそうですから驚きます。ようやく玄宗は高仙芝(高句麗系)らを討伐軍の大将に任じ安禄山を防がせますが、時すでに遅く関中への侵入を防ぐ最終防衛線潼関は破られ都に逃げ帰った高仙芝らは処刑されました。

 代わって防衛軍を任せられたのは隴右節度使、突厥人の哥舒翰(かじょかん)。安禄山の軍に唯一対抗できる人材でしたが、数と勢いの差は如何ともしがたくこれも敗北します。河北では書家でも有名な顔真卿と一族の顔杲卿が挙兵しますが簡単に粉砕されました。関中への最終防衛線潼関が抜かれた事で長安の宮廷はパニックに陥ります。玄宗は首都を捨て蜀(四川省)に逃れようとしました。

 安禄山は奸臣楊国忠を討つという大義名分を掲げていたため、楊国忠、楊貴妃はじめ楊氏一族へ対する風当たりが強くなります。玄宗一行が馬嵬(陝西省興平市)に着いた時、付き従っていた兵士たちは楊一族の処刑が無ければ従軍を拒否すると玄宗に要求しました。背に腹を変えられない玄宗は泣く泣く処刑を容認します。楊貴妃に対しては宦官高力士に命じて縊り殺させました。楊国忠はじめ楊氏一族もことどとく処刑されます。

 楊貴妃自身に罪は無かったと思います。則天武后や韋后のように国を乗っ取ろうという野心はなかったはず。しかし運命のまま流される弱い性格が今日の悲劇を生んだのです。確かに傾国の美女ではあったのでしょう。私は春秋時代の夏姫と似た要素を感じます。

 さて首都長安を陥れた安禄山ですが、無計画に反乱を始めた彼らに国を統治する意思も能力もありませんでした。もし天下統一の意思があるなら逃げだした玄宗一行を追撃し殺すべきなのです。愛する楊貴妃を殺され失意の玄宗は756年退位して皇位を皇太子に譲りました。すなわち第10代粛宗(在位756年~762年)です。唐軍は将軍郭子儀を中心に纏まり反撃の態勢を整えました。粛宗はウイグルに使者を送り背後から安禄山を攻撃するよう要請します。

 唐軍とウイグル軍が南北から迫る中、安禄山軍は愚かにも内紛を始めました。大燕皇帝に即位した安禄山が息子皇太子安慶緒の廃嫡を言いだした事から、怒った息子に暗殺されてしまいます。これに怒った盟友史思明は范陽に戻って自立しました。今度は安慶緒と史思明が戦争を始めました。結局史思明が759年勝ち安慶緒を殺しますが、その後息子史朝義と不仲になり息子に殺されました。

 自滅するかのように弱体化した反乱軍は、唐とウイグルの連合軍に敗れ762年10月重要拠点洛陽を奪還されます。すでに粛宗は逝去し代宗の御世になっていました。范陽に逃れ再起しようとした史朝義は763年正月唐軍に追いつかれ自害します。こうして長きに渡った安史の乱は終結しました。が、唐の国力は大きく衰え、反乱鎮圧に功績があったウイグルに苦しめられることになります。吐蕃と契丹も唐の弱体化で台頭。同じく功績のあった将軍たちへの論功行賞で節度使を乱発したために中央集権体制が崩れ節度使は軍閥化しました。

 玄宗皇帝は唐帝国中興の祖と言われますが、同時に唐帝国滅亡の遠因を作った皇帝でもありました。彼の欲望が国を傾けたのです。傾国の美女楊貴妃が悪いのか、それとも彼女に溺れた玄宗が悪いのか、言うまでもないでしょう。





 唐はその後150年続きますが、874年に起こった黄巣の乱で完全に止めを刺されました。次回最終回、黄巣の乱の顛末と唐の滅亡を描きます。

隋唐帝国11  武韋の禍(ぶいのか)

 唐三代皇帝高宗(在位649年~683年)といえば、663年には白村江の戦いで日本・百済連合軍を破り668年には新羅と同盟し懸案の高句麗を滅ぼすなど対外的には唐の国威を大きく上げた皇帝です。ところが実際の政策は小利口な官僚や有能な軍人が成した成果で、高宗本人の資質はむしろ劣っていました。父太宗が貞観の治で作り上げた国力の上に乗っかっていただけという厳しい見方もあります。

 彼の資質を象徴するのは、武皇后の冊立でしょう。武皇后すなわち武照は実は父太宗の側室でした。太宗は最初溺愛しますが、武照が聡明だった事を警戒し将来唐室の災いとなるのを恐れ遠ざけます。ところが皇太子時代から高宗は武照と通じ、父太宗が亡くなり彼女が慣例通り出家していたのをわざわざ還俗させ皇后にしました。

 義理とはいえ父の愛妾は義母に当たります。それと通じるのも言語道断ですが、父の死後自分の側室にするのは畜生にも劣る行為でした。実は支那史上こういう皇帝は何人か出ており楊貴妃を召しだした玄宗皇帝もその一人だったのです。ですから魏徴が守成の方が難しいと主張したのも私は納得できます。絶対権力を握った皇帝は、自らが律しないと他から律されることはないのです。

 高宗の後宮に上がった武照は、王皇后と蕭淑妃の対立を上手く利用し陰謀の限りを尽くして皇后に立てられました。かつて太宗が唐室の混乱の元凶となるとして自分の死後武照に死を賜るよう遺言したそうですが、その危惧は当たったわけです。一旦皇后になると、武照は無能な高宗を尻に敷き反対者を次々と粛清しました。

 廃された王皇后、蕭淑妃を処刑、初唐三大家として有名な褚遂良(書家・政治家)などは高宗に諫言した事で武照の怒りを買い左遷されます。高宗は意志薄弱で武照の思うがままでした。武照自身、自分の権力を維持するためには有力者を排除することが最優先だと承知します。太宗の皇后を出した外戚長孫氏一族は追放され、狄仁傑・姚崇・宋璟など身分の低いものを抜擢し側近にしました。

 武照に引き上げられたという事で佞臣というイメージがありますが、狄仁傑は剛直の士としてむしろ武照の暴走を抑える役割でした。武照とて馬鹿ではなく、政治が乱れると国民の不満があがり自分の権力が危うくなると知っていたのでしょう。有能な人材を抜擢したという事は、権力奪取の混乱は自分と唐王室の周辺だけに留め国政にまで影響を及ぼさないという方針だったと思います。

 いくら無能でも、自分が蔑ろにされている事は高宗にも分かります。そしてついに癌である武后廃立を決意しました。が、愚か者ゆえに計画はすぐ露見し武后に毒を盛られ失明します。失意の高宗は683年亡くなりました。高宗の死後、高宗と武后の子の中宗が即位。ところが中宗の皇后韋氏が自分の血縁者ばかり登用するのを気に入らず中宗を廃位してしまいます。同じく自分の子睿宗を即位させ垂簾聴政(すいれんちょうせい)を続けました。

 垂簾聴政とは、皇帝が幼い時その母である皇太后が摂政として政治を行う事を指します。彼女の権力欲は止まるところを知りませんでした。690年、息子睿宗を皇太子に格下げし自分が皇帝に即位するという暴挙を行います。これが則天武后です。国号を『周』とし聖神皇帝と称します。逆らうものは次々と殺され、または左遷されました。このままでは唐王朝は滅亡し周となるのも時間の問題となります。

 権力の妄執に取りつかれた則天武后ですが、彼女が晩年重用した張易之・昌宗兄弟が横暴を極めたため人心は離れました。唐王朝の遺臣たちも復讐の機会を待ち続けます。705年宰相張柬之は則天武后に廃された中宗をひそかに迎え兵を上げます。すでに則天武后の政治は民衆に憎まれていたため、味方する者はなく反乱軍によって張兄弟は捕えられ斬られました。こうなると則天武后も成すすべはありません。さすがに中宗の実の母なので殺すわけにもいかず、則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して引退させました。

 こうして再び中宗は皇帝に返り咲きます。ところが今度は中宗の皇后韋氏が力を持ち始め国政を壟断するようになります。則天武后も韋氏の中に自分と同じような資質を発見したからこそ中宗を廃位したのでしょう。韋后は一族を国家の枢要な地位に就け反対者を排除しました。韋后は淫乱でもあったと言われ710年その行為が発覚しそうになります。追及される事を恐れた韋后は、同じく暴政仲間の娘安楽公主とともに中宗を毒殺してしまうのです。

 則天武后は確かに悪女ですが、少なくとも民生の安定には努めました。ところが韋后は自分の欲望のままに行動し暴虐な事も平気で行います。則天武后と韋后の時代は、武韋の禍と呼ばれ唐王朝滅亡の危機でした。このまま唐は滅亡するのでしょうか?

 次回玄宗皇帝の開元の治と唐王朝を揺るがせた安史の乱について語りましょう。

隋唐帝国Ⅹ  貞観の治

 皇太子李建成は決して無能な人物ではありませんでした。623年には群雄の一人劉黒闥(りゅうこくたつ)を河北館陶(現在の河北省邯鄲市近く)で撃破し滅ぼすなど軍功もあげています。ところが弟李世民があまりに有能すぎたため功を上げても霞んだのは事実でした。

 そういう彼の心の闇に接近したのが弟李元吉です。元吉は、あることないこと建成に吹き込み李世民が謀反を企んでいると信じさせることに成功しました。李建成は李元吉とともに父高祖のもとに参内し訴えます。最初は高祖も信じませんでしたが、高祖自身も息子でありながら自分の声望を上回る李世民に対し劣等感があったのかもしれません。二人に押し切られ李世民を除く事を黙認しました。

 まず李建成は、世民の力をそぐために謀臣房玄齢と杜如晦を遠ざけます。宮廷内の不穏な動きは李世民の秦王府にも届いていました。李世民は諜者を放ち李建成・李元吉一派の陰謀を察知します。そこで逆襲を決意し、626年6月4日皇太子李建成、弟李元吉が宮中に参内する途中玄武門で襲いました。一応建成陣営も用心して護衛兵を多数従えていたそうですが、李世民陣営が宮中の警備兵を抱き込んでいたため多勢に無勢、二人は討たれてしまいます。これが玄武門の変です。

 陰謀に加担していた者はその日のうちに捕えられ斬られました。李世民は事件の顛末を父高祖に報告します。父が黙認していたとははっきり言わなかったものの、李世民の静かな態度は逆に高祖には圧力となりました。結局、高祖は李世民に帝位を譲る事に同意します。太上皇に祭り上げられた高祖は隠棲し635年71歳で崩御しました。

 実の兄弟を殺し父から帝位を簒奪した形になった李世民は、この事件を生涯気に病みます。後世暴虐な皇帝との誹りを受けないためにも善政に努めました。これが支那史上屈指の名君と称えられる唐の太宗(在位626年~649年)です。彼の治世は、時の年号から貞観の治といわれ唐王朝だけでなく歴代支那王朝でも世の中がよく治まった時代だと評価されます。

 房玄齢、杜如晦、魏徴と名臣を排出し治安は安定し南北朝、隋時代と荒廃した国土は復興しました。太宗の政治は貞観政要という書物に纏められ後世帝王学の教科書となります。その中に有名なエピソードがあるので紹介しましょう。

 ある時太宗は臣下を前にしてこう下問しました。
「創業と守成、どちらが難しいだろうか?」

 文官筆頭の房玄齢は
「天下が乱れ群雄が各地で立ち上がっているとき、これを打ち破り従わせるのは至難の業です。故に創業が難しいと考えます」
と答えました。

 すると、直言の士として有名な魏徴はこれに反論し
「天子の位は天から授かり人から与えられるものですから難しくはありません。しかし人とは弱い者。一旦その位を得たら奢り高ぶり初心を忘れ結果的に庶民を苦しめる者も多いと聞きます。故に守成こそ難しいと愚考します」

 両者の意見を黙って聞いていた太宗はにっこり笑ってこう言いました。
「房玄齢は朕に従って天下を平定し長く艱難辛苦を耐えた。だから創業が難しいと考えた。魏徴は朕とともに天下を安定させ、これから勝手気ままな政治をすれば天下が乱れると思い、守成が難しいと言ったのだろう。二人の意見はもっともだ。しかしもう創業の時期は終わった。今後は守成の難を諸君と共に克服していきたい」

 このように太宗は、たとえ気に入らない意見や耳に痛い意見でも正しい事は受け入れ実行していきました。そこに私心は無かったと思います。むしろ臣下に諫言を奨励したくらいです。

 内政では三省六部の中央官制を整備し、国力の充実に努めます。その力を持って629年、北方で強大化していた突厥を討ちました。この戦いでは将軍李勣・李靖らが活躍し630年突厥の頡利可汗を捕虜にするという大功を上げます。遊牧帝国突厥は崩壊し、北方や西域の遊牧諸部族が次々と唐に服属、入朝するようになりました。彼らは太宗に天可汗の称号を奉上し崇めたそうです。

 これを見ても、遊牧民族たちが唐王朝を漢人の国ではなく自分たちの仲間である鮮卑族が建てた王朝だと見ていた事になります。可汗とは遊牧民の首長の称号だからです。しかし唐王朝は無数の漢人を統治する都合上秦の名将李信の子孫を称します。隴西李氏と言えば、漢代飛将軍李広や李陵を出した武門の名家で漢人なら誰でも知っている家柄(日本では源氏とか平氏、藤原氏くらいのメジャー)ですが、さすがにこれを信じる者は当時でもいなかったと思います。唐王朝はその出自がコンプレックスだったのでしょう。

 支那史上でも屈指の明君太宗ですが、やはり晩年陰りを見せます。後継者問題で揉め皇后の兄長孫無忌の意見を容れ最も凡庸な第9子李治(後の高宗)を皇太子と定めました。これが武韋の禍(ぶいのか)と呼ばれる唐王朝の混乱期を招くこととなります。649年太宗崩御、享年51歳。


 次回、則天武后から始まる唐王朝崩壊の危機を描きましょう。

隋唐帝国Ⅸ  虎牢関の戦い

 支那大陸の地形に詳しい方ならご存知だと思いますが、洛陽盆地は中原のやや西に位置し、北は黄河、南は伏牛山脈の支峰が黄河まで迫る狭い盆地でした。西には函谷関、東には虎牢関(河南省滎陽市)があり盆地に入る者を遮断します。もっとも西の函谷関は漢代に東へ移転され、洛陽盆地と関中盆地(長安がある)を隔てる役割は潼関に代わりました。

 李世民の唐軍、王世充の鄭軍の兵力は不明ですが、私の推定では唐軍7万、鄭軍3万ほどでしょうか。10万の夏軍に対抗するためにはできるだけ多くの兵力を虎牢関に籠らせないといけませんが、かといって洛陽の包囲を手薄にすると今度は王世充に背後から攻められます。あくまで想像ですが、李世民は洛陽包囲に3万の兵力を残し4万で虎牢関に入ったと私は思います。

 竇建徳の夏軍10万、一方李世民の唐軍4万。いくら李世民が有能であっても倍以上の兵力差を覆すのは容易ではありません。李世民は、虎牢関の要害を頼みに貝のように閉じ籠もりました。洛陽の王世充は何度か突破を図りますが、唐軍も必死に守り戦線は膠着状態に陥ります。膠着状態と言えば虎牢関も同様でした。この日のために李世民は長期戦を覚悟して兵糧を十分に準備しておりまだまだ困る事はありません。一方、戦いを安易に考えていた竇建徳は短期決戦で唐軍を殲滅できると踏んでおり最低限の兵糧しか準備していませんでした。

 対陣は数カ月に及びます。こうなると夏軍は大軍だけに補給に苦しむ事になります。こういう時は、民間から兵糧を徴発して急場を凌ぐものですが、竇建徳は民を愛する義軍を標榜していただけにそれもできませんでした。徴発や略奪をしたら、竇建徳の名声は地に堕ち国家を保つこともできなくなるのです。

 もし李世民がここまで見越して籠城戦を選んだとしたら凄いと思いますが、戦いの一ファクターとして彼が読んでいた事はおそらく間違いないでしょう。現実的にまともにぶつかれば数の上で不利なので、敵が弱点を見せるのをじっと我慢して待っていたというのが実情だったと思います。

 補給に苦しみかといって民から略奪するわけにもいかない竇建徳は、一時的に撤退し兵糧のある策源地まで戻る事を決意します。具体的には彼の領国である黄河の北岸河北。同盟していた王世充を事実上見殺しにする決断ですが、背に腹は代えられません。621年、夏軍は陣を払って粛々と撤退を開始しました。

 李世民は、この機会を待ち構えていました。数日前から夏軍の動きを諜者を放って察知していた李世民は、夏軍が動き出すとすぐさま虎牢関の城門を開き撃って出ます。すでに本国に帰る事に心を奪われていた夏軍は完全に油断していました。唐軍の主力は軽騎兵です。李氏は鮮卑族の武川鎮軍閥出身ですから歩兵主力の夏軍にこれを防ぐことはできませんでした。

 機動力に勝る唐軍は、側面にも回り激しく攻めかけます。夏軍は四分五裂になり潰走しました。無事に黄河を渡った者は十人に一人もいないという惨憺たる大敗北です。総大将竇建徳すらも唐軍に追いつかれ捕えられてしまいます。竇建徳は直ちに処刑されました。頼みの綱である夏軍が壊滅し竇建徳が殺された事を知った洛陽の王世充は、これ以上の抗戦を諦め李世民に降伏します。

 虎牢関の勝利によって華北における唐の覇権は確立しました。後は掃討戦にすぎません。李世民の秦王府には文官として房玄齢・杜如晦・魏徴、将軍では李勣・李靖・尉遅敬徳らが集まりました。彼らは皆建国の功臣としてふさわしい有能な者たちで、それらが高祖李淵ではなく息子李世民に直接仕えていたことから李世民が帝位を継ぐのは時間の問題だと考えられます。

 果たして李世民に帝位への野望はあったのでしょうか?私は無かったとは言えないと思います。しかし聡明な彼は、よほどうまく運ばないと後世簒奪のそしりを受ける危険性が高い事も十分承知していました。高祖は長男李建成を皇太子に定めます。ただ天下統一最大の功労者は李世民でしたので、天策上将に任じ帝国で最大の権威を与えました。両雄並び立たず。例え李世民にその気がなくとも、彼に仕える者たちは自分たちの主君が凡庸な李建成の下風に立つ事は我慢できなかったのです。

 実は皇太子李建成は温厚篤実な人物で、弟李世民さえいなければ無難な二代皇帝として国を誤る事はなかったと思います。ところがここに高祖の四男李元吉という人物が登場します。李元吉は野心家で皇帝の地位を虎視眈々と狙っていました。ただこのままでは自分にその機会が巡ってくる事はありません。有能な兄李世民に嫉妬していた事もあり、皇太子建成に近づき李世民の事をある事ない事讒言します。

 はじめは信じていなかった皇太子李建成も、あまりに元吉が讒言するため弟世民を疑い始めます。両者の亀裂は次第に大きくなり始めました。

 



 次回、玄武門の変と貞観の治について語りましょう。
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