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京観  恐ろしい風習

 画像は恐ろしいので紹介しません。カンボジアのポルポト政権の虐殺の跡を想像していただければ当たらずとも遠からずです(苦笑)。あるいは欧州のカタコンベ(地下墓地)かエジプトのネクロポリスか?

 京観とは、戦争のあと勝利者が敵の捕虜を殺しその頭蓋骨をピラミッド状に積み上げたものです。支那では春秋左氏伝に記録があることから、少なくとも紀元前600年前後にはその風習があったことになります。支那の場合は、もっとえげつない例もあり京観の上に土を盛り版築の土台にしたり城壁に埋め込んだりしたそうです。人柱の起源かもしれません。

 実際、河北省易県(北京近く)の遺跡から3万体近い頭蓋骨が版築の烽火台地下で発見されたというおぞましい話もあります。日本人になじみが深い三国志でも、司馬懿が遼東遠征の際反逆した公孫淵の首都襄平を攻略し、公孫氏政権の役人・軍人・一般市民をことごとく虐殺し1万人分の京観を築いたという記述があります。

 支那では、敵を震え上がらせるため京観を頻繁に築いたようですが、流石に残酷に過ぎるということで改めようという権力者も出てきました。例えば隋を建国した楊堅。彼は京観の代わりに寺院を建立し敵味方の死者を弔ったそうです。支那史上でも名君の誉れ高い唐の太宗李世民は、楊堅の寺院建立を受け継ぐとともに古いものも含めてすべての京観の取り壊しを命じました。さすがに王朝の創始者は違うと感心するんですが、その唐ですら国が乱れてきた7世紀末になると京観が復活したそうですから人間の業の深さを感じますね。

 日本でも人柱伝説があるくらいですから他人の事は言えないんですが、幸いなことに日本では京観はあまり普及しませんでした。ただ例が全くないわけではない(奈良時代以前?)そうですが私は寡聞にして知りませんし、知りたくもありません。

 京観についてよく考えると、どうも農耕民族由来の風習ではないように思えます。というのも漢民族少なくともその支配層はチベット系の羌(きょう 後のチベット民族の源流の一つ)族の流れをくむように思えるからです。羌族は今の陝西省、甘粛省あたりに住んでいた半農半牧の遊牧民族です。一部には部族単位で河南・河北・山東地方にも分布していました。ちなみに周の武王の覇業を助け斉を建国した太公望姜子芽は羌族出身だという説があります。漢民族が形成された時代と言われる周王朝の故地は陝西省の渭水流域で羌族と非常に近しい関係でした。

 色々な歴史書を見ると京観は遊牧民族特有の風習に思えます。チンギス汗やティムールも京観を築いたという話がありもしかしたらスキタイ由来なのかもしれません。ともかくこんな恐ろしい風習が日本に流行らなくて本当に良かったと思います。

 なんでこういう記事を書いたかというと、最近チンギス汗のホラズム遠征について記した本を読み、そこに京観の記述があったからです。






追伸:
 秦の降兵20万人を生き埋めにした項羽が残虐かと思っていましたが、埋葬した分京観よりましだったかも?と最近は考えるようになりました(苦笑)。ただ項羽の場合は生き埋めだからどっちもどっちか?このように支那は歴史的に大虐殺を繰り返してますから(しかも数十万単位!)、とても観光旅行などする気になりませんね。自分の泊まっているホテルの地下に何十万体の白骨死体が埋まっていると想像すると…ゾッとします。北京は歴史上何度も戦場になってますから特に!!!易県なんて北京の郊外だからね。
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チャガタイ汗国の興亡

 世界史でチンギス汗の建てたモンゴル帝国は元朝、キプチャク汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、イル汗国の五つに分裂したと習ったと思います。そのうちフビライ汗の元朝が明の太祖朱元璋に滅ぼされたことは多くの人が知っていても、その他の4国がどうなったかは意外と知られていません。

 簡単に紹介すると、まずオゴタイ汗国は1251年モンゴル帝国第4代モンケ汗(チンギス汗の4男ツルイの長男)の即位に反対し滅ぼされてしまいます。キプチャク汗国はチンギス汗の長男ジュチの一族が建国した国で一時はモスクワ大公国らスラブ諸侯を支配下に置くほど強大でしたが、内部対立から4つに分裂しモスクワ大公国の後身ロシア帝国に滅ぼされました。

 イル汗国はツルイの三男フラグが建てた国で、現在のイランを中心に西アジアを支配します。ちなみに長男が第4代モンケ汗、次男は元朝を建てたフビライ汗です。イスラム教に改宗し同じく内紛の末中央アジアに興ったティムールに1381年滅ぼされました。

 今回紹介するチャガタイ汗国は別名チャガタイウルス(ウルスとはモンゴル語で国、あるいは人の集団を意味する)とも言います。チンギス汗の次男チャガタイを始祖とし東は天山山脈北麓のイリ地方から西はアラル海にそそぐアムダリアとシルダリアに挟まれた穀倉地帯、支那の史書では河間地方、欧州ではトランスオクシアナ(オクサス河【アムダリア】の向こうの地の意味)までも支配下に置きます。アラル海、バルハシ湖を北限とし、南はアフガニスタンのカブール地方までを領域としました。

 首都はアルマリク。場所は特定されておらず、おそらくイリ渓谷の中心都市でシルクロード天山北路に面したクルジャ(支那語では伊寧)近郊にあったとされます。行国(遊牧国家)の首都王庭形式であったと想像され要害の地に設けられた大汗のテントを中心に大小さまざまなテント群が存在したのでしょう。
 
 チャガタイ汗国もモンゴル帝国第4代モンケ汗の即位に反対したことから、モンゴル軍主力に攻められ一族の多くが処刑されました。弱体化したチャガタイ汗国を再建したのは第7代バラク(在位1266年~1271年)です。バラクはチャガタイの長男モエトゥケンの血を引く嫡流でしたが、遊牧民には長子相続の習慣がなく無意味でした。
 実はバラクは、チャガタイ汗国を離れ元朝のフビライ汗に近侍していたそうですが、自分の息のかかった者をチャガタイ汗国に送り込み支配しようと考えたフビライの意向で中央アジアに向かいます。

 そこには同じ一族のムバーラク・シャーがいてチャガタイ汗国の汗位をめぐって激しく戦いました。この戦いに勝利したバラクは晴れてチャガタイ汗国の汗に即位しますが、フビライの傀儡になることを嫌い反抗、自立の道を探ります。同じくフビライに反抗したオゴタイ家のハイドゥとも対立しました。

 結局1269年、ハイドゥと和議を結び、キプチャク汗国のモンケ・テムルを交え三者でタラス河畔にて会盟、互いの勢力範囲を確定します。バラクはさらに勢力拡大を狙い、フビライに近いイル汗国(フビライの弟フラグが建国)に遠征、イラン北東部のホラサン地方を侵略しました。が、迎え撃ったアバカ(フラグの子、第2代君主)にカラ・スゥ平原の戦いで大敗。キプチャク汗国のモンケ・テムルはアバカに寝返り、多くの諸侯もバラクから離反します。

 離反した王族や諸侯の多くはハイドゥに付き、ハイドゥは和解と称しバラクのテントを大軍で囲みました。まもなくバラク急死、ハイドゥによる毒殺だと言われます。バラクの死でチャガタイ汗国は再び分裂、バラクの遺児ドゥアはハイドゥの後押しでようやく汗位を得ました。チャガタイ汗国はハイドゥの傀儡となり、この関係はハイドゥが死去する1301年まで続きます。

 チャガタイ汗国は、遊牧国家らしく長子相続が確立していなかったので一族間の実力者が次々と汗位に就き10年以上汗位を保つものは稀でした。前記事ラビ川の戦いで出てきた第15代チャガタイ汗ケベクは、このドゥアの子にあたりますが、汗位を継いだのは1320年頃(~1326年)だと言われますので、インドのパンジャブ地方に遠征したのはその前という事になります。ラビ川の戦いの起こった1306年当時のチャガタイ汗はケベクの父ドゥアだったので、合理的解釈をするとドゥアの命でチャガタイ軍を率いたのがケベクだったという事でしょう。

 ラビ川の戦いで敗れインド侵略は失敗したものの、ケベクはチャガタイ汗国中興の祖ともいうべき活躍をします。敵対していた元朝、イル汗国と和睦し、ケベク本人はイスラム教徒ではなかったものの領民を公平に扱い、この地を訪れた旅行家イブン・バツータからも称賛されたほどでした。ケベクの治世下で、都市生活をし農耕交易に理解を示す西部の定住派と遊牧民としての伝統を重んじる遊牧派の対立が生まれたと言われます。

 ケベクの死後、対立は激化し1340年チャガタイ汗国は東西に分裂しました。東は遊牧勢力が主流となりモグリスタン汗国とも呼ばれます。定住社会に馴染む西チャガタイ汗国の人間をカラウナス(混血児)と呼んで憎んだそうです。分裂したことで西チャガタイ汗国は求心力を失い一族が各地に割拠する戦国時代に突入しました。そこに一代の英傑ティムール(1336年~1405年)が登場、チャガタイ汗の血を引く王族を傀儡とし西チャガタイ汗国そのものを乗っ取ります。

 東チャガタイ汗国=モグリスタン汗国もティムールの侵略を受けますが何とか滅亡を逃れ、こちらは17世紀まで命脈を保ちました。1680年領土であるタリム盆地西部をジュンガル部のガルダン汗に占領され傀儡として操られます。最後の汗は名前すら分かっていませんが、ナクシュバンディー教団のアーファーキーヤ(白山党)に殺されモグリスタン汗国は滅亡しました。

 一時はインドに遠征するほど強勢を誇ったチャガタイ汗国ですが、亡ぶときはあっけないものです。しかも東西とも情けないような滅び方でした。遊牧国家の滅亡の常とはいえ感慨深いものがありますね。

『ラビ川の戦い』話の続き ラホールの重要性

 一般の方は興味ないでしょうからスルーしてください。私は一つの事に興味を持つとその関連の事を調べなくては気が済まない悪い癖をもっていまして、1306年ラビ川の戦いがどうして起こったのか原因を考えてみました。と言っても資料が少なく、あくまで私が調べた限りの情報とそれに基づく推測ですが…。

 ラビ川は、地図を見ていただくと分かる通りパキスタン第二の都市ラホールのすぐ北を流れています。現在の人口なんと1千万人!ちなみに第一はインド洋に面した港湾都市カラチでこちらは2千4百万と桁違いです!パキスタンは人口2億人超の大国ですからこれぐらいの大人口の都市があっても不思議ではありません。

 余談ついでに言うと、カラチは古代ギリシャ時代から存在を知られたインド洋の交易都市でイギリス植民地時代も重要な港湾都市として整備されていたから栄えるのは当然です。一方、内陸に位置するラホールの大人口は古代からアフガン地方とインド本土を結ぶ交通の要衝で豊かなパンジャブ地方で生産されたあらゆる物資の集積地だったとしたら説明がつきます。すぐ北を流れるラビ川は、インド洋にそそぐインダス河と合流していますから水運も利用できたのでしょう。

 ですから防衛するハルジー朝側からすればラホールの失陥はパンジャブ地方全体の失陥を意味し、攻めるチャガタイ汗国側もラホールを落とさない限りパンジャブ地方の完全支配ができなかったのでしょう。ですからハルジー朝の将軍マリクは最終防衛線としてラビ川を選んだのだと思います。

 調べてみるとラホール自体も波瀾万丈の歴史を持っていますね。11世紀アフガニスタンに興ったガズナ朝に征服され、同じくアフガンに興ったゴール朝が1150年ガズナ朝の首都ガズナを落とすと、ガズナ朝はラホールに遷都しています。1186年、ゴール朝はパンジャブ地方に侵攻してガズナ朝を完全に滅ぼしました。この時ラホールも破壊されたそうです。

 苦難は続き、ようやく復興したラホールに今度は1241年モンゴル軍が侵攻します。1398年にはティムール軍まで!踏んだり蹴ったりですが、それだけラホールが重要だったという証拠でしょう。中央アジア方面からインドに侵攻した勢力は必ずラホールを通ったみたいですね。インドにムガール帝国を建国したバーブルもラホールを拠点としてインド侵攻に赴いたそうです。ムガール歴代皇帝は、ラホールの重要性を認め保護を加えました。現在世界遺産にラホール城とシャーラマール庭園が登録されています。

 私も一生に一度は見に行きたいですね。

ラビ川の戦い1306年

 YouTubeを見ていて、たまたまラビ川の戦い1306年という動画を見つけました。不勉強にして知らなかったのでネットで検索してみると、wikiにすら載っていませんでした。

 ただ1306年、インド地方という情報を頼りにどうもデリースルタン朝時代(1206年~1506年)あたりではないかと考え、さらに詳しく調べるとどうもモンゴル軍がインドに侵攻した戦役の一環だと推定しました。モンゴルのインド侵攻というと一番有名なのはチンギス汗率いるモンゴル軍がホラズム朝最後の王子ジェラール・ウッディーンの軍をインダス河畔に追い詰めた1221年インダス河畔の戦いでしょう。この時半円形に包囲され背後は大河、絶体絶命のジェラールは盾を背中に背負い単騎インダス河に飛び込みました。あまりの彼の武勇にチンギス汗も矢を射かけさせるのを止めさせます。井上靖の蒼き狼にも載ってる劇的な名場面です。

 1306年の場合は、モンゴル軍ではなくその後継王朝の一つチャガタイ汗国が一方の当事者でした。アフガン高原まで版図に入れたチャガタイ汗国は、豊かなパンジャブ地方を狙って連年侵略を繰り返していたそうです。ちなみにパンジャブとはペルシャ語で五つの河という意味。大河インダス河とその4つの支流、西からジェラム川、チェナープ川、ラビ川、サトレジ河を指します。インド北西部からパキスタン北東部に跨る広大な平野で小麦や米を産する一大穀倉地帯でした。

 チャガタイ汗国第15代君主ケベクは大軍を率いデリースルタン朝の一つハルジー朝に侵攻します。ハルジー朝のパンジャブ知事ガーズィ・マリクは寡兵これを迎え撃ちモンゴル軍の侵略を防ぎました。おそらくこれが1306年ラビ川の戦いだと思います。戦いの経過は資料がないので良く分かりませんが、パンジャブのかなり奥深くまで攻め込まれているので、もしこの戦いに負けていたらハルジー朝は滅んでいたかもしれません。マリクは5万人のモンゴル兵を捕虜とし全員処刑しました。モンゴル人は遠征にも家族を連れていたので、残った家族はことごとく奴隷として売り払ったそうです。

 ただ、デリースルタン朝もインド土着王朝ではなくイスラム教徒のトルコ系やアフガン系の王朝だったので、どちらも騎兵を主力とするモンゴル~中央アジア型の軍隊でした。マリク自身もトルコ人とモンゴル人の混血だと言われます。1320年、ハルジー朝で内紛が起き最後のスルタン、クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーが反乱者ホスローハーンに殺されると、マリクは軍を率いてデリーを制圧、反乱者ホスローハーンを殺して自らの王朝を建てました。マリクは即位してギヤースッディーン・トゥグルクと改名します。これがデリースルタン朝3番目の王朝トゥグルク朝です。

 いやあ、まだまだ知らない歴史がありますね。勉強になりました。

アクスム王国とエチオピア

 アフリカの人種の中でエチオピア人はネグロイドとコーカソイドの中間的特徴を持っているとされます。エチオピア人種は白人と黒人の混血人種とも言われますが、成立過程が良く分かっていません。ただ、アラビア半島と近く、紅海を渡ってきた民族がエチオピアに定着したとされます。

 アクスム王国もアラビア半島から渡ってきたセム系民族が建国しました。存在が確認されるのは紀元前5世紀頃からです。伝説では旧約聖書にのっているサバ(シェバ)人が中心になってアクスム王国を建国したとされます。アクスム歴代の王はソロモン王とサバの女王の子メネリク1世の子孫を称しました。サバ人と同じく商才に長けた民族で、古くから交易で栄えます。首都アクスムは、エチオピア北部に位置しエリトリアに近い所にあります。ただ当時はエリトリアを含む紅海沿岸が本拠地で、内陸のエチオピアはアクスム王国が後に征服した土地でした。

 王国が成立したのは紀元100年頃だと言われます。アフリカから採れる象牙、金、鼈甲、エメラルドを輸出し絹、香辛料、手工業品を輸入します。その交易圏はインドからローマ帝国にまで広がっていました。2世紀から3世紀頃が最盛期で、アラビア半島の故地に進出し、アフリカではクシュ王国(メロエ王国)まで征服します。クシュは黒人王国で現在のスーダンにあり、一時はエジプト文明を征服するほどの強国でしたが、当時は衰え新興のアクスム王国に滅ぼされるまで弱体化していたのです。

 このアクスム王国に、3世紀頃キリスト教の一派コプト教が伝わります。東方諸教会系のコプト教はエジプト、アレキサンドリアが発祥とされエジプトを中心に北アフリカ地域に広がりました。アクスムは、その中心地のひとつで、以後コプト教が国教となります。ですからアクスム王国はアフリカでは珍しいキリスト教国です。

 アクスムが伝説のプレスタージョンの国に比定されるのも、コプト教が国教だったからだと言われます。そんなアクスム王国も、7世紀初頭アラビア半島にイスラム教が興ると陰りが見え始めます。アラブ人も交易に長けた民族で、次第に紅海での主導権を奪い始めたのです。

 そして10世紀、エチオピア高原にアガウ族がザグウェ王国を建国するとアクスムは南に強大な敵と接するようになりました。ただアクスムとザグウェの関係は良く分かっておらず、衰退したアクスムを受け継いだのがザグウェ王国だという説もあります。11世紀頃には、ザグウェ朝がアクスムの故地を支配するようになりました。

 このザグウェ朝にイクノ・アムラク(?~1285年)という人物が登場します。アムラクはアクスム王国最後の王デイルナードの子孫を称し、ザグウェ朝を滅ぼし自らの王朝を建国しました。これがソロモン朝で、1974年最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が革命で倒されるまで続きます。ですからエチオピア王国(帝国)は13世紀から20世紀まで続いた長い歴史を誇ります。そしてイクノ・アムラクがアクスム王家の血を引くという話が本当なら紀元前から続く世界史上稀にみる古い王朝だともいえるのです。このソロモン朝もキリスト教エチオピア正教会を国教とするキリスト教国でした。

 エチオピア正教会は、サハラ以南で唯一植民地時代以前から存在する教会で、現在でもエチオピアを中心に3600万人の信者がいるそうです。ユニークな歴史を持つエチオピアに興味が尽きません。
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