北近江浅井三代記Ⅱ  京極氏根本被官浅井亮政

 京極氏を北近江半国守護と書きましたが、実際は六角氏が近江全体の守護職で京極氏の勢力圏である北近江6郡は守護不入の地として京極氏が守護の権能(軍事警察権)を代行したそうなのです。ですから正式な半国守護ではないが実質的に守護に等しいというのが実態でした。

 北近江には守護代を設置しなかった可能性が高く、京極氏の最有力家臣は侍所所司代(長官である所司が京極氏の時)となりました。多賀氏が有名です。その他根本被官と呼ばれる有力家臣として上坂(こうさか)氏、下坂氏、大津氏、山田氏、黒田氏などがあげられます。ちなみに遠国出雲は守護代を設置しました。京極庶流の尼子氏が有名ですよね。飛騨も京極一族の三木氏が守護代として乗り込みますが、三木氏は国司姉小路氏を乗っ取り飛騨国司として京極氏から独立した勢力を築きますから、京極氏の権力は飛騨には浸透しませんでした。

 この段階で浅井氏はまだ登場していません。浅井氏が歴史に登場するのは、応仁の乱とその後の京極氏の家督争いがきっかけでした。当時の京極氏当主を高清(1460年~1538年)といいます。京極氏は応仁の乱で東軍に属しました。一方佐々木嫡流の六角高頼は西軍に味方します。京極氏と六角氏は京都はもちろん本国近江でも激しく戦います。その戦乱で高清の祖父持清、父勝秀を失いました。高清が家督を継いだのは、応仁の乱後に発生した壮絶な家督相続争いの結果でした。

 文明二年(1470年)の京極持清の病没から永正二年(1505年)持清の孫高清の家督相続までの34年間の戦乱を京極騒乱と呼びます。詳しく書くと紙面がいくらあっても足りないので簡単に述べるに止めますが、結果として出雲は守護代尼子経久に乗っ取られ尼子氏は戦国大名への道を突き進みます。飛騨も守護代三木氏が実権を握りました。

 京極高清と家督争いをした村宗(高清の従兄弟)を推した北近江の国人の中に浅井直種という人物が登場します。家督争いに敗れた京極村宗は永正四年(1507年)高清によって自害に追い込まれました。しかし、京極高清は村宗に味方した有力国人たちに厳しい処分を下せませんでした。それだけ彼らの力が増大していたのです。相対的に守護京極氏の力は衰退します。

 当時、京極氏は伊吹山南麓上平寺(米原市上平寺)に守護館を構え背後の山に詰めの城上平寺城(標高660m)を築いていました。上平寺館は南に北国脇街道を臨む要衝で、北近江に押し込められた京極氏が領地支配のために定めた守護所です。京極高清時代に、浅井氏は根本被官として台頭したと言えます。

 浅井直種の子が亮政(すけまさ、1491年~1542年)でした。浅井亮政は浅井氏の庶流ですが、宗家直政に男子がいなかったため一人娘蔵屋と結婚し浅井宗家を継ぎます。大永三年(1523年)またしても京極氏に家督争いが起こりました。高清の次の家督として長男高広と次男高吉を推す一派で京極家中が分裂したのです。

 高清は次男高吉を溺愛し彼に後を継がせるつもりでした。重臣上坂信光も支持します。しかし高広を推す浅見貞則、浅井亮政らはこれを認めず両派は合戦になりました。有名な浅井氏の本拠小谷城はこの頃(1523年)築かれれたという説が有力です。北近江の国人一揆(盟約を結んだ集団)を味方につけた浅見、浅井氏らの方が勢い強く高清・高吉親子は敗北し尾張に叩き出されます。

 その後北近江国人一揆は盟主浅見貞則の専横が酷くなり、浅井亮政は他の国人の支持を取り付け浅見貞則を追放しました。亮政はここに北近江国人一揆の盟主となり、京極家中でも有力な重臣となります。亮政らのおかげで北近江守護の地位を得た高広でしたが、次第に亮政と対立をするようになりました。

 一方、南近江で順調に戦国大名の道を歩み始めていた六角定頼(高頼の子。1495年~1552年)は、混乱する北近江の状況を見て露骨に侵略を始めます。浅井亮政に追放された主君京極高清の守護職を回復するというのが大義名分でした。完全に北近江を平定したわけではない亮政にとって六角氏との対立は厳しい状況に陥ります。。さらに悪い事に傀儡の当主高広も父高清と和睦、亮政の保護下を脱し六角氏とも結び、北近江の反亮政勢力を糾合し蜂起したのです。

 四面楚歌の亮政は、天文三年(1534年)京極父子と和睦せざるを得ませんでした。この年は、浅井亮政が本拠小谷城に京極高清・高広父子を招き饗応した年でもあります。これで浅井氏は名実ともに京極家中の第一人者となったわけですが、守護京極氏との対立構造は続き失意のうちに天文十一年(1541年)死去します。亨年51歳。

 小谷城の一角に京極丸という郭がありますが、ここは浅井亮政が京極高清・高広父子を幽閉した場所だという伝説があります。しかし実態は京極氏の屋敷があった場所だそうで、守護京極氏を保護する事で北近江支配を盤石なものにする意図があったのでしょう。

 亮政の意志は息子久政に引き継がれることとなります。次回、久政の時代を描きましょう。
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