カルラエの戦いとクラッススの最期

 この記事は半年前くらいに書いた『ローマ帝国建国史』の外伝です。第1回三頭政治の巨頭カエサルとポンペイウスの最期は詳しく書いたものの、もう一人クラッススの最期に関してあまりにもあっさりしすぎていたと反省し今回書く事にしました。

 マルクス・リキニウス・クラッスス(BC115年~BC53年)は、騎士階級出身で執政官を務めた共和政ローマの実力者です。伝統的なローマ貴族以外が成りあがるにはキケロのように並外れた言論能力があるか、ポンペイウスのように莫大な財力があるかのどちらかでした。クラッススは後者です。しかもルキウス・コルネリウス・スラという絶対権力者に早くから味方していたという幸運もありました。

 当時のローマは、ポエニ戦争以来の社会矛盾が顕在化しマリウスとスラという二大実力者があい争う混乱の極に陥っていました。最終的に勝利したのはスラで、彼は終身独裁官となってローマを支配します。スラは冷酷非情な性格で敵対者を許しませんでした。マリウス側に付いた貴族や大富豪を逮捕処刑し財産を競売にかけます。スラの粛清は、側近たちの私腹を肥やす手段ともなり、中には無実の罪で殺された者も多かったそうです。ちなみにマリウスの盟友キンナの娘婿だった若き日のカエサルは、粛清を恐れこの時亡命しています。

 クラッススは、このスラの粛清で巨富を築きました。ですから、ローマ市民からはあまり尊敬されなかったと言われます。はっきり言えば嫌われていました。一方、同じスラ側近のポンペイウスは数々の輝かしい武勲でローマ市民の熱狂的支持を受けます。ローマ社会の反応にクラッススは苛立ち、ポンペイウスに嫉妬していたと伝えられます。

 クラッススの劣等感は、この後起こったスパルタクスの乱を鎮圧した後も晴れませんでした。ローマ市民はたかが奴隷反乱を鎮圧したくらいでは尊敬しなかったのです。しかも反乱を最終的に平定したのはヒスパニアでセルトリウスの反乱を鎮めたばかりのポンペイウスでした。ヒスパニア遠征の大功と比べれば奴隷反乱鎮圧の軍功など大したものではありませんでしたが(しかも遠征から帰還中のついで)、それさえも奪われたクラッススの屈辱感はどうでしょう。

 時は流れ、紀元前60年クラッススは最大の政敵ポンペイウス、新興のカエサルと共に第1回三頭政治を開始します。もちろん完全に和解したわけではなく、互いに利用したというのが実情でしょう。ポンペイウスの名声は不動、カエサルも三頭政治を利用しガリアで戦功をあげつつありました。クラッススは、ポンペイウスはおろかカエサルにさえも名声で差をつけられつつあるという現状に焦燥感を抱きます。

 そこで考え付いたのが、パルティア遠征でした。クラッススは紀元前54年自ら望んでシリア属州総督になります。同時に東方におけるインぺリウム(軍事指揮権)も獲得しました。パルティアは、現在のイラン地方を本拠地とする強国で地球海沿岸に進出していたローマを脅かしつつある存在でした。しかし、ポンペイウスならともかく軍事経験と言えば奴隷反乱鎮圧くらいしかないクラッススには現実的に無理な計画だったと思います。さらにパルティアとローマは当時戦争状態ではなく、侵略という形になるためパルティア国民の猛反発を食らう恐れがありました。

 クラッススは、アルメニア王アルタウァスデス2世に協力を仰ぎます。アルメニアはローマとパルティアとの間でつかず離れずの関係でしたが、王位を巡って内乱の続くパルティアを見限りローマに味方しました。アルタウァスデス2世はクラッススにアルメニア領内を通ってパルティアに向かうルートを提案します。これを見るとアルメニアが全面的にローマに協力するつもりだったのが分かります。

 ところがクラッススは提案を断りました。理解に苦しむ判断です。直接パルティアに向かうルートは、広大な砂漠を通らなくてはならず補給に苦しむのが明らかだったからです。ここでも軍事に暗いクラッススの欠点が露呈しました。クラッススの息子プブリウスは長年ガリアでカエサル軍中にありこの程度の軍略は持っているはずですが、頑固な父に意見をして受け容れられなかったか、意見して拒否されるのを恐れ黙っていたかのどちらかでしょう。

 様々な暗い前途を危ぶまれながら、紀元前53年クラッススは軍を率いパルティア遠征に出発しました。兵力は諸説ありますが最小4万、最大12万と言われます。4万なら少なすぎ、12万なら砂漠を突っ切る時補給で破綻するのが分かり切っていました。本稿では5万2千としておきましょう。この数でもカエサルやポンペイウスなら十分でしたが、クラッススが指揮する以上厳しい状況に変わりありません。

 アルメニア王アルタウァスデス2世は、ローマ軍の状況を見て従軍拒否を告げます。素人目でも負ける可能性が高いと分かる戦争ですから当然の判断でした。これを受け遠征を中止するのが妥当だったと思います。しかし劣等感で冷静な判断ができなくなっていたクラッススは意固地になって遠征を強行しました。

 この点、迎え撃つパルティア側としては幸運でした。当時のパルティアはどういう状況だったでしょうか?兄ミトリダテス3世との王位争いに勝ったばかりのオロデス2世は、即位直後で国内は混乱していました。クラッススはこういうパルティアの状況を知ったから遠征を決意したのでしょうが、パルティア以上にぐだぐだのクラッスス陣営を本人は把握していたかどうか?

 王位争いの混乱は尾を引き、ローマ軍侵入の報告を受けてもオロデス2世は本格的な迎撃軍を編成できませんでした。とりあえずは将軍スレナスに1万の騎兵を与え先行させます。このスレナスという名ですが、実在の人物かどうかは不明です。というのもパルティアは封建制をとっており七つの有力な氏族が実権を持っていました。その中の一つにスーレーン族があり、スーレーンのラテン語表記がスレナスだと言われます。おそらくスーレーン氏族当主が指揮し、スーレーン族主力の軍が先行したという事でしょう。

 クラッスス軍は、ユーフラテス川を越え砂漠を進みます。おそらくろくに補給態勢を整えていなかったでしょうから兵士は脱水症状に苦しみ熱射病でへばっていました。そこへ現れたのがスレナス率いる1万のパルティア軍です。戦場の名はカルラエと言いました。軽装騎兵主力のパルティア軍は、ローマ軍と軽く戦うとさっと撤退していきます。これを見たクラッススは敵が敗走したと勘違いし息子プブリウスに命じ軽騎兵を率い追撃させました。軍事的常識があれば偽装退却だと気付くはず。しかし悲しいかなクラッススには見抜けませんでした。

 パルティア式射術(Parthian Shot)という言葉がありますが、これは弓騎兵が退却しながら体だけ後ろに向いて弓矢を発射する技術です。敵は勝ったと思って油断しているわけですから、一瞬にして攻守が逆転するパルティア式射術は脅威でした。そしてプブリウス率いるローマ軍もまんまとこの射術の餌食となりました。スレナスは、突出したローマ騎兵の退路を断ちます。進退きわまったプブリウスは自害しました。

 砂漠の真ん中で立ち往生していたクラッスス軍本隊は、戻ってきたパルティア軍を見て愕然とします。追撃していた味方の全滅は明らかでした。騎兵を失い機動力の無くなったローマ軍は円陣を組んで守りを固めます。パルティア軍は、遠巻きにして弓矢を射かけました。そのたび円陣の外側から犠牲者が続出します。間もなくローマの軍中にプブリウスの生首が投げ込まれ、兵士たちは絶望しました。

 大混乱に陥るローマ軍では、有力武将のカッシウスが独断で撤退しシリアに逃亡するなど末期症状に陥ります。パルティア軍の重包囲下で歩兵中心のローマ軍は進退極まりました。そんな中パルティア軍から交渉の申し出があります。さすがにクラッススも罠だと気付きますが、兵士たちはクラッススに交渉へ応じるよう強要しました。すでに軍の統制も崩壊していたのです。数名の部下と共にパルティア軍中に向かったクラッススは、途中でパルティア兵の襲撃を受けて殺害されます。その首はパルティア王に献上されました。クラッスス亨年62歳。

 指揮官の居なくなったローマ軍は屠殺を待つばかりとなります。それでも虐殺されるよりはましだろうとローマ軍は強引にパルティア軍の包囲を突破しました。この時負傷者4000名余りが置き去りにされたそうです。敗走したローマ軍は、パルティア軍の追撃を受け壊滅的打撃を受けます。命からがらシリア国境に辿り着いた兵士は出発時の半数もいなかったそうです。

 クラッススの無謀な野心から始まったパルティア遠征はこうして無残に失敗しました。以後、ローマとパルティアは、何度かの休戦を挟んで尽きる事の無い戦争状態に突入します。
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