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長安 - 世界の都市の物語 -

陝西省地図

 現在の支那大陸、陝西省の省都西安はかつて長安と呼ばれる大都市でした。黄河が几状に湾曲する内側(南側)に位置し、南を秦嶺山脈に隔てられ東は函谷関、潼関の険に守られています。西は細い回廊である甘粛回廊に囲まれた盆地を渭水(いすい)盆地と呼びます。中心には西から東に渭水が流れ黄河に合流しています。

 この地は決して肥沃ではありませんが、天然の要害として古くから国家が成立し中原(黄河中流域)の国家群と対峙しました。古くは周王朝、次いで秦が勃興します。西周の都鎬京(こうけい)は現在の西安市の西5㎞ほどにあったとされますが、まだ場所は特定されていません。秦の首都咸陽は長安とは渭水を挟んだ北側にありました。ちなみに咸陽の名は、九嵕山(きゅうそうざん)の南で渭水の北という風水上の山の南、川の北という条件を二つながら備えた咸(みな)陽という意味で名づけられたそうです。

 咸陽の南に都市らしきものが成立したのは、始皇帝の時代有名な阿房宮が渭水の対岸である南側に建てられてからです。漢の高祖劉邦は、項羽によって徹底的に破壊された咸陽の再建をあきらめ、阿房宮のあった渭水の南岸に新たな都を建設しました。これが長安の始まりです。阿房宮よりは北東側、より渭水に近いところに漢の長安城はありました。

 周は鎬京の他に、副都として黄河中流域、中原の西側の盆地に洛邑(らくゆう)を建設します。のちの洛陽で、後漢の首都となりました。洛邑を建設したのは周(西周)三代成王(在位紀元前1042年~紀元前1021年)だったと伝えられます。ですから都市としての歴史は長安より洛陽の方が遥かに古いのです。

 戦国時代末期、秦は渭水盆地の農業生産力を向上させるため渭水流域に大規模な灌漑工事を施しました。これが有名な鄭国渠(ていこくきょ)です。鄭国渠は秦王政(後の始皇帝)即位元年に起工され十数年の歳月をかけて完成します。これで渭水盆地の農業生産力はかなり向上したと言われますが、肥沃な中原の生産力にはまだまだ及びませんでした。後漢の光武帝劉秀が長安を諦め洛陽を首都としたのも農業生産力の高さを重視したのでしょう。広大な支那大陸を支配するにも西に偏った長安より、中原に位置する洛陽の方が都合良かったと思います。

 後漢の後、魏も晋も洛陽を首都とします。その後五胡十六国の混乱期、南北朝時代にも長安が首都となることはありませんでした。長安が再び首都となったのは隋の高祖楊堅によってでした。隋の後を受けた唐も長安を首都と定め、空前の繁栄期を迎えます。実は隋も唐も純然たる漢民族王朝ではなくモンゴル系の鮮卑族の王朝でした。実は遊牧民にルーツを持つ王朝には特徴があって、平野の中心より平野と草原の境界線に首都を設けるケースが多いと言われます。それは万が一支配下の農耕民が反乱を起こした時、容易に本拠地の北方草原地帯に逃れられるからです。元の首都大都(現在の北京)も似たような理由で首都に選ばれました。

 同じ鮮卑族の北魏は、大同から中原の真っただ中の洛陽に遷都したではないかと反論する方もいるでしょうが、北魏はあまりにも漢化政策を進めすぎたために北方遊牧民としての精強さを失い滅亡しました。唐の皇室李氏が鮮卑族出身であることは周辺遊牧民には周知の事実だったらしく、彼らは唐の皇帝を天可汗として崇めました。

 唐は中央アジアにも進出し空前の繁栄期を迎えました。首都長安は国際都市として栄え、色目人(中央アジアのイラン系民族ソグド人など)も多く住んでいたそうです。全盛期の長安は人口100万人を超える大都市だったと言われます。しかし、満ちれば欠けるが世の習い。さしもの唐王朝も末期には腐敗が進み地方の反乱に悩まされました。有名な安史の乱は唐王朝に実質的な止めを刺したと言われますが、唐末期に起こった黄巣の乱は長安にも波及し荒廃します。黄巣の乱で台頭した群雄の一人、朱全忠は衰退した唐王朝を簒奪し新たに後梁という新国家を樹立します。首都も本拠地だった大梁(開封 汴京【べんけい】とも呼ぶ)に移し、以後長安が統一王朝の首都となることはありませんでした。

 長安が西安と改められたのもこの頃だと伝えられます。渭水盆地の農業生産力の低さが歴代王朝で首都に選ばれなかった理由でしょう。現在の西安市は古都の面影を残していると言われます。悠久の歴史を感じるためにいつか西安に訪れたいですね。阿房宮跡、咸陽跡、始皇帝陵など周辺の遺跡も興味があります。
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ラージャグリハ(王舎城) - 世界の都市の物語 -

ラージャグリハ地形図

 今回はインド史や仏典に詳しくない一般の方は全く知らない都市だと思います。しかし仏教徒には忘れてならない重要都市です。釈尊が初めて布教した都市で時のマガダ国王ビンビサーラも釈尊に帰依しました。有名な竹林精舎もラージャグリハにあります。現在の市街地は山の北側にありますが、当時の市街地は東北東から西南西に細長く広がる南の盆地に存在しました。北インドでは珍しく温泉の湧き出るところで、当時は風光明媚な都市だったと思います。

 現在のビハール州の州都パトナは旧名パータリプトラといい歴代マガダ国の首都でした。有名なアショーカ王のマウリア朝もその後に興ったグプタ朝もパータリプトラを首都とするマガダ国です。ラージャグリハからパータリプトラに遷都したのはビンビサーラの息子アジャータシャトル王の時代だと言われますが、だいたい紀元前5世紀ころの話です。パータリプトラの記事の時に詳しく語ったのでここでは簡単に述べますが、遷都の理由は外征に有利なガンジス河流域で東西に軍勢を派遣しやすかったからだとも言われます。あるいは父殺しの汚名を解消したかったから心機一転遷都したとも言われます。

 はじめはビンビサーラ王との関係から仏教教団を敵視し弾圧したアジャータシャトル王も、後に和解し仏教を保護します。有名な祇園精舎は大富豪スダッタが旧コーサラ国(アジャータシャトル王が滅ぼした)の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に建設して寄進したとされますが、アジャータシャトル王も資金援助し協力したそうです。

 話をラージャグリハに戻すと、ラジャとは王の意味で王の支配する町というのが語源だそうです。ラージャグリハの成立には数々の伝説がありますが、周囲を山に囲まれた要害の地だったことが大きかったと思います。日本で言えば鎌倉や朝倉氏の本拠一乗谷みたいなイメージです。外輪山は自然の障壁になりますし、防御施設を作るのも容易ですからね。

 驚くべきは、こんな小さな盆地に最盛期10万人もの人口がいたことです。紀元前5世紀のパータリプトラに遷都直前の頃だそうですが、温泉が湧き出るくらいだから水は豊富だったのでしょう。『仏国記』で有名な支那東晋の仏僧法顕もラージャグリハを訪れました。405年から407年にかけてインドの仏教遺跡を巡っています。405年と言えばグプタ朝マガダ国の時代。首都はパータリプトラですが、ラージャグリハはかなり衰微していたと想像します。竹林精舎の跡を眺めたとき法顕は感慨深かったと思います。

 ちなみに法顕はシルクロードからアフガニスタンに入りカイバー峠を越えてインド亜大陸に入っています。インド各地の仏教遺跡を巡った後セイロン島に渡り、海路で東晋に戻ったそうです。荊州江陵で亡くなりました。享年86歳。現在ですら大変なのにこんな大旅行をできたのですから体力も運もあったんでしょうね。仏僧は各地で保護されたのかもしれません。イスラム教が普及する前で良かったと思いますよ。イスラム教全盛時代ならシルクロードの時点で殺されていたかもしれませんね。

 仏教の歴史と深い関わりのあるラージャグリハ、いつか訪れてみたいです。

エルサレム - 世界の都市の物語 -

エルサレム旧市街地図

 考えてみたら世界の都市の物語シリーズもずいぶん長くなりました。最初はパリから始まってロンドン、テーベ、カイロ、北京、トレド、ウィーン、杭州、バルフ、セレウキアとクテシフォン、アンティオキア、メルブ、開封、パータリプトラ、アレッポ、サマルカンドと続きました。もしかしたら抜けている都市もあるかもしれません。現在も栄えている都市もあれば、すでに廃墟となって忘れられた都市もあります。今回はイスラエルの首都でありユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地でもあるエルサレムです。

 ちなみにイスラエルはエルサレムを首都としていますが公式には認められていません。公式にはテルアビブが首都です。アラブ諸国が反発するので欧米はじめ各国はエルサレムを首都と認めたくないのです。ただし2017年アメリカのトランプ大統領が公式にエルサレムをイスラエルの首都と認めたことから、既成事実となっていくのでしょう。

 エルサレムの歴史は古く紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて存在したユダ王国の首都となりました。地中海から内陸部に入った標高800mの小高い丘の上にあります。一般にエルサレムという場合この旧市街を指します。ユダヤ教とキリスト教の聖地であることは分かると思うんですが、実はイスラム教でも教祖ムハンマドが天に昇った所だとされ、メッカ、メディナに次ぐ第3の聖地に定められています。

 都市の起源はさらに古く、ユダヤ人が来る前の紀元前30世紀にも遡るとされます。この地はカナンとよばれセム系民族が住んでいたそうです。彼らが現在の旧市街に当たるオフェルの丘に集落を築いたのが起源です。実はユダヤ教や旧約聖書の舞台は現在のイスラエルではなく紅海沿いのメッカやメディナのあるアラビア半島西岸地方だとする説があります。ユダヤ人は牧畜民なのでカナンの地にも至ったことがあるでしょうが、もともとは先住民がいたのです。そして元来のユダヤ人もセム系民族でアラブ人に近い人種でした。今住んでいるイスラエルの白人系ユダヤ人はロシア平原にあったハザール汗国の末裔が多いと言われます。ユダヤ教を信仰したらユダヤ人になるので民族のルーツとかはあまり重視されないと言われます。このあたり知識がないので間違っていたらご指摘ください。

 ただしすべてがロシア系というわけではありません。ローマ帝国によりユダヤ王国が滅ぼされて以降、ユダヤ人はヨーロッパ各地に移り住みました。その地で金融業などを営み財を成し、現地で長く生活するうちに混血して白人化していったのです。トルコの場合と似ていますよね。トルコももともとはモンゴル高原西部に住む遊牧民でモンゴル人に近い風貌でした。言語もモンゴル語とは方言の違いくらいに似ていたそうです。ところが突厥(トルコの漢訳だと言われる)の拡大、セルジューク朝の西遷でまず中東に移り、オスマン朝時代に小アジアに定着して以降現地人と混血し白人化しました。イスラエルの900万人の人口のうちロシア系は120万人ほどだそうです。

 旧約聖書でもダビデ王がこの地に住むペリシテ人(パレスチナ人?)を倒して要害の地であるエルサレムに都を築いた話が載っています。このように歴史を遡れば誰が元々住んでいたと争うと収拾がつかなくなるため、現在誰が住んでいるかで定住権を認めるしかありません。ユダヤ人もローマに滅ぼされ各地に四散しましたからね。そのときエルサレムは徹底的に破壊されたそうです。

 その後セム系民族が戻ってきてこの地に定住し、トルコ人やモンゴル人などの遊牧民族もこの地を通ったり支配したりします。エジプトの領土となったこともありました。その後オスマン朝の領土となり、帝国主義時代にはイギリスが奪って植民地にしました。第1次世界大戦に協力させるため三枚舌外交でユダヤ人やパレスチナ人それぞれに甘い言葉で独立を約束し騙したイギリスが一番悪いと思いますが、イスラエルは曲がりなりにも建国し、周囲のアラブ諸国と4度に渡る中東戦争を勝ち抜いたんですから、定住する権利を獲得したと思うんですよ。

 厳しい話ですが世界は実力勝負。中東戦争で勝利できなかったパレスチナが悪いんです。綺麗事を言う連中は「パレスチナ人が可哀想と思わないのか?」と非難しそうですが、可哀想だとは思いますよ。でもどうしようもありません。アラファトのPLO(現ファタハ)はイスラエルを滅ぼして自分たちのパレスチナ国家を建設するという夢は諦め共存の道を探りました。昔はPLOも最悪のテロ組織だったんです。

 現実に目覚めずテロを繰り返しているのはガザ地区を実効支配するイスラム教原理主義テロ組織ハマスです。イスラエルにも生存権はあります。何度も戦争して大きな犠牲を払っているんですからね。ハマスは未だにイスラエル殲滅を謳っているんですから、どちらかが滅ぶまで徹底的にやるしかないでしょう。話し合いの余地はありません。

 綺麗事を言わせてもらうと、エルサレムの旧市街を国際管理にしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべての信者が平等に暮らしたり訪問する権利を保障するのが一番望ましいんでしょうが、現実はそう甘くないので実現は不可能でしょうね。

 イスラエルに平和が訪れるのはいつでしょうか?その前に聖書で言うハルマゲドンが起こって世界の終わりが来たら最悪ですよ。

世界史における『点と線』

 過去記事『支那事変における『点と線』批判に対する再批判』の続きになります。かなり前の記事なので覚えている方はほとんどいないと思いますが、そこでは支那事変で日本軍が都市(点)と補給線(線)しか支配できなかったので負けるのが当然とした論は軍事上あり得ない話で、近代軍になればなるほど点と線だけ維持すれば良く、面(広域)を支配することは無意味だと結論付けました。

 点と線批判論者は、戦前の日本をことさらに貶めたい反日左翼か軍事ど素人の阿呆だと思います。欧米では大学で軍事学を教えているほどで一般人でもある程度の軍事常識を持っていますが、日本は狂った戦後教育によって軍事知識を忌避した結果特亜による反日洗脳に簡単に騙されるようになりました。

 731部隊が典型で、あれは単なる関東軍防疫給水部本部の秘匿名称(通称号)です。ですから特亜や日本の反日左翼が悪宣伝するような731部隊が支那戦線やビルマ戦線に出張って細菌戦を行ったという話は軍統帥上絶対あり得ない話で、万が一事実だとすれば軍法会議ものです。731部隊は共産党党外作家の森村誠一が書いた『悪魔の飽食』がきっかけだと思いますが、森村も日本共産党も軍事に関する基本的知識が欠如していたためにおかしな論になってしまいました。

 これが本当に陸軍で細菌戦を研究していた登戸研究所が絡んだ話だと信憑性があったんですがね。まあ、それでも軍事知識が全くない平和ボケ日本人は簡単に騙せたので連中の目的は達せられたのでしょうが…。

 話が脱線したので本論に戻すと、点と線批判は毛沢東の戦略があったのではないかと今になって思えます。というのも支那共産党はまともに戦ったら国民党軍にも日本軍にも勝てないため、点である拠点を攻略できなかったのです。ですから次善の手段として都市の周辺の農村部に浸透し支配することで都市を包囲し、補給線を分断して都市を奪うという作戦方針でした。いわば弱者の戦術です。

 日本の反日左翼は、毛沢東信者が多いため彼の主張が絶対に正しいと思い込み歪んだ知識で戦前の日本を判断していたのでしょう。世界史を眺めて見ても、あらゆる軍隊は点と線しか支配していません。ローマ軍然り、アレクサンドロス大王のマケドニア軍然り。遊牧民族のモンゴル軍やティムール軍もそうだし、オスマントルコ軍もです。

 国家を征服する場合、敵国民の数が圧倒的に多いわけですから征服者は重要な補給拠点である都市や兵站基地さえ維持できれば良く、点と点を結ぶ補給線さえ重視すれば他は必要ありません。敵首都を制圧し敵の主力軍を粉砕できれば、抵抗する地域や都市はそのあとゆっくり料理すれば済みます。まずは降伏勧告し、それに従わなかったら一つの都市を見せしめに攻略、住民を残酷な方法で虐殺します。すると噂はたちまち広がり他の抵抗する都市は降伏していくでしょう。

 面である農村部は、それだけでは抵抗できません。少なくともその地域の都市に集まって抵抗するでしょう。どんな軍隊、民兵であってもよほど小規模なレジスタンス以外は兵站拠点が絶対必要だからです。ですから国共内戦や支那事変における毛沢東の支那共産党軍以外で、点でなく面を重視した戦術を採用した軍隊はちょっと記憶にありません。もし他の例をご存知の方はご教示ください。アフリカの内戦ではありそうですね。あれは毛沢東主義を採用していますから、当然なんでしょうが。

 古代、中世でもそうだし近代現代になればなるほど点と線だけが重要だとご理解頂けたと思います。さすがに現代戦では見せしめに住民虐殺するような暴挙はしませんが(ウクライナ戦争のロシア軍は例外、あれは兵器はともかく本質的には中世以前の蛮族の軍隊)、徹底的な空爆で一つの都市を廃墟にしたりして住民に抵抗の意思を失わせるくらいのことはやります。

 結局、点と線批判は的外れで、逆に点と線のみが重要だという結論です。いまさら言わずもがなの話ですが、皆さんのご感想をお聞かせください。

支那史に関する与太話

 今ちょうど岡田英弘氏の『皇帝たちの中国』を読んでいます。これを買ったきっかけは、YOUTUBEで岡田氏の妻である東洋史学者宮脇淳子先生が同書を解説していたからです。私は宮脇先生が大好きで、勝手に「ずんこ先生」と呼んで慕っています。本人が知ったら怒るでしょうが(苦笑)。

 それはともかく、岡田英弘氏は東洋史学者で専門は宮脇氏と同じく北アジアの遊牧民研究の大家です。支那史に関しても詳しく、漢民族が東夷西戎南蛮北狄が中原(黄河中流域)に集まって交易する際に共通の言語漢字を作って意志疎通をしたことから成立した融合民族だという指摘は私も納得しました。同書に関してはそのうち書評を書くかもしれませんが、まだ3分の2しか読んでいません。最近年取ったせいか読書スピードが落ちて新書でも読むのに一週間くらいかかるんですよ。

 まずは皇帝たちの中国史を読んでいて思った点を書きます。突然ですが、始皇帝の皇太子扶蘇、唐の高祖李淵の皇太子李建成、明の太祖朱元璋の皇太子李標の共通点をご存知でしょうか?

 よほど支那史に詳しくないと知らない名前だと思いますが、この三人は共通して温厚篤実な性格で調整型、臣下にも慕われて次期皇帝間違いなしと思われていた人物です。ところが三人とも皇帝になる前に亡くなっています。特に扶蘇、李建成は悲惨で扶蘇の場合は、奸臣趙高の陰謀で無実の罪を着せられ自害、李建成に至っては有能な弟李世民(二代太宗皇帝)に暗殺されました。李標は権力争いに巻き込まれる前に病死しましたが、その息子で明王朝二代を継いだ建文帝允炆(いんぶん)は、叔父(朱標の弟)である燕王朱棣(しゅてい 後の明三代永楽帝)による反乱(靖難の変)で殺されました。

 ですからもし朱標が長生きしても、弟燕王に殺された可能性はあります。性格が優しすぎるのは皇帝としては不利な要素なのかもしれませんね。庶民なら皆から慕われて安楽な生涯を送ったかもしれませんが、熾烈な権力争いを生き抜くにはマイナスなのでしょう。李建成の父李淵は凡庸な人物ですが、始皇帝にしても朱元璋にしても強烈な個性でどちらかというと悪人の類です。

 そんな父を見ていたから反面教師にして優しい性格に育ったのでしょうが、皇帝の座を狙う親族たちにしてみれば格好の餌食だと映ったのでしょう。李淵は凡庸な人物でしたが、次男の李世民は始皇帝や朱元璋と同じく強烈な個性の持ち主です。後世支那史上最高の名君と称えられる李世民ですが、兄である皇太子李建成を玄武門の変で殺害したのですから善人ではないでしょう。しでかした事実だけから見ると悪人です。

 もっとも実の兄弟を殺害して皇帝の座に就いた李世民は、そのことを生涯気に病み善政を布いたそうですから、支那の庶民にとっては幸いでした。いろいろ考えると、最高権力者の息子に生まれた場合善良だといずれ殺される運命なのかもしれません。それだけ権力の魔力は恐ろしいという事なのかもしれませんね。

劉邦、朱元璋が成功して李自成、張献忠が失敗した理由

 世界史、支那史に興味のある方は少ないと思うのでスルーして下さいな。世界史書庫の前記事秦良玉の話で明末の反乱指導者張献忠について触れましたが、あまりにもお粗末な末路でした。せっかく蜀(四川地方)を得たのに、それを生かすどころか無意味な殺戮をして国家として維持できなくなり、蝗がその地域を食べ尽くして他の地方に移るように蜀を捨て陝西省に攻め込もうとしたところを女真族の後金(のちの清王朝)軍に攻められて敗死するという最期です。おそらく支那史上でも最悪の支配者で無意味に殺された蜀の人たちは浮かばれません。

 しかし、蜀地方は諸葛亮の天下三分の計でも分かる通り四方を山岳に囲まれた要害の地で歴史上何度も独立勢力が生まれました。さすがに人口がそこまで多くないので蜀から打って出て天下を統一した勢力はいませんが、数十年間独立を維持することはできたはず。張献忠がサイコパスで物の道理も分からない異常者だったと言えばそれまでですが、ちょっと理解し難い行動です。

 そこで歴代王朝の創始者はどうだったか考えてみました。秦の始皇帝は元々戦国七雄の一角で最有力の秦王、後漢の光武帝劉秀は漢室の流れをくむ名門で南陽の豪族出身(という事は私兵を持っている)、晋の武帝司馬炎は祖父司馬懿以来魏王朝の実力者で魏王朝を弱らせた末に簒奪、隋と唐は鮮卑族出身で漢化した軍閥、宋の太祖趙匡胤は五代最後の王朝後周の最高軍司令官で数十万の軍を握っていたなど有利な条件の者ばかりでした。

 その中で前漢の高祖劉邦と明の朱元璋だけは庶民から身を起こし天下統一したので、同じく農民反乱の指導者李自成や張献忠と比較できると思ったのです。とはいえ、劉邦は割と裕福な農民出身で小役人とはいえ秦に仕えていたので、本当の意味で貧民から立身出世したのは乞食坊主の朱元璋だけだったかもしれません。一応朱元璋の祖父も安徽省有数の大富豪だったそうですが、風水に凝りすぎて天子が生まれる天子穴という龍穴を探すために全財産をはたきました。この話は不思議書庫で書庫で書いたような気がします。

 自らの王朝を開いた劉邦、朱元璋と李自成や張献忠との違いは人材を生かせたかどうかだと思います。劉邦には漢の三傑と謳われる丞相の蕭何、軍師の張良、将軍の韓信をはじめとして多士済々が揃っていました。劉邦は軍を指揮するのは下手ですが、韓信が評するところの将に将たるの器で、天下統一するにふさわしかったのでしょう。

 朱元璋も有能な将軍である徐達、丞相の李善長、軍師の劉基など人材が揃っていました。朱元璋はこれら有能な人材の意見を取り入れ天下統一を果たしたのです。李自成も北京を攻略し明王朝を滅ぼすまでは知識階級を登用し彼らの意見を取り入れていたそうです。ですから最後は明を滅ぼすことが出来たのでしょう。

 ところが北京を占領した途端、箍が外れます。李自成軍は暴徒と化し略奪暴行強姦殺人と暴虐の限りを尽くしました。ここまでくると、李自成に従っていた知識階級は彼を見限って離れます。李自成が一番気を付けないといけない人物は、明の主力軍を握り山海関で女真族の後金軍と対峙している呉三桂です。ところが欲望に任せて呉三桂が北京に残してきた愛妾陳円円を奪ったために呉三桂を怒らせます。呉三桂はあろうことか後金軍と和睦し自ら尖兵となって北京に攻め込みました。

 呉三桂軍と後金軍に襲い掛かられ命からがら北京を逃げ出した李自成は最後は元の流賊にまで落ちぶれ、略奪しようとして現地の農民の自警団に殺されるという悲惨さでした。張献忠に関しては、もっと救いがたい最期です。無惨に殺された蜀の人々の恨みを思えば、後金軍に捕らえられ車裂きの極刑で殺されて欲しかったとすら思います。戦死だとあまり苦しまずに死んだはずですから。

 李自成や張献忠と、天下統一した劉邦、朱元璋との一番の違いは何でしょうか?私は自分を律する自制心だと考えるんですよ。最高権力者となって庶民の生殺与奪の権を握れば好き勝手出来ます。殺したいと思えば簡単に殺せるし、奪いたいと思えば奪えます。綺麗な女がいたら人妻であろうが何だろうが自分のものにできるのです。しかしそれをやれば人心が離れます。

 劉邦にしても朱元璋にしても、こういった欲望が無かったとは言いません。ただ良臣の意見を素直に聞き自制したから天下の輿望を集められたのでしょう。特に張献忠は劉邦や朱元璋とは真逆の人間でした。だから一時は勢力を誇っても維持できず惨めに滅び去ったのだと思います。



 ここからは余談ですが、もし張献忠がまともなら300万人の人口しかいない蜀に60万人の大軍で攻め込むような愚は犯さないと思います。300万人の人口で維持できる適正兵力は外征で10万人、動員して27万人くらいです。せっかく湖北、湖南を平定したのだから30万人は現地に残し、30万人で蜀に攻め込むべきでした。現地の明の官軍の抵抗が激しく湖北、湖南を捨てざるを得なかったという事情はあったのでしょうが…。

 いくら戦乱で荒廃したとはいえ、湖北湖南の湖広地方は明代「湖広熟すれば天下足る」と称された一大穀倉地帯でした。そして長江を下った江東地方も宋代「江浙熟すれば天下足る」と呼ばれた穀倉地帯です。私なら蜀に入るより長江の険をたのんで南京から江蘇省、浙江省に攻め込みますけどね。湖広から江浙地方を支配できれば60万人でも100万人でも兵力維持できたと考えます。

 まあ、そういう常識的なことも理解できないほど愚か者だったという事なのでしょう。あるいは明側に智者がいて長江を下らせるより上流の蜀地方に追い込んだ可能性はあるかもしれません。こればかりは当時の状況を調べないと分かりませんが…。


 時流に乗れば流賊の親玉でも一時的には大きな勢力になれるのでしょうが、それを維持し天下平定できるかどうかは、人材を使いこなすことと、人心を失わないための自制心が必要だというのが私の結論です。

明末の女傑 秦良玉

 久しぶりの世界史記事です。たまたま明末の農民反乱指導者で四川省において屠蜀(としょく 蜀【四川】地方の住民大虐殺という意味)という極悪非道なことをしでかした大悪人張献忠の末路がどうなったか気になって調べていた時に見つけた人物です。

 その前に張献忠(1606年~1647年)について簡単に紹介します。張献忠は細かい出自は不明ですが陝西省に生まれた元軍人で罪を犯して除籍されています。民末に起こった陝西省の農民反乱に参加、その凶暴性から台頭し、のちに明王朝を滅ぼした李自成が黄河流域から明の首都北京に進んだのに対し、湖北、湖南を転戦、最後は四川省に入って独自の勢力を築きました。

 張献忠は大西皇帝を称し、成都を首都とします。しかし所詮は流賊、まともな統治などできるはずはなく略奪暴行強姦殺人と暴虐の限りを尽くしました。気に入らないことがあるとすぐ人を殺す癖があり、自分が悪いにもかかわらず蜀(四川)地方の住民が統治に服しないという理由で手当たり次第に殺戮しました。当時の蜀の人口310万人に対し屠蜀後の人口はわずか1万8090人に激減したと言われます。

 まさに狂気の沙汰です。かつてモンゴル帝国がシナ本土に侵攻した時、恩賞として広大な所領を貰ったハーンの一族が住民を皆殺しにして放牧地にしようとしたエピソードを紹介したと思いますが、さすがにこれを実行した者はおらず、モンゴルの暴虐を宣伝するための作り話だと私は考えます。ところが屠蜀は歴史的事実です。住民が居なければ納税する者もおらず、国家として成り立たないという小学生でもわかることが理解できないのですから、張献忠は歴史上最悪の君主だったと思います。これより酷い人物はちょっと思い浮かびません。

 その極悪人、張献忠に抵抗し四川省の一部重慶地方の東南部で戦ったのが今回紹介する秦良玉(1574年~1648年)です。正史に列伝が残っている唯一の女性武将だと言われます。といってもネットで拾った浅い知識しかありませんので簡単に記すにとどめます。秦良玉は重慶府忠州(現在の重慶市忠県)に生まれました。

 現地の名門の生まれらしく教養のある女性で、成長して石砫(せきちゅう 現在の石柱トゥチャ族自治州)宣慰司の馬千乗の妻となりました。この宣慰司というのは明代少数民族が住む地域を監督した役職です。トゥチャ族は土家族とも書き主に重慶から湖北、湖南の境界辺りに住む少数民族です。現在の人口は800万人。チベット・ビルマ語系に属しミャオ族かそれに近い民族だと言われます。

 三国志で劉備の呉遠征に参加した蛮将沙摩柯(しゃまか)の率いる五渓の蛮族がこのトゥチャ族だったのかもしれません。剽悍な山岳民族で、寄せ集めの張献忠の農民兵など寄せ付けない力を持っていました。もしかしたら秦良玉も純粋な漢民族ではなく、トゥチャ族の血が入っていたかもしれません。

 1599年楊応龍の乱が起こると夫と共に鎮圧軍に参加、自身も500の兵を率いて戦います。秦良玉の兵はトネリコでできた槍を持っていたため白杵軍と恐れられたそうです。ところが王朝末期にありがちですが、夫馬千乗が無実の罪で捕らえられ獄死しました。おそらく高官に賄賂を贈らなかったか、正論を吐いて煙たがられ陥れられたのだと思います。

 秦良玉に悲しむ暇はありませんでした。夫馬千乗に代わって石砫を統治します。おそらく彼女以外に任せられる人材がいなかったのでしょう。秦良玉の武勇は明王朝の中央部にも聞こえ1621年召し出されます。秦良玉は兄邦屏、弟民屏とともに対後金(後の清王朝、女真族)戦争に参加、遼東地方を守り抜きました。この戦いで兄邦屏が戦死、良玉は朝廷に掛け合って遺族に恩賞を要求します。軍功を上げたのですから朝廷も聞き入れ邦屏は都督僉事を追贈されました。これが遺族に世襲されることとなります。

 故郷に帰った良玉ですが、同年蜀地方で奢崇明が反乱を起こしました。反乱軍は良玉にも反乱に参加するよう使者を送りますが、彼女はこれを斬り一族を上げて反乱鎮圧に乗り出しました。白杵兵の威力はすさまじく反乱は鎮圧されます。1630年後金軍が明本土に攻め込むと、良玉は朝廷の危機を救うべく立ち上がりました。明朝最後の皇帝崇禎帝は多くの朝臣が裏切って後金軍や李自成軍に寝返る中、忠義を貫き通した秦良玉に感動し4つの詩と恩賞を与えたそうです。

 転戦の末故郷に戻った良玉ですが、苦難は続きます。1640年今度は張献忠の反乱軍が蜀に乱入してきたのです。この時張献忠軍は各地の農民反乱軍を糾合し60万人とも言われる大軍に膨れ上がっていました。いかに秦良玉の白杵軍が精強とはいえ、多くても1万人もいなかったと思われますので、多勢に無勢本拠の石柱を守るのみでした。石柱は地図を見てもらうと分かる通り長江の南岸にあります。当時の城域は分かりませんが、現在の地図から想像すると馬家河が大きく湾曲する南側にあったと想像されます。

 一見して難攻不落の城壁都市でした。守るのは精強な白杵軍。張献忠軍は何度も攻め寄せたそうですが、その都度秦良玉に撃退され、ついに攻略できませんでした。張献忠が負傷するほどの激戦だったと言われ、蜀地方の中で唯一張献忠の支配を受けない地域となります。屠蜀の悲劇を思うと石柱の住民は幸運だったと言えるでしょう。

 屠蜀によって国家として成り立たなくなった張献忠は、蜀を捨て陝西地方に攻め込みます。その時の兵力はわずか700余りだったそうですから、張献忠がいかに無能か分かりますね。結局、この地方に進軍してきた後金軍に敗れ1646年10月戦死しました。とはいっても蜀地方には張献忠の残党が残っています。

 1644年明王朝は李自成の反乱軍によって滅ぼされ、最後の皇帝崇禎帝も自害しました。良玉は亡命政権である南明の弘光帝に仕え張献忠やその残党と戦い続けたそうです。秦良玉は1648年亡くなります。享年74歳。最後まで忠義を貫き通した一生でした。

ハンマーと金床戦術がアレクサンドロス大王の死後退化した理由

 あまり興味のある方はいないと思いますが、書評『アレクサンドロス大王 その戦略と戦術』を書いて以来、ハンマーと金床戦術がなぜ衰退したかについてずっと考えています。このブログでは何回も説明したので知らない人はいないと思いますが、もし初めて読む方がいると困ると思うので一応説明します。

 ハンマーと金床戦術とは、マケドニア式ファランクス(重装密集歩兵陣)を組んだペゼタイロイを金床として敵部隊を拘束し、両翼の重装騎兵ヘタイロイが決戦兵種として敵の側面に回り込み攻撃を加え殲滅するというものです。ただしペゼタイロイと機動するヘタイロイの間には致命的な間隙が生じかねず、敵に慧眼の将が居れば逆にこの間隙を突かれ両者を分断して各個撃破されるという危険性をはらんだ陣形でした。アレクサンドロス大王の父でハンマーと金床戦術を創始したフィリッポス2世は、この弱点を補うためにペゼタイロイと同じ5mの長槍サリッサを装備しながらより軽装で機動的に動ける精鋭軽装歩兵ヒュパスピスタイという兵種を作ります。

 ヒュパスピスタイは、ヘタイロイの機動時はペゼタイロイとの間隙をうめ敵の突撃を防ぎ、攻勢時には突撃の一角となり敵を攻撃しました。いわばハンマーと金床戦術の肝ともいえるのがヒュパスピスタイで、フィリッポス2世も特にこの兵種を重視し厳しい訓練を施します。アレクサンドロス大王は父の遺産である精強なマケドニア軍を率いてアケメネス朝ペルシャを滅ぼすことが出来たのです。

 しかし長年の遠征で、さしものマケドニア軍も消耗し本土から補充される新兵は碌な訓練も積んでおらず質が低下していたと言われます。特にヒュパスピスタイの弱体化は致命的でアレクサンドロスの死後部下たちが大王の遺領を巡って戦ったディアドコイ戦争時代にはほとんど機能していなかったとされます。ちなみにヒュパスピスタイはインド遠征時代銀楯隊(ぎんじゅんたい ぎんだてたい)と名前を変えていますが、それは質の低下を物語っていたと思います。

 それでも銀楯隊に頼らざるを得ないほどマケドニア軍は変質し弱体化していたのでしょう。銀楯隊は老齢になってもディアドコイ戦争に駆り出され続けました。重装歩兵ペゼタイロイが決戦兵種となり本来の決戦兵種であった重装騎兵ヘタイロイが活躍できなくなったのも兵の質の低下が原因の一つだったと考えます。

 ディアドコイたちは、ペルシャやインドから象兵まで動員して戦いました。いくつかの戦いでは象兵の数が勝敗を決めるまでになります。ここまでくるともうマケドニア軍ではありません。ディアドコイたちが一番期待したのはギリシャ人傭兵だったそうです。ギリシャ人はファランクス戦術を叩きこまれ、傭兵としてオリエント諸国に雇われました。アレクサンドロス大王の東方遠征の時一番の強敵がギリシャ人傭兵だったとも言われます。ギリシャ人傭兵隊長メムノンは有名ですよね。

 ディアドコイたちは競ってギリシャ人傭兵を雇い入れ、より多くの報酬を約束した陣営が勝利することもあったそうです。大王の死後ハンマーと金床戦術が退化したのは、将軍たちの能力が劣っていたという事もあるでしょうが、物理的に採用できなかったという面もあるかもしれません。

 ただ後継者王朝のうち唯一アレクサンドロス時代の兵の質を維持できる可能性があったのはマケドニア本土を継承したアンティゴノス朝です。ところが彼らも他の後継者王朝と同じく似たような戦術しかできませんでした。これは単純にアンティゴノス朝の各王の能力が劣っていたという事かもしれません。そしてより機動力があるローマのコホルス(歩兵大隊)戦術に敗れ去るのです。

 ちなみにローマも最初はイタリア半島南部のギリシャ人植民都市ネアポリス(現ナポリ)やタラントの影響を受けギリシャ式のファランクスを採用していました。ところがアペニン山中のサムニウム戦争で、剽悍な山岳民族サムニウム人のゲリラ戦術に完敗、試行錯誤の末コホルス戦術を生み出します。

 このように戦術は試行錯誤し、より良いものを生み出していく創造性が大切で、いつまでも過去の栄光にすがっていては駄目だという教訓なのかもしれませんね。

古代の農業生産力

 最近、ネットの世界史動画を見ていて縄文時代の日本は意外と豊かだったという話を聞きました。確かに日本は温暖で海の幸山の幸も豊富だったというのは理解できます。それに加えて実は稲作は縄文時代末期から始まったと知ってさもありなんと思いました。

 過去記事『中世ヨーロッパ最終章 中世の終わりに』でも触れましたが、日本は奈良時代で米の収穫倍率20倍だったそうです。収穫倍率というのは一粒の種籾からどれだけの米がとれるかの倍率です。同時期のヨーロッパは、寒冷な気候という事もあり小麦の収穫倍率は3倍から4倍の間。単純計算で日本はヨーロッパの5倍の人口を養うことが出来たと言えます。

 では世界ではどうだったのか気になって調べてみました。古代シナの場合、これは漢代の数字ですが主食の粟をみると上農地で粟の収穫倍率5.26倍、中農地で3.92倍、下農地で2.8倍だったそうです。平均すると4倍くらいでしょうか。古代ローマ時代の小麦の収穫倍率は最低4倍、多いところで10倍という数字が出てます。ただ、ローマの領土は広大で北はライン川、現在のルーマニア辺りから南は北アフリカ、西はイベリア半島、東はメソポタミアまでですから、当然地域差はあると思います。

 シナ大陸の場合も、淮河以南の稲作地帯は生産力が高かったはずで日本並みの20倍とはいかなくとも最低でも10倍か、あるいは15倍くらいはあったかもしれません。気候条件が良いところ(長江下流域から浙江省あたりか?)なら収穫倍率20倍かそれ以上あってもおかしくありません。

 古代のメソポタミア、シュメール時代の数値はちょっと信じられないんですが、大麦の収穫量が最低28倍、最高104倍で、平均76倍あったそうです。これは収穫倍率というより農地当たりの収穫量だそうで、二期作をやったら単純計算で倍になります。それはともかく、暖かい気候で灌漑が進んだ先進地帯なら農業生産力が高かったとは言えます。だから文明が発達し大人口を養えたんでしょうから。

 古代エジプトもプトレマイオス朝時代ですが、人口750万人いたそうですから驚きますね。エジプトはナイルの賜物と呼ばれ、実際ローマ帝国時代エジプトはローマの穀倉と呼ばれたほどでした。エジプトの小麦収穫倍率は10倍だったそうです。ローマ帝国が衰退したのはエジプトを異民族に奪われたからだという史家もいます。イタリア半島は温暖ですが意外と土地が痩せていて小麦生産力はそれほど高くなかったと言われます。これはギリシャにも共通していて所謂地中海性気候なのでしょう。オリーブなどの栽培には適していたようですが。

 日本の場合も縄文時代末期稲作が始まったばかりの時は陸稲だったはずで、その分収穫倍率は低かったと思います。調べても分からなかったんですが、私見では4倍くらいしかなかったと見ています。もしご存知の方がいればお教えください。その意味では水田耕作を発明した長江文明の担い手は凄かったんでしょうね。日本も水稲が普及してから人口が増え始めたのではないかと考えています。

 地域性があるとはいえ昔の日本人が小麦ではなく米を選んだから今の大人口を支えていたかと思うと感無量です。とはいえ日本の米生産量と耕地面積から見ると人口3000万人から4000万人くらいが適正だそうですが…。

キュロス2世とマッサゲタイの女王

マッサゲタイ人


 史上二番目の世界帝国アケメネス朝ペルシアを築いたキュロス2世(紀元前600年ころ~紀元前529年)。現在のイラン南西部ペルシャ湾に面した小国アンシャンの王として生まれながら、宗主国メディアを倒し、現在のトルコにあったリディア、オリエントの中心だった新バビロニアを次々と滅ぼし大帝国を作り上げます。その後アケメネス朝ペルシアはキュロスの息子カンビセス2世の時代にエジプトを併合し当時のオリエント世界を統一しました。

 まさに英雄と言ってよいキュロス2世の生涯ですが、その最後は謎に満ちています。カスピ海東岸からアラル海の間に存在した遊牧民マッサゲタイ人との戦いで傷を受け戦死したと言われます。ところが後年アレクサンドロス大王がこの地に至りキュロス2世の霊廟で遺体を確認した所、死に至るような外傷は見当たらなかったそうです。キュロス2世の死に関して記したヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』の記述が間違っているのか、あるいは軽傷でも毒矢か何かで死に至ったのかは謎です。

 マッサゲタイはヘロドトスによるとスキタイと同族だとも言われます。とすればイラン系遊牧民だったのでしょう。キュロス2世時代のマッサゲタイ王はトミュルスという女王でした。男系社会の遊牧民族で女王は珍しいですが、夫であった先王に先立たれ王位についていたそうです。

 オリエント世界を統一したキュロス2世は、マッサゲタイの支配を目論みます。ペルシア人も元は遊牧民族ですが、文明世界に接し都市住民となり農耕も行う半農半牧の生活形態になっていました。純粋な遊牧民より半農半牧の民族の方が長く続く統一王朝を築きやすいものです。軍事で遊牧民族的に、統治では農耕民族的というように良いとこ取りできるからです。オスマン朝然り、東洋では女真族の建てた金や清が典型です。ただその分、純粋な遊牧民族よりは軍事力が弱くなるらしく、アケメネス朝ペルシアもスキタイや北東のマッサゲタイ人などの遊牧民に悩まされます。

 ある時キュロス2世は、使者を派遣しトミュルスに結婚を申し込みました。まずは平和的に併合しようという腹です。しかしキュロスの意図を見抜いたトミュルスはこの申し出を断ります。諦めきれないキュロス2世は大軍を率いてマッサゲタイを攻めました。この時、一時停戦か講和を装ってトミュルスの息子を捕虜にしました。これを恥じた息子は自害。怒ったトミュルスは全軍を上げてペルシア軍を攻撃、激戦の末これを破ったそうです。記録では、トミュルスはキュロス2世の首を切って人血に満たされた皮袋に投げ込んだと言われます。

 しかしこれは、後年のアレクサンドロスの話からも史実ではありません。ペルシア軍がマッサゲタイ人に敗北したのは事実でしょうが、壊滅的打撃ではなく不利を悟ったキュロス2世が自ら撤退しただけなのかもしれません。実際ペルシアの損害がそれほど大きくなかったのは、帝国がキュロスの死後も拡大したことで分かります。

 このようにヘロドトスは偉大な歴史家ですが、時々矛盾するような記述があります。司馬遷の史記にも似たようなところがありますが、少々の矛盾はあっても作品としての価値は落ちないと思います。
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歴史好き、軍事好きの保守思想の持主です。最近は時事ネタが多いですが広い気持ちでお許しください。本来は歴史ブログだったんですよ。

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