サファヴィー朝Ⅰ  サファヴィー教団の誕生

 スーフィーとは、イスラム教の絶対神アッラーと我執を滅却しての合一することをめざし清貧行を主として様々な修行に励む人々を指します。スーフィズムはイスラム教神秘主義運動で9世紀ごろに生まれました。

 イスラム教神秘主義運動スーフィズムの一つ、サファビー教団の基となる組織ができたのは、だいたい12世紀頃だと推定されます。サファヴィー教団がはっきりと出現したのは14世紀聖者サフィー・ウッディーン(1252年~1334年)からでした。

 サフィー・ウッディーンは弟子たちと共にイラン北西部アゼルバイジャン地方(現在のアゼルバイジャンとイラン北西部、トルコ東部を含む)のアルダビールで教団を設立します。この教団は、彼の妻の父シャイフ・ザーヒドが運営していたものでした。師であり舅でもあったザーヒドの死を受けて教団を受け継ぎます。サフィー・ウッディーンの時代がどのような時代だったかというと、フラグの侵略で成立したイル汗国(フラグ・ウルス)の末期に当たりました。

 サフィーの子孫たちが代々教団の教主を務めたためこの教団をアラビア語の複数形サファヴィーヤ(サフィ家の人々という意味)からサファヴィー教団と呼びます。サファビー教団は、代々の教主をシーア派第7代指導者(イマーム)ムーサー・アル・カージルの血を引くサイイド(聖裔)と宣伝するようになりました。子孫がイランに残っているそうですが、現在でもサイイドとして遇されているそうです。すくなくとも教団の信者の間では事実だと認定されていたのでしょう。

 スンニ派政権であるイル汗国はシーア派の異端であるサファビー教団を弾圧しますが、すでに分裂が始まっていたイル汗国では鎮圧できずますます教団の力は強まります。特に、トルコ系遊牧民の間に信者を増やしその勢力は侮れないほど大きくなって行きました。ちなみに、サイイドだったかどうかは各国で異論があり、アゼルバイジャンではサフィー一族をトルコ系だと断じ、トルコはクルド系と見ています。これらはサファビー朝に酷い目に遭った国ですから幾分割り引く必要はありますが、私もトルコ系説を採りたいです。

 教団の創設者サフィー・ウッディーンは清貧を貫き瞑想でアッラーとの対話を試みる聖者だったそうですが、教団が大きくなるにつれその教えは形骸化し、独自の軍隊とアゼルバイジャン地方に広大な土地を有する大地主になりました。教団の世俗化はサフィーの息子で第2代教主サドル・アッディーンの時代には表面化し、近隣の有力な遊牧首長チュパン家と対立するまでになります。、

 また、ティムールがアゼルバイジャン地方に侵攻し教団の財産を没収しようとした時、サドルの息子ホージャ・アリーがティムールと面会しそれを撤回させたというエピソードもありました。教団に変化が現れたのは初代サフィー・ウッディーンから数えて5代目ジュナイドの時代です。教主の座を叔父と争って負けたジュナイドはアルダビールを去りアナトリア高原で遊牧生活を送りました。私はこの事からもトルコ系だと見ているのですが、サファヴィー教団の教主ジュナイドが来たという話は、瞬く間にこの地に遊牧するトルコ系遊牧民たちの間に知れ渡り、多くの信者を獲得します。

 ジュナイドは、このトルコ系遊牧民の軍事力を背景にアブダビールに戻り叔父から教主の座を奪い返しました。この頃から教団は武力によって治める軍事教団に完全に変貌します。日本でいえば戦国時代の比叡山延暦寺か、石山本願寺と一向一揆勢力だと言えば理解しやすいでしょう。もっとも日本の僧兵よりアナトリアのトルコ系遊牧民の騎馬軍団の方がはるかに物騒な存在でしたが…。こうなってくると、ティムール帝国崩壊後に興った黒羊朝も白羊朝もちょっとやそっとでは手が出せなくなります。サファヴィー教団は、黒羊朝・白羊朝の領土内独立自治国家ともいうべき存在になって行きました。
 
 次回は、先鋭化したサファヴィー教団と白羊朝の対立を描きます。
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