FC2ブログ

古代都市の推定人口

 たまたまネットを見ていたら古代都市の推定人口が載っていたので嬉しくなって記事にしました。

メンフィス…古代エジプトの首都。BC3000年ですでに3万人の人口を数えた。

ウルク・・・メソポタミアに栄えたシュメール文明の中心都市。BC3000年代で人口4万5千人。

スサ・・・古代ペルシャの首都。BC3500年頃に人口4万5千人。

テーベ(エジプト)・・・古代エジプトの首都の一つ。BC2000年代に人口6万人。

アッシュール・・・アッシリア帝国最初の首都。イラク北部にあった。BC2000年頃人口2万5千人。

モヘンジョダロ・・・有名なインダス文明の都市。BC2400年頃4万人。

ミケーネ・・・古代ミケーネ文明の中心都市。BC1200年頃人口3万人。

ハットゥシャ・・・ヒッタイト帝国首都。アナトリア半島内陸部にあった。人口はBC1600年で6万人。

エルサレム・・・言わずと知れたユダヤの首都。BC1000年で人口5万人。

ニネヴェ・・・アッシリア帝国後期の首都。イラク北部。BC1200年で人口4万人。

バビロン・・・古代バビロニア帝国の首都。BC1000年ですでに人口10万人。

三星堆・・・古代三星堆文明の首都。現在の四川省にあった。BC1200年で人口3万5千人。

鎬京・・・周王朝(西周)の首都。現在の西安近く。BC1000年で人口10万人。

洛邑・・・現在の洛陽。東周の首都。BC500年で人口20万。その後も増え続けて100万都市に。

パータリプトラ…古代インド、マガダ国の首都。ガンジス河下流にあった。BC300年で人口40万人。

平安京…900年で人口20万人。日本も頑張っています♪

カルタゴ・・・BC300年で人口50万人。ローマと対抗できるくらいの経済力があるはずです。

ローマ・・・紀元前後で人口80万人。それ以降も増え続けるが人口120万人くらいが限度の模様。



 キリがないのでさしあたってこれまでにします。それにしても古代都市の人口って調べると面白いですね。これは推定なので諸説あってはっきりとはしません。あくまで目安としてください。
スポンサーサイト

フランス革命Ⅶ ブリュメール18日のクーデター (終章)

 ネルソン提督率いるイギリス艦隊によってエジプトにナポレオンが孤立していた時、1798年12月イギリス首相小ピットの提唱で第二次対仏大同盟が結成されます。参加するのはイギリス、オーストリア、ロシア、ポルトガル、そしてなんとオスマン帝国まで!第一次はフランス革命の自国への波及を防ぐのが目的でしたが、今回はナポレオンの活躍によって奪われた領土の奪回も大きな要素になります。

 フランスは再び危機に陥ろうとしていました。国内でも総裁政府は窮地に立たされます。下院に当たる500人議会の選挙で王党派、そして復活したジャコバン・クラブが躍進したからです。テルミドール右派は中道右派、平時なら穏健で最も良い政治体制だと思われます。ところが今は戦時、腐敗し碌な政策も示せない総裁政府を国民は見限っていました。当時フランス革命で世界初の普通選挙が行われていましたが、テルミドール反動の結果直接納税者のみに限定される制限選挙に戻りました。下層階級に選挙権を与えるとロベスピエールのような扇動者が再び出現したとき統治体制が覆されるからです。

 直接納税者は成人男子である程度の収入のある者。中産階級以上で政治思想も穏健であろうと思われました。しかし中産階級であろうと、王党派やジャコバン・クラブが躍進したという事は、現状ではフランスの苦境は脱せられないとフランス国民が思っていたからです。国民は左右どちらであろうと強いリーダーシップで困難を打破してくれる英雄の出現を待ち望みます。一方、総裁政府も軍事力によって反対派を圧殺し政治的安定を実現したいと思いました。

 総裁バラスとシエイエスは、エジプト遠征中のナポレオンに白羽の矢を立てたのです。帰国を決断したナポレオンは、少数の部下と共にエジプトを出港します。幸運にもイギリス艦隊に見つからなかった一行はフランスに戻りました。エジプトに残されたフランス軍は、1801年オスマン帝国に降伏します。

 1799年10月16日、パリに到着したナポレオンは、弟で500人議会議長になっていたリュシアンからシエイエスのクーデター計画を聞きました。が、ナポレオンはシエイエスに従うつもりは毛頭なく独自の計画を持ちます。実行日はブリュメール(革命暦2月)18日、西暦で言うと1799年11月9日と決まります。その日、テルミドール右派が多数派を占める元老院は「左派の陰謀の恐れあり」として元老院と500人議会のパリ撤退、西のサンクルーへの避難を決議します。すでに議会のあるチュイルリー宮殿はナポレオン率いる軍隊によって包囲されていました。

 その途中ナポレオンは失意の議員たちに向けて演説します。
「議員諸君、共和国が危機に瀕していることは諸君も知っておられるだろう。諸君の決定は共和国を救う。私も国軍をもってこれに協力し、反対者を捕縛するつもりだ。我々は真の自由に基づいた公民的自由、国民の代表に基づいた共和国を望む。我々はそれを手にするだろう。誓って言う。余の名と、余の軍友の名において」

 シエイエスら三人の総裁が辞職し、抵抗した残り二人は軟禁されました。クーデター主流から外されたバラスは、身の危険をほのめかされパリを脱出します。総裁政府はあっけなく崩壊しました。代わって三人の統領を元首とする統領政府が樹立されます。そして第一統領に就任したのはナポレオン。シエイエスはブリュメール18日のクーデターによって自分が政権を握るつもりだったと思います。ところが実際に軍隊を持っているナポレオンが発言権を強めるのは当然でした。結局ナポレオンを利用したつもりがナポレオンに利用されたのです。

 救国の英雄としてフランス国民に絶大な人気を誇るナポレオンと、腐敗した総裁政府の一員だったシエイエスのどちらを国民が支持するか明白でした。主導権を奪われたシエイエスは実権のない元老院議長に祭り上げられ政治生命を断たれます。

 ナポレオンは第二次対仏大同盟を軍事力で粉砕、国民の圧倒的支持を受け終身統領に就任。そして1804年5月国民投票で皇帝となりました。事実上、フランス革命はここに終わります。絶対王政を廃止し、行きついた結果が帝政というのは何とも皮肉ですが、英雄が登場しなければ革命後の混迷を収拾できなかったのも事実。そして理想と現実の間には数多くの犠牲が伴うのでしょう。フランス革命期ギロチンによる犠牲者はパリだけで2000人とも4000人とも言われます。フランス全土では1万6千人以上という恐るべき数でした。それ以外の方法で処刑されたもの、暴徒に虐殺されたものも含めると死者は数万人から数十万人だったそうです。

 絶対王政を廃止し民主化を求めた革命がもたらしたものは何だったのでしょうか?フランス革命は近代民主主義への道を開いたという歴史的功績は確かにあると思います。しかし、それと同時に数多くの犠牲無くしては革命は成立しないという悲劇も示しました。私はどうしてもイギリスの清教徒革命、名誉革命と比べてしまいます。共和制より立憲君主制のほうが少ない犠牲者で済むと思うのは私だけでしょうか?本当に悩ましい問題ではあります。




                                  完

フランス革命Ⅵ 総裁政府の混迷

 独裁者ロベスピエールを倒して誕生したテルミドール右派による政権は1795年革命色の強すぎる1793年憲法を修正し、行政権は新たに設けられた5人の総裁が担うようになりました。これを総裁政府と呼びます。総裁政府というとフランス史にある程度知識がある方はバラスの名前をあげるでしょう。

 ポール・バラス(1755年~1829年)はプロヴァンス地方の下級貴族の家に生まれ軍に入ります。インドの植民地戦争に従軍し大尉に昇進。フランス革命が起こるとジャコバン・クラブに属しました。1792年国民公会議員。ルイ16世処刑の裁判では賛成票を投じます。人間性にかなり問題があったらしく好色、公金横領、贈収賄でロベスピエールの怒りを買いパリに召喚されました。バラスの場合思想信条でロベスピエールを倒そうとしたわけではなく、自分が捕まるのを防ぐために打倒を決意するという不純な動機でした。

 ではなぜクーデターが成功したかというと、一人の人物と結託したからです。彼の名はジョゼフ・フーシェ(1759年~1820年)。もともとはロベスピエール率いる山岳派。実務能力の高さから革命政権で重宝されますが、かえってロベスピエールに警戒され疎まれます。この事からロベスピエールを憎み打倒を考え始めました。バラスとフーシェ、どちらが先に接近したのかは分かりませんが、フーシェを味方につけたことで反対派はクーデター成功の確率を飛躍的に上げたとも言えます。

 部下を使い情報を集める能力でも、その情報を基に他人を動かす能力でも当代一流だったフーシェは、国民公会でのロベスピエール追い落とし計画を着々と進めました。こんな男を敵に回したのがロベスピエールの不幸ですが、クーデター後フーシェは総裁政府で警察大臣に就任します。フーシェは数多くの密偵をフランス各地に放って陰謀の芽を早いうちから摘み取りました。バラスを筆頭に無能揃いの総裁政府が曲がりなりにも政権を保てたのはフーシェの力が大きかったと思っています。

 そしてもう一人、総裁政府を支えた人物について語りましょう。皆さんご存知、ナポレオン・ボナパルトです。ロベスピエール派と見られ反逆罪の罪で逮捕収監されたナポレオンでしたが、間もなく疑いが晴れ釈放されます。が、危険人物と目され予備役に編入されました。実はバラスとナポレオンは旧知の仲でした。トゥーロン包囲戦で指揮を執ったナポレオンを監督したのがバラスです。

 総裁政府の下、国会は下院に当たる五百人議会と上院である元老院が設けられました。新憲法のもと選挙をすれば王党派が躍進すると思われていました。そこで総裁政府は王党派が立候補できない難しい条件を設定したり、王党派に対する選挙妨害を行います。これに怒った王党派は、1795年10月パリにおいてヴァンデミエールの反乱を起こしました。鎮圧を担当したバラスは、旧知のナポレオンを起用、ナポレオンは市民に大砲を放つなどの強硬手段でこれを鎮圧、その功により師団陸将(中将相当)に昇進しました。その後国内軍副司令官、国内軍司令官と順調に出世し軍事面から総裁政府を支えます。

 バラスは好色で欲深、人間的には欠陥だらけで世間からは悪徳の士とまで酷評される始末でした。そんな男がどうして長らく政権の中枢に居れたかというとバランス感覚が抜群に優れていたからです。フーシェとナポレオンという車の両輪をうまく使い続けていられる限りその地位は安泰でした。バラスとナポレオンに関しては有名なエピソードがあります。好色で何人も愛人がいたバラスですが、その中でジョセフィーヌという女性がいました。社交界の花で美貌を誇る彼女は、バラスにも負けないほど好色で贅沢好き、浪費家だったためさすがのバラスも持て余します。そんなとき、ナポレオンがどうやらジョセフィーヌに惚れたらしいことを察知すると、強引に彼女をナポレオンに押し付けました。体の良い厄介払いでしたが、この頃のナポレオンは女性に関して経験が浅くジョセフィーヌを溺愛します。ジョセフィーヌ本人は最初あまりナポレオンを好きではなかったそうですが、ナポレオンが皇帝に即位したとき皇后になれたんですから運命は本当に分かりません。俗な言い方をすると、ジョセフィーヌはあげまんだったのかもしれません。事実、ジョセフィーヌを手放した時から、バラスの運命に陰りが生じたという見方もできます。

 バラスは政治思想的には鵺でした。バラス以外の総裁には左右両派が入り乱れ勢力争いをします。そのたびに総裁政府は右に左にぶれました。1796年ジョセフィーヌと結婚したナポレオンは、イタリア方面軍司令官に就任、任地に赴きます。ナポレオンは北イタリアでオーストリア軍を破り1797年4月にはオーストリアの首都ウィーンに迫りました。この時ナポレオンは総裁政府に無断で和平交渉に入り勝手に講和します。無力な総裁政府にこれを止める力はなく、結果第一次対仏大同盟は崩壊。ナポレオンの中で、総裁政府軽視の思いが生じたのはこの時かもしれません。野心家である彼は、いつかフランスの実権を握ってやろうという野望が芽生えていたのでしょう。少なくとも総裁政府よりはまともな政治ができるという自負があったのかもしれません。

 そんな不穏な空気を秘めた中、ナポレオンはパリに凱旋します。パリの民衆はナポレオンを熱狂的に迎え入れたそうです。とはいえイギリスのフランス革命政府に対する敵対姿勢は変わらず、依然として強大なイギリス海軍が大西洋と地中海の制海権を握っていました。ナポレオンは、難敵イギリスの息の根を止めるためエジプト遠征を決断します。エジプトを占領し、イギリス本土と最重要植民地インドとの連絡を絶ち、立ち枯れさせようという意図でした。1798年7月、ナポレオンは二万の兵を率いてエジプトに上陸します。陸戦ではピラミッドの戦いで現地マムルーク軍を撃破しカイロに入城しますが、アブキール湾海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗したため、ナポレオンはエジプトに孤立しました。

 そんな中、本国フランスでは総裁政府が行き詰まりを見せます。新しく総裁に就任したシエイエスは、議会で王党派が多数を占め革命が崩壊しかねないと危機感を抱きました。これを打破するには強力な武力しかないと確信した彼は、秘かにナポレオンに使者を出し帰国を求めます。ナポレオンはこれに関しどういう行動を起こすのでしょうか?

 次回、フランス革命最終章ブリュメール18日のクーデタにご期待ください。

フランス革命Ⅴ 革命独裁とテルミドール反動

 1793年7月13日、ロベス・ピエールの盟友で山岳派の指導者のひとりジャン=ポール・マラーは持病の皮膚病を悪化させパリの自宅で入浴療法を施していました。その日は朝から二十代と思われる美しい女性が何度もマラーに面会を求めます。余りの熱心さに自分の信奉者だろうとマラーは自宅に招き入れました。丁度マラーは日課の入浴療法の最中で彼女は浴室に通されます。しばらくするとマラーの絶叫が響きました。妻が慌てて駆けつけると近くで匕首を握りながら呆然と立ち尽くす女性がいました。

 彼女の名はシャルロット・コルデー。ノルマンディー貴族の娘で25歳。王党派ともジロンド派とも言われますが、その場で逮捕されたシャルロットは7月17日革命裁判で死刑判決を受けギロチンにかけられました。暗殺犯があまりにも美貌だったため見物する市民は水を打ったように静まったと言われます。革命の行き過ぎに危惧を感じ始めている者も出てきており、暗殺に対する憎しみよりも革命政権の行く末に暗雲を感じる市民も多かったそうです。

 盟友とは言いながら、マラーは国民的人気が高い政治家でありロベスピエールは政敵として警戒していました。そのマラーが非業の死を遂げたわけですが、ロベスピエールはそれを最大限利用することを忘れませんでした。マラーは革命の殉教者として祭り上げられ、ロベスピエールはマラーの遺志を継ぐという大義名分の下反対者を革命に対する敵として次々と粛清します。王党派やジロンド派だけでなく、山岳派内の過激派である無政府主義者、土地公有化を主張する者共もその対象となりました。ロベスピエールは自ら公安委員会の長に就任し反対派を次々と革命裁判にかけ処刑します。まさに恐怖政治です。ロベスピエールは思想的には中道左派だったと言われますが、強硬な政治姿勢は左右双方から憎まれました。

 1794年春にはロベスピエールによる山岳派独裁がほぼ完成、革命戦争も国民総動員令により次第に巻き返し始めます。特にそれまで無名だった砲兵大尉ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はトゥーロン包囲戦で大功をあげ急速に台頭しました。革命政権としても軍事的英雄が必要だったのでしょう。ナポレオンは国民公会の議員の推薦を受けわずか24歳で旅団陸将(少将相当)に昇進しました。特にロベスピエールの弟オーギュスタンに目をかけられ革命政権の藩屏とさせられます。

 ロベスピエールの強引なやり方は、山岳派を次第に孤立化させていきました。このままではいつ自分が粛清されるか分からないと恐怖を抱いた反対派は、左右の思想に関係なく秘かに連絡を取り来るべき日に備えます。運命のテルミドール(革命暦11月、西暦だと7月)がやってきました。1794年7月26日(テルミドール8日)、ロベスピエールは国民公会で自分を狙った陰謀を告発し裏切り者の逮捕、公安委員会、保安委員会の粛清を要求します。ところが議会は逆にロベスピエールを糾弾、「国民公会を私物化し麻痺させたのはロベスピエール本人だ!」という声が次々と上がりました。反対派とて命がけです。負ければギロチンが待っているんですから。

 今までロベスピエールの恐怖政治にすくみあがっていた国民公会ですが、実は山岳派は少数派で反対者の方が多かったのです。ロベスピエールは呆然として立ち尽くします。山岳派のサンジュストの発言すら怒号で妨げられました。反対派の主導で国民衛兵司令官のアンリオ、革命裁判所長デュマの逮捕が決まります。次いで本丸のロベスピエール本人の逮捕という流れに行くはずでしたが、パリコミューンに救出されロベスミエールは市庁舎に脱出しました。パリの市議会はまだ山岳派が掌握していたのです。

 この時ロベスピエールは国民衛兵を動員して国民公会を軍事力で制圧する選択肢もありました。ところが市民の声の代弁者という大義名分で政治を行ってきた手前、ロベスピエールは自らの手で革命政権を潰すという事を躊躇します。結局これが命取りとなりました。国民公会はロベスピエール派の議員5名の市民権を剥奪します。その日の夜パリ市庁舎には3千名の国民衛兵が居たそうですが、ロベスピエールからの出動命令は出ませんでした。翌27日午前2時国民公会側の武装衛兵がパリ市庁舎を囲みます。制圧はほとんど無抵抗で、ロベスピエール側の議員ルバがピストル自殺しました。ロベスピエールも自殺しようとしますが失敗、全員逮捕されます。

 28日朝、革命裁判所はロベスピエール派22名に死刑判決を下しました。皮肉なことにギロチンによる恐怖で支配したロベスピエールは自らもギロチンによって命を絶たれたのです。享年36歳。翌29日にもさらにパリコミューン側の議員70名が処刑されました。

 ロベスピエールの刑死と共に山岳派は壊滅状態に陥ります。それまで恐怖政治に逼塞していた側の反撃が始まりました。救国の英雄と持て囃されたナポレオンでさえ、ロベスピエールの弟オーギュスタンと親しかったというだけで反逆罪・逮捕拘禁されます。この時政権を握った勢力をテルミドール右派と呼びますが、前政権があまりにも左に偏っていた為、保守中道的な政治を行います。反革命の罪で捕らえられていた容疑者の大量釈放、革命裁判所の改組、公安委員会の権限縮小が決まりました。それまで山岳派の温床だったパリ市の政府直接管理も決まり、総価格統制令が廃止されました。山岳派が牛耳っていたジャコバン・クラブ閉鎖。ギロチンの恐怖で逼塞していた市民は開放感に酔いしれたそうです。

 これだけなら良い変化ですが、今度は白色テロが横行します。これまでロベスピエール政権下で甘い汁を吸っていた左派市民たちは、自分たちの特権が奪われることに怒り何度となく蜂起しました。テルミドール右派政権は、これを軍事力で徹底的に弾圧、1000名にも及ぶ活動家が逮捕されたそうです。白色テロとは右派のテロの事ですが、弾圧する側とされる側が逆転したため凄惨な殺し合いとなりました。主に王党派が主導し、リヨンで99名殺害、マルセイユでも100名が革命左派と見られ殺されました。フランス全土での犠牲者は分かりません。膨大な数だったことは確かです。これをテルミドール反動と呼びます。

 ではロベスピエールの恐怖政治を倒したテルミドール右派はどのような政治を目指したのでしょうか?彼らは行き過ぎた左派的改革ではなく中道共和政を目指します。それが総裁政府でした。次回は総裁政府の混迷を描きます。

フランス革命Ⅳ 王制廃止と国王の死

 1792年4月に勃発した革命戦争。フランス革命の自国への波及を恐れるイギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどは攻勢を強めます。各地で連戦連敗のフランス軍ですが、祖国の危機に国民が立ち上がり義勇兵として続々と参加しました。この時、マルセイユの義勇兵たちが歌っていたのが『ラ・マルセイエーズ』で後にフランス国歌となります。革命政府は、国家総動員体制を整備し国民の革命への情熱を利用しました。

 ここまでなら美しい祖国愛で済む話なんですが、フランス国民の多くは自国が不利なのは国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがフランスの軍事機密を漏らしているからだと考え8月10日国王夫妻の住むパリ、チュイルリー宮殿を襲撃しました。私はほぼ軟禁状態で周囲の情報を遮断されている国王夫妻が外国と通謀し軍事機密を漏らすことは物理的に不可能で全くの冤罪だったと思っていますが、群集心理の恐ろしさなのでしょう。

 ルイ16世は宮殿を守るスイス衛兵隊に市民への発砲を禁じたため、衛兵たちは興奮する群衆に一方的に虐殺され全滅します。王権は停止され国王一家はタンプル塔に幽閉されました。これを8月10日事件と呼びます。スイス衛兵隊以外にも一部貴族や軍隊が国王を守って戦ったため、革命派パリ市民の怒りを買い9月にいると反革命派狩りが始まり数多くの犠牲者が出ました。9月虐殺は数日間に渡って行われ死者は1万4千人とも1万6千人とも言われます。中には無実の罪や誤解も多かったらしく、革命派が気に入らない者をどさくさで殺したケースも多発したそうです。

 9月20日、マルヌ県ヴァルミーの戦いでようやくフランス軍が勝利、以後は次第に盛り返していきます。21日パリに国民公会が招集され正式に王制が廃止されました。議会はジャコバン・クラブのうち穏健共和派のジロンド派、急進左派の山岳派、その中間の平原派で構成されました。ジロンド派と山岳派は主導権争いを始めます。山岳派を率いるロベスピエールは、必ずしも激高しやすく簡単に扇動に乗る市民を信頼していたわけではありませんでしたが、彼らのエネルギーを背景にし権力闘争を有利に進める狡猾さは持っていました。

 前線で戦っていたラファイエット侯爵は、8月10日事件の報告を受けパリ進軍と国王一家救出を図りますが、兵士たちが従軍を拒否したため孤立、オーストリアに亡命します。王権停止を受け臨時行政委員会が設置されました。9月虐殺の引き金は、委員会で法務大臣に就任したダントンの演説だったとも言われます。ただ彼に同情する向きもあり、ヴェルダンでフランス軍が降伏したのを受け国民を鼓舞するために行った演説がかえって聴衆の誤解を生み虐殺に向かったというのが真相だという意見もあります。

 国民公会に選出された議員は749名。ほぼすべてが革命の支持者でした。議会で優勢を占めたのは穏健共和派のジロンド派です。ジロンド派は、王制こそ廃止したもののルイ16世の処刑そのものには反対でした。元国王を殺せば外国に対する取引ができなくなるというのが理由ですが、諸外国やまだまだ依然として地方で信望のあるルイ16世を処刑した後の反発を恐れていたとも言われます。実は、ジロンド派と対立する山岳派のロベスピエールも個人的には国王処刑に反対でした。しかし、山岳派の権力奪取のためにあえて国王処刑に舵を切ります。政争の道具にされたルイ16世も哀れでしたが、山岳派の若手議員サンジュストは議会で国王糾弾の演説を行いました。ジロンド派の法務大臣ロランにもルイ16世が外国へ向けた書簡の事実を隠蔽した疑惑が出てきたため国王裁判は不可避となって行きます。

 裁判は国民公会議員によって開始されました。
「ルイ・カペー(16世の事)は国家転覆の陰謀によって有罪か?」賛成707票
「ルイ・カペーは死罪にすべきか?」賛成387票、反対334票
修正協議がなされた後の評決でも賛成361票、反対360票

わずか1票の差で元国王ルイ16世処刑が決まります。1793年1月13日、革命広場に引き出されたルイ16世は二万人の市民が見守る中、断頭台の露に消えました。享年38歳。彼の最期の言葉は「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないよう神に祈る」でした。これを見てもルイ16世は決して悪人ではなく、平凡で愛すべき人物のように思えます。ただ生まれた時代が悪かったとしか言えません。

 元王妃マリー・アントワネットもまた1793年10月16日コンコルド広場で夫の後を追います。37歳でした。悪女としてフランス国民に憎まれた彼女でしたが、贅沢好きで頭もあまり良くない欠点はあっても決して悪女ではなかったと私は思います。革命の熱狂が生活困窮した国民の憎しみの対象として実像以上に独り歩きした結果なのでしょう。元国王夫妻の処刑でジロンド派は国民の支持を失いました。1793年6月2日下層市民の支持を背景に山岳派のロベスピエールはジロンド派を追放、独裁政治を始めました。

 国王処刑に賛成票を投じた議員たちは王政復古時白色テロの標的となります。自業自得ですが、このように左右両派のテロの応酬という事実があるために私はフランス革命を手放しに評価できないのです。次回、ロベスピエールの恐怖政治とそれに対する反動を描きます。
FC2カウンター
リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
カレンダー
12 | 2019/01 | 02
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

鳳山

Author:鳳山
FC2ブログへようこそ!

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~
検索フォーム
QRコード
QR