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イスファハーン ‐世界の都市の物語‐

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 現在のイランの首都は国土の北寄り、カスピ海とイラン高原を隔てるアルブルズ山脈南麓に位置するテヘランですが、イラン高原のほぼ中央にあるイスファハーンもかつて繫栄した都市でした。どちらの都市も高原にありテヘランは海抜1200m、イスファハーンは海抜1500mの高原都市です。イラン高原自体が海抜900mから1500mのところにあるので、イランはチグリス河に近い低地地方を除き、まさに高原の国と言って良いでしょう。

 イランという国名はアーリア人の国という意味で、実はインド亜大陸を征服したインドアーリア人と非常に近しい民族です。古代から文明が栄え、メソポタミア文明の時代にはエラム王国が成立しました。エラム王国は紀元前3200年ころから紀元前539年ころまで続きます。もちろんこの時はイラン高原ではなく、チグリス川に近い低地地方が中心地でした。

 エラム王国はチグリス河東岸の低地地方からイラン高原南西に広がり、スサを首都としていました。エラム王国を建国した民族はアーリア人ではありません。民族が不明ですが、メソポタミア文明を興したシュメール人と近いセム系民族ではなかったかと想像します。

 その後イラン高原に入ってきたアーリア人は、中央アジアの高原地帯に住んでいた遊牧民族でインド亜大陸に向かったのがインドアーリア人、イラン高原に来たのがイラン人(ペルシャ民族)だったのでしょう。アーリア人の移動は紀元前2000年ころから紀元前1000年ころにかけて行われたと言われます。

 ただし、イラン高原南西部にはエラム王国が存在したため浸透できなかったようです。最終的にエラム王国を滅ぼすのはイラク北部の高原地帯にいたアッシリアでした。遊牧民族だったアーリア人が農耕に従事するのはメソポタミアやエラム王国の文明世界に触れたからでしょう。遊牧社会と農耕社会では養える人口が桁違いですからね。

 とはいえイラン人の上層部は遊牧社会の伝統を持ち続けたようで、古代ペルシャ王国は騎兵が強力でした。イラン高原は何波もわたり最初はアーリア人、その後はトルコ系民族と侵略を受けます。そのため完全な農耕社会とはならず半農半牧の社会を保ったのだと思います。イラン高原は乾燥地帯のためカレーズ(カナートともいう)と呼ばれる灌漑施設が生まれました。これは高地の水源から地下水路を使って耕作地に水を導く施設で維持管理が必須でした。イラン人たちはこれを使って乾燥地帯で農業を営んでいたのですが、蛮族モンゴル人がイラン高原に侵入した時カレーズを破壊しまくったため荒廃が進んだと言われます。

 前置きが非常に長くなりましたが、イスファハーンの歴史はアケメネス朝ペルシャに遡るそうです。一説には紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源だと言われます。ササン朝時代、この地は軍隊の駐屯地になり、軍隊の複数形であるセパ―ハーンがイスファハーンの語源だそうです。

 イスファハーンは手工業が盛んでイスラム帝国時代も栄えたそうですが、16世紀サファビー朝第4代アッバース1世が首都と定めたことで繁栄を極めます。当時「イスファハーンは世界の半分」と称えられるほどでした。サファビー朝時代のイスファハーンは人口50万人を数えたそうです。同時代の世界の主要都市で人口50万人以上だったのはロンドン、パリ、北京、江戸、イスタンブールくらいでイスファハーンがいかに栄えていたか分かりますね。

 アッバース1世は壮麗なモスクをはじめ様々な建設をすすめ、商業を保護します。絹織物、貴金属細工、ミニアチュールなどの産業も育成しイスファハーンは一大文化都市となりました。繁栄を極めたイスファハーンですが、サファビー朝末期の1722年アフガン人の侵攻を受け破壊されます。サファビー朝自体は1736年滅亡しますが、アフガン人は都市だけでなく周辺の農耕地も破壊したため1756年から1757年にかけての大飢饉で4万人の市民が餓死したそうです。

 18世紀末イランにカージャール朝が成立するとイスファハーンも復興します。しかし首都機能はテヘラン、商業の中心はタブリーズに奪われ地方都市に転落しました。20世紀、パフラヴィー朝が興るとイスファハーンは近代都市に生まれ変わります。20世紀後半から人口が急激に増加し2006年ころには人口150万人に達しました。

 イマーム広場、イマームモスク、アリ・カプ宮殿など観光地が有名で一度は訪れたい都市です。現地に行って悠久の歴史を感じてみたいですね。
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シアールコート ‐ 世界の都市の物語 ‐

 マイナーすぎて誰も知らないかもしれません。2億4千万人と日本の倍近くの人口を誇るパキスタン。最大の都市はインダス河河口に近くアラビア海に面する港湾都市カラチで都市圏人口2280万人です。パキスタン第二の都市は北部パンジャーブ地方の中心都市ラホールで、こちらも都市圏人口1025万人を誇ります。

 そのラホールから北に100㎞程離れたところにシアールコートはあります。パンジャーブ州シアールコート県の県都です。人口は100万人。地方都市とはいえかなりの規模です。古代ではサカラ(サンスクリット語)、古代ギリシャ語ではサンガラと呼ばれていました。その歴史は古く、有名な叙事詩マハーバーラタにも登場しています。マハーバーラタの成立は紀元前4世紀ころだと言われますから、そのころには既に存在していたことになります。

 シアールコートのあるパンジャーブ地方は、大河インダスとその支流4つが流れる五つの河の地という意味で古代から穀倉地帯として有名でした。古代マドラ王国の首都でありアレクサンドロス大王がインド遠征した際マケドニア軍に抵抗し滅ぼされています。当時のサンガラは人口8万人いたそうですからかなりの規模の古代都市です。

 とは言え、交通の要衝だったことから間もなく復興されました。アレクサンドロス大王の広大な領土の東の端に位置したサンガラですが、大王の死後王国が分裂するとインドに興ったチャンドラグプタのマウリア朝に組み込まれます。アレクサンドロスの遺領は激しい内戦(ディアドコイ戦争)の末有力将軍に分割されました。現在のアフガニスタンに当たる地域はセレウコス朝シリアが支配しますが、あまりにも遠隔すぎてトハリスタン(現在のアムダリア、シルダリアの河間地方『ギリシャ人はトランスオクシアナ【オクサス河の向こうの土地という意味。オクサス河はアムダリアのギリシャ人呼称】と呼んだ。』からアフガニスタンのヒンズークシ山脈の北側まで)にはバクトリア王国が独立します。

 バクトリアは旧宗主国セレウコス朝と時には戦い時には和睦しながら、ヒンズークシを越えてインド亜大陸にも食指を伸ばしました。アレクサンドロス大王のマケドニア軍の流れをくむバクトリア軍は強力でインドの小国は対抗できませんでした。インド・グリーク朝(紀元前2世紀頃~西暦1世紀頃)はバクトリアの侵略から始まったインド北西部のギリシャ人王朝ですが、仏典で有名なミリンダ王は、インド・グリーク朝の王メナンドロス1世だと言われます。

 ミリンダ王の時代、サンガラは首都となりました。サンガラ一帯は古代から絹の名産地として有名で、経済的基盤がしっかりしていたのでしょう。トハリスタンのバクトリア本国は、中央アジアから流れてきたイラン系遊牧民族月氏に滅ぼされます。月氏の中から台頭したクシャーナ朝はインドへも侵攻を開始しインド・グリーク朝はこの時滅ぼされたとも、それ以前にインドへ移動した来たサカ族などの遊牧民に滅ぼされたとも言われはっきりしません。

 サンガラがいつ頃シアールコートと呼ばれれるようになったかははっきりしませんが、一説では2世紀頃カシミールのサルバン王が戦乱で荒廃したサンガラを復興しシアールコート砦を築いたのが始まりだと言われます。サルバン王はスキタイ系のジャート族で、シアールコートは現地の言葉でシアの砦という意味だそうです。

 シアールコートはパンジャーブ地方の有力都市だったことから何度も戦乱に巻き込まれます。5世紀末には中央アジアに興った強力な遊牧民族エフタルがこの地を征服し首都と定めました。その後はインド勢力が取り戻しますが、ムガール帝国第三代アクバル帝の時シアールコートをラホール州に組み込みました。

 ムガール帝国が衰えるとシアールコートはシク王国が占領します。イギリスがインド支配に乗り出すと、第2次シク戦争の結果シアールコート一帯はイギリスのものとなりました。パンジャーブ地方の中心都市がラホールに移ったのはムガール帝国時代ですが、シアールコートも古都として緩やかに衰退しつつも現在に至っています。

伏波将軍 馬援

 前記事陰麗華のところでちょっと名前が出た伏波将軍馬援(BC14年~49年)。実は祖先も子孫も面白い人物でした。馬援の先祖は戦国時代趙国を支えた名将馬服君趙奢(ちょうしゃ)。完璧の使者藺相如、名将廉頗と同時代の人で恵文王に仕えます。閼与(あつよ)の戦いで秦の大軍を破り恵文王から馬服君に封じられました。藺相如、廉頗、趙奢が健在な間、秦は趙を攻めなかったとも言われるほどの優れた人物でした。

 ただその息子趙括は父親に全く似ない不肖の息子で長平の戦いでやらかし趙を滅亡寸前に追い込みました。さすがに趙括の子孫というのは無いでしょうから他の兄弟の子孫なんでしょう。趙奢が馬服君に任じられたことから、子孫は馬氏を称しました。馬援の子孫も面白いんです。三国志で有名な西涼の馬騰、その息子馬超、甥馬岱も彼の子孫でした。

 馬氏は武門の名家として右扶風茂陵県(現在の陝西省咸陽市に含まれる)に代々続きました。前漢が外戚王莽に簒奪され新王朝ができた時、馬援は新王朝から郡の督郵に任じられます。督郵と言えば三国志演義のイメージから賄賂を貰って悪政をする役人というイメージ(そしてキレた張飛からタコ殴りされるwww)ですが、ただの監察官でした。

 ある時、馬援は囚人を護送する任務に就いていましたが、囚人に同情し逃がしてしまいます。そうなると自分も罪に問われますから彼も逃亡しました。北方に逃げて牧畜業を始めます。役人になるより牧畜業を目指していたそうですから、晴れて希望が叶ったとも言えます。馬援は鷹揚な性格で面倒見が良かったことから彼を慕い人々が集まって地元の有力者みたいな形になりました。本人としては不本意だったのかもしれません。

 新は王莽のでたらめな政治で大混乱に陥ります。馬騰は隴西に割拠した群雄の一人隗囂(かいごう)に仕えました。当時群雄の中で勢いがあったのは河北に割拠した劉秀と、蜀(四川省)に勢力を張った公孫述でした。隗囂は両者の内情を調べるため馬援を使者として送り込みます。

 最初、公孫述に使いした馬援は、同郷であるため歓迎されると思っていました。ところが公孫述は傲岸不遜な態度で冷遇します。馬援を信用せず刺客とも言わんばかりの態度だったそうです。馬援は公孫述を「井の中の蛙」と評します。次いで劉秀のもとに赴いた馬援は、今度は歓迎されます。

 不思議に思った馬援は劉秀に尋ねました。「劉秀様はなぜ私を歓迎してくださるのでしょうか?敵でないにしても味方とも言えないのに。刺客であると疑わかねないでしょうに」と。

 劉秀は笑って答えました。「まさか刺客ではないだろう。説客ではあるだろうが」。そしてかねてから馬援の人物を買っていたとも言いました。これに感動した馬援は劉秀に心服します。隗囂のもとに戻った馬援は「同じ味方に付くなら劉秀のほうがはるかにまし」と説得しました。これを受け隗囂は劉秀に降ります。

 馬援は劉秀に重用され太中大夫(宮中顧問官)、隴西太守などを歴任しました。のち、軍人としての才能を見出され将軍となって劉秀の天下統一に貢献します。かつての主君隗囂は30年、結局反逆して滅ぼされました。しかし劉秀の馬援に対する信頼は揺らぐことがなかったそうです。それは皇子劉荘(後の明帝)の正室に馬援の娘を迎えたことでも分かります。

 劉秀の覇業を助けた馬援ですが、天下統一後もその活躍が衰えることはありませんでした。40年越(現在のベトナム北部)に起こった徴姉妹の反乱を鎮圧したのも馬援ですし(この時伏波将軍に任じられる)、48年武陵五渓の蛮族の乱を鎮めたのも馬援でした。この時62歳。光武帝(劉秀)は「もう年なのだから止めたらどうか」と諭したそうですが、馬援は「まだまだ馬にも乗れます」と言って実演して見せたそうです。光武帝は笑って出陣を許しました。『老いてますます壮ん』の故事の由来です。

 たださすがに無理が祟ったのか、馬援は陣中で病にかかり没します。享年63歳。死後、馬援を恨んでいた梁松から「馬援は戦利品を私物化していた」と讒言され、それを信じた劉秀は怒ったそうですが、孫の章帝の時に名誉回復され忠成候と諡(おくりな)されました。

 馬援は乱世をうまく生き抜いた名将と言えるでしょう。

妻を娶らば陰麗華

 支那の歴史上、どうしよもない悪女が多数登場します。その代表は前漢高祖皇帝劉邦の皇后で夫劉邦の死後漢王朝を乗っ取ろうとした呂后(呂雉)、唐三代高宗皇帝の皇后で夫を蔑ろにし国政を壟断した則天武后、清九代咸豊帝の側妃で事実上清を滅亡に追い込んだ西太后で、三大悪女に数えられます。

 ほかにも夏王朝を滅ぼした末喜、商(殷)王朝を滅ぼした妲己、春秋列国の一つ陳を滅ぼした夏姫、西周を滅ぼし周王朝を衰退させた褒姒など数え上げたらきりがありません。世界史上、悪女のしでかしたことは残るので彼女たちが有名になるのは仕方ないことかもしれません。一方善良な女性はなかなか残らないものです。

 過去に記事を書いた竇猗房(前漢五代文帝の皇后で六代景帝の母)などは稀有の例だと思います。こういった女性は賢いので子供の教育にも熱心で皇位を継いだ皇太子は大体名君になります。今回登場する陰麗華もそのような女性の一人です。

 前漢末期、南陽郡新野(しんや)県(現在の河南省南陽市に含まれる)の大豪族陰氏の娘に生まれた麗華(5年~64年)は近所でも評判の美人だったそうです。近隣の豪族の若者のあこがれのまとで後に後漢王朝を開く劉秀もその中の一人でした。麗華は男勝りで勝気な性格だったそうですが、聡明で優しくまさに理想ともいえる人だったと伝えられます。父の陰氏は麗華を溺愛し婚姻の申し出があってもことごとく断っていました。

 高嶺の花麗華を評して「妻を娶らば陰麗華」という言葉が流行ったとも伝えられますので、それだけ理想の美女だったのでしょう。

 平穏無事な時代なら地方の名もない女性で終わったかもしれません。しかし激動の時代です。前漢を簒奪した王莽は新を建国、周代の政治を理想とする時代錯誤な政策を行い世の中は大混乱に陥っていました。各地で反乱が相次ぎ、劉秀も兄の劉縯に誘われて反新の反乱に参加します。

 最初麗華の父陰氏は、反乱を苦々しく思い距離を置いていたともいわれます。ところが緑林軍に参加した劉秀兄弟は西暦23年昆陽の戦いで40万人とも言われる新の大軍を撃破、一気に勢力を拡大しました。陰麗華が劉秀に嫁いだのは同じ年の23年だったと言われます。

 ところが劉秀は河北を転戦し24年地元の有力豪族郭昌の娘郭聖通を娶りました。政略結婚だったと言われますが、郭聖通は25年皇子劉彊(りゅうきょう)を産みます。劉秀が25年(建武元年)皇帝として即位するとき、正室の陰麗華を皇后に立てようとしました。しかし麗華は男子を産んでいないことを理由に断り、皇后の座を郭聖通に譲ります。

 聡明な彼女は、大きな勢力を持つ郭一族との関係が壊れることを憂いたとも言われます。このあたり麗華の人間性がよくわかりますね。夫劉秀の地位の安定を自分の栄華より優先させたのですから。そんな彼女も28年皇子劉荘を産みます。

 後漢王朝が安定してくると、実家の勢力を背景に我儘し放題の郭皇后を劉秀は次第に疎むようになっていきました。ついに我慢の限界にきた劉秀は、41年郭聖通から皇后の地位を剝奪、劉彊も皇太子を廃されます。実は劉彊は自ら廃太子を申し出たとも言われ、我儘な母とは似ないできた人物だったようです。劉秀もそんな劉彊を哀れに思い、中山王、次いで沛王に封じました。劉彊は領地で善政を布き賢王とたたえられます。

 郭聖通は皇后を廃されたものの、劉秀は郭一族に配慮し諸侯に封じるなど配慮したため大きな混乱は起こらなかったようです。郭聖通自身も不満は抱きながらも反乱を企てるなどの大それたことはせず52年、46歳で亡くなりました。

 郭聖通が皇后を廃された時、陰麗華は晴れて皇后に立てられました。しかし聡明な彼女はけっして驕らず夫劉秀を助け賢夫人と称えられます。息子劉荘も皇太子に立てられ後漢二代明帝となりました。麗華は皇后となっても質素な生活を守り自身の一族にも大きな権力を与えなかったと言われます。64年陰皇后死去、享年59歳。

 陰麗華は、唐太宗の皇后長孫皇后、彼女の息子後漢明帝の皇后馬皇后(伏波将軍馬援の娘)と共に支那史上でも優れた皇后として称えられています。まさに「妻を娶らば陰麗華」ですね。

長安 - 世界の都市の物語 -

陝西省地図

 現在の支那大陸、陝西省の省都西安はかつて長安と呼ばれる大都市でした。黄河が几状に湾曲する内側(南側)に位置し、南を秦嶺山脈に隔てられ東は函谷関、潼関の険に守られています。西は細い回廊である甘粛回廊に囲まれた盆地を渭水(いすい)盆地と呼びます。中心には西から東に渭水が流れ黄河に合流しています。

 この地は決して肥沃ではありませんが、天然の要害として古くから国家が成立し中原(黄河中流域)の国家群と対峙しました。古くは周王朝、次いで秦が勃興します。西周の都鎬京(こうけい)は現在の西安市の西5㎞ほどにあったとされますが、まだ場所は特定されていません。秦の首都咸陽は長安とは渭水を挟んだ北側にありました。ちなみに咸陽の名は、九嵕山(きゅうそうざん)の南で渭水の北という風水上の山の南、川の北という条件を二つながら備えた咸(みな)陽という意味で名づけられたそうです。

 咸陽の南に都市らしきものが成立したのは、始皇帝の時代有名な阿房宮が渭水の対岸である南側に建てられてからです。漢の高祖劉邦は、項羽によって徹底的に破壊された咸陽の再建をあきらめ、阿房宮のあった渭水の南岸に新たな都を建設しました。これが長安の始まりです。阿房宮よりは北東側、より渭水に近いところに漢の長安城はありました。

 周は鎬京の他に、副都として黄河中流域、中原の西側の盆地に洛邑(らくゆう)を建設します。のちの洛陽で、後漢の首都となりました。洛邑を建設したのは周(西周)三代成王(在位紀元前1042年~紀元前1021年)だったと伝えられます。ですから都市としての歴史は長安より洛陽の方が遥かに古いのです。

 戦国時代末期、秦は渭水盆地の農業生産力を向上させるため渭水流域に大規模な灌漑工事を施しました。これが有名な鄭国渠(ていこくきょ)です。鄭国渠は秦王政(後の始皇帝)即位元年に起工され十数年の歳月をかけて完成します。これで渭水盆地の農業生産力はかなり向上したと言われますが、肥沃な中原の生産力にはまだまだ及びませんでした。後漢の光武帝劉秀が長安を諦め洛陽を首都としたのも農業生産力の高さを重視したのでしょう。広大な支那大陸を支配するにも西に偏った長安より、中原に位置する洛陽の方が都合良かったと思います。

 後漢の後、魏も晋も洛陽を首都とします。その後五胡十六国の混乱期、南北朝時代にも長安が首都となることはありませんでした。長安が再び首都となったのは隋の高祖楊堅によってでした。隋の後を受けた唐も長安を首都と定め、空前の繁栄期を迎えます。実は隋も唐も純然たる漢民族王朝ではなくモンゴル系の鮮卑族の王朝でした。実は遊牧民にルーツを持つ王朝には特徴があって、平野の中心より平野と草原の境界線に首都を設けるケースが多いと言われます。それは万が一支配下の農耕民が反乱を起こした時、容易に本拠地の北方草原地帯に逃れられるからです。元の首都大都(現在の北京)も似たような理由で首都に選ばれました。

 同じ鮮卑族の北魏は、大同から中原の真っただ中の洛陽に遷都したではないかと反論する方もいるでしょうが、北魏はあまりにも漢化政策を進めすぎたために北方遊牧民としての精強さを失い滅亡しました。唐の皇室李氏が鮮卑族出身であることは周辺遊牧民には周知の事実だったらしく、彼らは唐の皇帝を天可汗として崇めました。

 唐は中央アジアにも進出し空前の繁栄期を迎えました。首都長安は国際都市として栄え、色目人(中央アジアのイラン系民族ソグド人など)も多く住んでいたそうです。全盛期の長安は人口100万人を超える大都市だったと言われます。しかし、満ちれば欠けるが世の習い。さしもの唐王朝も末期には腐敗が進み地方の反乱に悩まされました。有名な安史の乱は唐王朝に実質的な止めを刺したと言われますが、唐末期に起こった黄巣の乱は長安にも波及し荒廃します。黄巣の乱で台頭した群雄の一人、朱全忠は衰退した唐王朝を簒奪し新たに後梁という新国家を樹立します。首都も本拠地だった大梁(開封 汴京【べんけい】とも呼ぶ)に移し、以後長安が統一王朝の首都となることはありませんでした。

 長安が西安と改められたのもこの頃だと伝えられます。渭水盆地の農業生産力の低さが歴代王朝で首都に選ばれなかった理由でしょう。現在の西安市は古都の面影を残していると言われます。悠久の歴史を感じるためにいつか西安に訪れたいですね。阿房宮跡、咸陽跡、始皇帝陵など周辺の遺跡も興味があります。

ラージャグリハ(王舎城) - 世界の都市の物語 -

ラージャグリハ地形図

 今回はインド史や仏典に詳しくない一般の方は全く知らない都市だと思います。しかし仏教徒には忘れてならない重要都市です。釈尊が初めて布教した都市で時のマガダ国王ビンビサーラも釈尊に帰依しました。有名な竹林精舎もラージャグリハにあります。現在の市街地は山の北側にありますが、当時の市街地は東北東から西南西に細長く広がる南の盆地に存在しました。北インドでは珍しく温泉の湧き出るところで、当時は風光明媚な都市だったと思います。

 現在のビハール州の州都パトナは旧名パータリプトラといい歴代マガダ国の首都でした。有名なアショーカ王のマウリア朝もその後に興ったグプタ朝もパータリプトラを首都とするマガダ国です。ラージャグリハからパータリプトラに遷都したのはビンビサーラの息子アジャータシャトル王の時代だと言われますが、だいたい紀元前5世紀ころの話です。パータリプトラの記事の時に詳しく語ったのでここでは簡単に述べますが、遷都の理由は外征に有利なガンジス河流域で東西に軍勢を派遣しやすかったからだとも言われます。あるいは父殺しの汚名を解消したかったから心機一転遷都したとも言われます。

 はじめはビンビサーラ王との関係から仏教教団を敵視し弾圧したアジャータシャトル王も、後に和解し仏教を保護します。有名な祇園精舎は大富豪スダッタが旧コーサラ国(アジャータシャトル王が滅ぼした)の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に建設して寄進したとされますが、アジャータシャトル王も資金援助し協力したそうです。

 話をラージャグリハに戻すと、ラジャとは王の意味で王の支配する町というのが語源だそうです。ラージャグリハの成立には数々の伝説がありますが、周囲を山に囲まれた要害の地だったことが大きかったと思います。日本で言えば鎌倉や朝倉氏の本拠一乗谷みたいなイメージです。外輪山は自然の障壁になりますし、防御施設を作るのも容易ですからね。

 驚くべきは、こんな小さな盆地に最盛期10万人もの人口がいたことです。紀元前5世紀のパータリプトラに遷都直前の頃だそうですが、温泉が湧き出るくらいだから水は豊富だったのでしょう。『仏国記』で有名な支那東晋の仏僧法顕もラージャグリハを訪れました。405年から407年にかけてインドの仏教遺跡を巡っています。405年と言えばグプタ朝マガダ国の時代。首都はパータリプトラですが、ラージャグリハはかなり衰微していたと想像します。竹林精舎の跡を眺めたとき法顕は感慨深かったと思います。

 ちなみに法顕はシルクロードからアフガニスタンに入りカイバー峠を越えてインド亜大陸に入っています。インド各地の仏教遺跡を巡った後セイロン島に渡り、海路で東晋に戻ったそうです。荊州江陵で亡くなりました。享年86歳。現在ですら大変なのにこんな大旅行をできたのですから体力も運もあったんでしょうね。仏僧は各地で保護されたのかもしれません。イスラム教が普及する前で良かったと思いますよ。イスラム教全盛時代ならシルクロードの時点で殺されていたかもしれませんね。

 仏教の歴史と深い関わりのあるラージャグリハ、いつか訪れてみたいです。

エルサレム - 世界の都市の物語 -

エルサレム旧市街地図

 考えてみたら世界の都市の物語シリーズもずいぶん長くなりました。最初はパリから始まってロンドン、テーベ、カイロ、北京、トレド、ウィーン、杭州、バルフ、セレウキアとクテシフォン、アンティオキア、メルブ、開封、パータリプトラ、アレッポ、サマルカンドと続きました。もしかしたら抜けている都市もあるかもしれません。現在も栄えている都市もあれば、すでに廃墟となって忘れられた都市もあります。今回はイスラエルの首都でありユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地でもあるエルサレムです。

 ちなみにイスラエルはエルサレムを首都としていますが公式には認められていません。公式にはテルアビブが首都です。アラブ諸国が反発するので欧米はじめ各国はエルサレムを首都と認めたくないのです。ただし2017年アメリカのトランプ大統領が公式にエルサレムをイスラエルの首都と認めたことから、既成事実となっていくのでしょう。

 エルサレムの歴史は古く紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて存在したユダ王国の首都となりました。地中海から内陸部に入った標高800mの小高い丘の上にあります。一般にエルサレムという場合この旧市街を指します。ユダヤ教とキリスト教の聖地であることは分かると思うんですが、実はイスラム教でも教祖ムハンマドが天に昇った所だとされ、メッカ、メディナに次ぐ第3の聖地に定められています。

 都市の起源はさらに古く、ユダヤ人が来る前の紀元前30世紀にも遡るとされます。この地はカナンとよばれセム系民族が住んでいたそうです。彼らが現在の旧市街に当たるオフェルの丘に集落を築いたのが起源です。実はユダヤ教や旧約聖書の舞台は現在のイスラエルではなく紅海沿いのメッカやメディナのあるアラビア半島西岸地方だとする説があります。ユダヤ人は牧畜民なのでカナンの地にも至ったことがあるでしょうが、もともとは先住民がいたのです。そして元来のユダヤ人もセム系民族でアラブ人に近い人種でした。今住んでいるイスラエルの白人系ユダヤ人はロシア平原にあったハザール汗国の末裔が多いと言われます。ユダヤ教を信仰したらユダヤ人になるので民族のルーツとかはあまり重視されないと言われます。このあたり知識がないので間違っていたらご指摘ください。

 ただしすべてがロシア系というわけではありません。ローマ帝国によりユダヤ王国が滅ぼされて以降、ユダヤ人はヨーロッパ各地に移り住みました。その地で金融業などを営み財を成し、現地で長く生活するうちに混血して白人化していったのです。トルコの場合と似ていますよね。トルコももともとはモンゴル高原西部に住む遊牧民でモンゴル人に近い風貌でした。言語もモンゴル語とは方言の違いくらいに似ていたそうです。ところが突厥(トルコの漢訳だと言われる)の拡大、セルジューク朝の西遷でまず中東に移り、オスマン朝時代に小アジアに定着して以降現地人と混血し白人化しました。イスラエルの900万人の人口のうちロシア系は120万人ほどだそうです。

 旧約聖書でもダビデ王がこの地に住むペリシテ人(パレスチナ人?)を倒して要害の地であるエルサレムに都を築いた話が載っています。このように歴史を遡れば誰が元々住んでいたと争うと収拾がつかなくなるため、現在誰が住んでいるかで定住権を認めるしかありません。ユダヤ人もローマに滅ぼされ各地に四散しましたからね。そのときエルサレムは徹底的に破壊されたそうです。

 その後セム系民族が戻ってきてこの地に定住し、トルコ人やモンゴル人などの遊牧民族もこの地を通ったり支配したりします。エジプトの領土となったこともありました。その後オスマン朝の領土となり、帝国主義時代にはイギリスが奪って植民地にしました。第1次世界大戦に協力させるため三枚舌外交でユダヤ人やパレスチナ人それぞれに甘い言葉で独立を約束し騙したイギリスが一番悪いと思いますが、イスラエルは曲がりなりにも建国し、周囲のアラブ諸国と4度に渡る中東戦争を勝ち抜いたんですから、定住する権利を獲得したと思うんですよ。

 厳しい話ですが世界は実力勝負。中東戦争で勝利できなかったパレスチナが悪いんです。綺麗事を言う連中は「パレスチナ人が可哀想と思わないのか?」と非難しそうですが、可哀想だとは思いますよ。でもどうしようもありません。アラファトのPLO(現ファタハ)はイスラエルを滅ぼして自分たちのパレスチナ国家を建設するという夢は諦め共存の道を探りました。昔はPLOも最悪のテロ組織だったんです。

 現実に目覚めずテロを繰り返しているのはガザ地区を実効支配するイスラム教原理主義テロ組織ハマスです。イスラエルにも生存権はあります。何度も戦争して大きな犠牲を払っているんですからね。ハマスは未だにイスラエル殲滅を謳っているんですから、どちらかが滅ぶまで徹底的にやるしかないでしょう。話し合いの余地はありません。

 綺麗事を言わせてもらうと、エルサレムの旧市街を国際管理にしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべての信者が平等に暮らしたり訪問する権利を保障するのが一番望ましいんでしょうが、現実はそう甘くないので実現は不可能でしょうね。

 イスラエルに平和が訪れるのはいつでしょうか?その前に聖書で言うハルマゲドンが起こって世界の終わりが来たら最悪ですよ。

世界史における『点と線』

 過去記事『支那事変における『点と線』批判に対する再批判』の続きになります。かなり前の記事なので覚えている方はほとんどいないと思いますが、そこでは支那事変で日本軍が都市(点)と補給線(線)しか支配できなかったので負けるのが当然とした論は軍事上あり得ない話で、近代軍になればなるほど点と線だけ維持すれば良く、面(広域)を支配することは無意味だと結論付けました。

 点と線批判論者は、戦前の日本をことさらに貶めたい反日左翼か軍事ど素人の阿呆だと思います。欧米では大学で軍事学を教えているほどで一般人でもある程度の軍事常識を持っていますが、日本は狂った戦後教育によって軍事知識を忌避した結果特亜による反日洗脳に簡単に騙されるようになりました。

 731部隊が典型で、あれは単なる関東軍防疫給水部本部の秘匿名称(通称号)です。ですから特亜や日本の反日左翼が悪宣伝するような731部隊が支那戦線やビルマ戦線に出張って細菌戦を行ったという話は軍統帥上絶対あり得ない話で、万が一事実だとすれば軍法会議ものです。731部隊は共産党党外作家の森村誠一が書いた『悪魔の飽食』がきっかけだと思いますが、森村も日本共産党も軍事に関する基本的知識が欠如していたためにおかしな論になってしまいました。

 これが本当に陸軍で細菌戦を研究していた登戸研究所が絡んだ話だと信憑性があったんですがね。まあ、それでも軍事知識が全くない平和ボケ日本人は簡単に騙せたので連中の目的は達せられたのでしょうが…。

 話が脱線したので本論に戻すと、点と線批判は毛沢東の戦略があったのではないかと今になって思えます。というのも支那共産党はまともに戦ったら国民党軍にも日本軍にも勝てないため、点である拠点を攻略できなかったのです。ですから次善の手段として都市の周辺の農村部に浸透し支配することで都市を包囲し、補給線を分断して都市を奪うという作戦方針でした。いわば弱者の戦術です。

 日本の反日左翼は、毛沢東信者が多いため彼の主張が絶対に正しいと思い込み歪んだ知識で戦前の日本を判断していたのでしょう。世界史を眺めて見ても、あらゆる軍隊は点と線しか支配していません。ローマ軍然り、アレクサンドロス大王のマケドニア軍然り。遊牧民族のモンゴル軍やティムール軍もそうだし、オスマントルコ軍もです。

 国家を征服する場合、敵国民の数が圧倒的に多いわけですから征服者は重要な補給拠点である都市や兵站基地さえ維持できれば良く、点と点を結ぶ補給線さえ重視すれば他は必要ありません。敵首都を制圧し敵の主力軍を粉砕できれば、抵抗する地域や都市はそのあとゆっくり料理すれば済みます。まずは降伏勧告し、それに従わなかったら一つの都市を見せしめに攻略、住民を残酷な方法で虐殺します。すると噂はたちまち広がり他の抵抗する都市は降伏していくでしょう。

 面である農村部は、それだけでは抵抗できません。少なくともその地域の都市に集まって抵抗するでしょう。どんな軍隊、民兵であってもよほど小規模なレジスタンス以外は兵站拠点が絶対必要だからです。ですから国共内戦や支那事変における毛沢東の支那共産党軍以外で、点でなく面を重視した戦術を採用した軍隊はちょっと記憶にありません。もし他の例をご存知の方はご教示ください。アフリカの内戦ではありそうですね。あれは毛沢東主義を採用していますから、当然なんでしょうが。

 古代、中世でもそうだし近代現代になればなるほど点と線だけが重要だとご理解頂けたと思います。さすがに現代戦では見せしめに住民虐殺するような暴挙はしませんが(ウクライナ戦争のロシア軍は例外、あれは兵器はともかく本質的には中世以前の蛮族の軍隊)、徹底的な空爆で一つの都市を廃墟にしたりして住民に抵抗の意思を失わせるくらいのことはやります。

 結局、点と線批判は的外れで、逆に点と線のみが重要だという結論です。いまさら言わずもがなの話ですが、皆さんのご感想をお聞かせください。

支那史に関する与太話

 今ちょうど岡田英弘氏の『皇帝たちの中国』を読んでいます。これを買ったきっかけは、YOUTUBEで岡田氏の妻である東洋史学者宮脇淳子先生が同書を解説していたからです。私は宮脇先生が大好きで、勝手に「ずんこ先生」と呼んで慕っています。本人が知ったら怒るでしょうが(苦笑)。

 それはともかく、岡田英弘氏は東洋史学者で専門は宮脇氏と同じく北アジアの遊牧民研究の大家です。支那史に関しても詳しく、漢民族が東夷西戎南蛮北狄が中原(黄河中流域)に集まって交易する際に共通の言語漢字を作って意志疎通をしたことから成立した融合民族だという指摘は私も納得しました。同書に関してはそのうち書評を書くかもしれませんが、まだ3分の2しか読んでいません。最近年取ったせいか読書スピードが落ちて新書でも読むのに一週間くらいかかるんですよ。

 まずは皇帝たちの中国史を読んでいて思った点を書きます。突然ですが、始皇帝の皇太子扶蘇、唐の高祖李淵の皇太子李建成、明の太祖朱元璋の皇太子李標の共通点をご存知でしょうか?

 よほど支那史に詳しくないと知らない名前だと思いますが、この三人は共通して温厚篤実な性格で調整型、臣下にも慕われて次期皇帝間違いなしと思われていた人物です。ところが三人とも皇帝になる前に亡くなっています。特に扶蘇、李建成は悲惨で扶蘇の場合は、奸臣趙高の陰謀で無実の罪を着せられ自害、李建成に至っては有能な弟李世民(二代太宗皇帝)に暗殺されました。李標は権力争いに巻き込まれる前に病死しましたが、その息子で明王朝二代を継いだ建文帝允炆(いんぶん)は、叔父(朱標の弟)である燕王朱棣(しゅてい 後の明三代永楽帝)による反乱(靖難の変)で殺されました。

 ですからもし朱標が長生きしても、弟燕王に殺された可能性はあります。性格が優しすぎるのは皇帝としては不利な要素なのかもしれませんね。庶民なら皆から慕われて安楽な生涯を送ったかもしれませんが、熾烈な権力争いを生き抜くにはマイナスなのでしょう。李建成の父李淵は凡庸な人物ですが、始皇帝にしても朱元璋にしても強烈な個性でどちらかというと悪人の類です。

 そんな父を見ていたから反面教師にして優しい性格に育ったのでしょうが、皇帝の座を狙う親族たちにしてみれば格好の餌食だと映ったのでしょう。李淵は凡庸な人物でしたが、次男の李世民は始皇帝や朱元璋と同じく強烈な個性の持ち主です。後世支那史上最高の名君と称えられる李世民ですが、兄である皇太子李建成を玄武門の変で殺害したのですから善人ではないでしょう。しでかした事実だけから見ると悪人です。

 もっとも実の兄弟を殺害して皇帝の座に就いた李世民は、そのことを生涯気に病み善政を布いたそうですから、支那の庶民にとっては幸いでした。いろいろ考えると、最高権力者の息子に生まれた場合善良だといずれ殺される運命なのかもしれません。それだけ権力の魔力は恐ろしいという事なのかもしれませんね。

劉邦、朱元璋が成功して李自成、張献忠が失敗した理由

 世界史、支那史に興味のある方は少ないと思うのでスルーして下さいな。世界史書庫の前記事秦良玉の話で明末の反乱指導者張献忠について触れましたが、あまりにもお粗末な末路でした。せっかく蜀(四川地方)を得たのに、それを生かすどころか無意味な殺戮をして国家として維持できなくなり、蝗がその地域を食べ尽くして他の地方に移るように蜀を捨て陝西省に攻め込もうとしたところを女真族の後金(のちの清王朝)軍に攻められて敗死するという最期です。おそらく支那史上でも最悪の支配者で無意味に殺された蜀の人たちは浮かばれません。

 しかし、蜀地方は諸葛亮の天下三分の計でも分かる通り四方を山岳に囲まれた要害の地で歴史上何度も独立勢力が生まれました。さすがに人口がそこまで多くないので蜀から打って出て天下を統一した勢力はいませんが、数十年間独立を維持することはできたはず。張献忠がサイコパスで物の道理も分からない異常者だったと言えばそれまでですが、ちょっと理解し難い行動です。

 そこで歴代王朝の創始者はどうだったか考えてみました。秦の始皇帝は元々戦国七雄の一角で最有力の秦王、後漢の光武帝劉秀は漢室の流れをくむ名門で南陽の豪族出身(という事は私兵を持っている)、晋の武帝司馬炎は祖父司馬懿以来魏王朝の実力者で魏王朝を弱らせた末に簒奪、隋と唐は鮮卑族出身で漢化した軍閥、宋の太祖趙匡胤は五代最後の王朝後周の最高軍司令官で数十万の軍を握っていたなど有利な条件の者ばかりでした。

 その中で前漢の高祖劉邦と明の朱元璋だけは庶民から身を起こし天下統一したので、同じく農民反乱の指導者李自成や張献忠と比較できると思ったのです。とはいえ、劉邦は割と裕福な農民出身で小役人とはいえ秦に仕えていたので、本当の意味で貧民から立身出世したのは乞食坊主の朱元璋だけだったかもしれません。一応朱元璋の祖父も安徽省有数の大富豪だったそうですが、風水に凝りすぎて天子が生まれる天子穴という龍穴を探すために全財産をはたきました。この話は不思議書庫で書庫で書いたような気がします。

 自らの王朝を開いた劉邦、朱元璋と李自成や張献忠との違いは人材を生かせたかどうかだと思います。劉邦には漢の三傑と謳われる丞相の蕭何、軍師の張良、将軍の韓信をはじめとして多士済々が揃っていました。劉邦は軍を指揮するのは下手ですが、韓信が評するところの将に将たるの器で、天下統一するにふさわしかったのでしょう。

 朱元璋も有能な将軍である徐達、丞相の李善長、軍師の劉基など人材が揃っていました。朱元璋はこれら有能な人材の意見を取り入れ天下統一を果たしたのです。李自成も北京を攻略し明王朝を滅ぼすまでは知識階級を登用し彼らの意見を取り入れていたそうです。ですから最後は明を滅ぼすことが出来たのでしょう。

 ところが北京を占領した途端、箍が外れます。李自成軍は暴徒と化し略奪暴行強姦殺人と暴虐の限りを尽くしました。ここまでくると、李自成に従っていた知識階級は彼を見限って離れます。李自成が一番気を付けないといけない人物は、明の主力軍を握り山海関で女真族の後金軍と対峙している呉三桂です。ところが欲望に任せて呉三桂が北京に残してきた愛妾陳円円を奪ったために呉三桂を怒らせます。呉三桂はあろうことか後金軍と和睦し自ら尖兵となって北京に攻め込みました。

 呉三桂軍と後金軍に襲い掛かられ命からがら北京を逃げ出した李自成は最後は元の流賊にまで落ちぶれ、略奪しようとして現地の農民の自警団に殺されるという悲惨さでした。張献忠に関しては、もっと救いがたい最期です。無惨に殺された蜀の人々の恨みを思えば、後金軍に捕らえられ車裂きの極刑で殺されて欲しかったとすら思います。戦死だとあまり苦しまずに死んだはずですから。

 李自成や張献忠と、天下統一した劉邦、朱元璋との一番の違いは何でしょうか?私は自分を律する自制心だと考えるんですよ。最高権力者となって庶民の生殺与奪の権を握れば好き勝手出来ます。殺したいと思えば簡単に殺せるし、奪いたいと思えば奪えます。綺麗な女がいたら人妻であろうが何だろうが自分のものにできるのです。しかしそれをやれば人心が離れます。

 劉邦にしても朱元璋にしても、こういった欲望が無かったとは言いません。ただ良臣の意見を素直に聞き自制したから天下の輿望を集められたのでしょう。特に張献忠は劉邦や朱元璋とは真逆の人間でした。だから一時は勢力を誇っても維持できず惨めに滅び去ったのだと思います。



 ここからは余談ですが、もし張献忠がまともなら300万人の人口しかいない蜀に60万人の大軍で攻め込むような愚は犯さないと思います。300万人の人口で維持できる適正兵力は外征で10万人、動員して27万人くらいです。せっかく湖北、湖南を平定したのだから30万人は現地に残し、30万人で蜀に攻め込むべきでした。現地の明の官軍の抵抗が激しく湖北、湖南を捨てざるを得なかったという事情はあったのでしょうが…。

 いくら戦乱で荒廃したとはいえ、湖北湖南の湖広地方は明代「湖広熟すれば天下足る」と称された一大穀倉地帯でした。そして長江を下った江東地方も宋代「江浙熟すれば天下足る」と呼ばれた穀倉地帯です。私なら蜀に入るより長江の険をたのんで南京から江蘇省、浙江省に攻め込みますけどね。湖広から江浙地方を支配できれば60万人でも100万人でも兵力維持できたと考えます。

 まあ、そういう常識的なことも理解できないほど愚か者だったという事なのでしょう。あるいは明側に智者がいて長江を下らせるより上流の蜀地方に追い込んだ可能性はあるかもしれません。こればかりは当時の状況を調べないと分かりませんが…。


 時流に乗れば流賊の親玉でも一時的には大きな勢力になれるのでしょうが、それを維持し天下平定できるかどうかは、人材を使いこなすことと、人心を失わないための自制心が必要だというのが私の結論です。
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歴史好き、軍事好きの保守思想の持主です。最近は時事ネタが多いですが広い気持ちでお許しください。本来は歴史ブログだったんですよ。

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