サファヴィー朝Ⅲ  チャルディラーンの戦い

 シャー・イスマイール1世がイラン高原を征服していた頃、西隣のアナトリア西部、バルカン地域ではオスマン朝が空前の大発展期に入っていました。オスマン朝に関しては、次回長編シリーズを予定しているのでここでは簡単に書きますが、1453年コンスタンティノープルを攻略しビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、メフムト2世のときコンスタンティノープルをイスタンブールと改称し首都と定めます。

 オスマン帝国は以後ギリシャ、アルバニア、セルビア、ボスニアとバルカン半島を席巻、黒海にも進出し1475年クリミア汗国を属国にしました。アナトリア半島にも同時侵攻し、1473年東アナトリア、オトゥルクベリの戦いで白羊朝のウズン・ハサンを撃破します。メフムト2世の孫に当たるセリム1世(1465年~1520年)は、これまでのバルカン重視の政策から中東地域に関心を向けたスルタンでした。これは中東地域に割拠する君侯たちにとってはたまったものではなく、対岸の火事だったのがいきなり存亡の危機を迎えることとなります。

 オスマントルコのセリム1世と、サファヴィー朝のシャー・イスマイール1世の対決は時間の問題でした。そもそもの発端は、セリム1世がスルタン位を相続する時争った兄弟アフメドとその息子ムラトをイスマイール1世が後援した事です。サファヴィー朝は、アフメド王子をスルタンにするためアナトリア半島に軍を派遣しています。この時の怨みもさることながら、オスマン朝がアナトリア半島平定の過程で叩き出したトルコ系遊牧民の首長たちがイスマイール1世に泣きついた事で両者の対立は決定的になります。

 実はこの構図、100年前のバヤジット1世とティムールのアンゴラ(アンカラ)の戦いのときとそっくりでした。冷酷者と渾名されたセリム1世は、まずアナトリア半島に残っていたサファヴィー教団の信者や同調者を探し出し殺します。その数実に4万とも言われました。アナトリア半島、特にその東部高原地帯はサファヴィー朝発祥の地と言ってもよく、軍事力の中核とも言うべきキジルバシの故郷でした。

 サファヴィー朝の宮廷は、セリム1世の遊牧民弾圧に激高し「オスマントルコ討つべし!」という声が大勢となります。これまで連戦連勝を続けていたイスマイール1世とキジルバシにとって負ける気はしなかったでしょう。生意気なオスマン朝の田舎者に鉄槌を下すという軽い気持ちだったかもしれません。1514年、4万のキジルバシ騎馬軍団を率いたイスマイール1世は、トルコ東部ヴァン湖北東にあるチャルディラーンに着陣しました。時にイスマイール1世27歳。

 一方、オスマン朝はセリム1世が12万とも言われる大軍を率いこれを迎え撃ちます。決戦の前夜、サファヴィー軍本営では軍議が開かれました。最初に発言したのは将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーです。
「恐れながら申し上げます。オスマン軍はイェニチェリと呼ばれる歩兵軍団が主力、マスケット銃と大砲で武装しております。これまでの敵とは違い強敵です。ここは敵の布陣が整う前に夜襲を掛けるのが上策でしょう」

 ウスタージャルー将軍は、サファヴィー朝の西方国境ディヤールバクル太守としてオスマン軍とは何度も戦っており、敵の強さ弱点を熟知していたのです。ところがこれに、東方地域シャイバーニー朝と戦いで功績をあげたドルミーシュ・ハーン・シャームルー将軍が異を唱えました。
「黙れ田舎者!そのような卑怯な戦法はディヤールバクルだけでやっておれ。王者の戦いは正々堂々とするもの。夜襲など姑息な戦法で勝ったりしたら陛下の威光に傷がつくわ」

 この両者は、サファヴィー軍の中核キジルバシの有力者で共にサファヴィー王家と姻戚関係にあり一歩も譲りませんでした。激論が続く中、イスマイール1世は断を下します。
「明朝、日の出と共に攻撃を開始する」
やはり、イスマイール1世には『王者の戦い』という言葉がプライドをくすぐったのでしょう。これまで一度も負けた事の無い彼にとって勝敗は関係なく、いかに正々堂々と勝つかが問題だったと思います。

 実際、戦端が開かれると宗教的熱狂に駆られたサファヴィー軍は歩兵が主力のオスマン軍を押しまくります。ところが数でも勝っていたオスマン軍は、今までの敵と違い容易に崩れませんでした。そればかりか、マスケット銃と大砲というサファヴィー軍がこれまで経験した事の無い兵器で反撃し、サファヴィー軍左翼のムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは敵弾を受けて戦死してしまいます。皮肉にもオスマン軍を熟知し慎重論を唱えていたウスタージャルーが真っ先に死んだのです。

 サファヴィー軍の強みは、勇猛な騎兵で突撃し敵が崩れたところを衝いて敗走させるというものでした。ところがオスマン軍は士気が高く簡単に崩れないばかりか、逆にサファヴィー軍の戦列の乱れを見逃さず騎兵を繰り出して攻撃しました。実はオスマン軍は、マスケット銃を持ったイェニチェリ歩兵軍団、大砲で武装した砲兵軍団、バルカンやアナトリアから徴兵した騎兵軍団という世界に先駆け三兵戦術(騎兵、歩兵、砲兵を有機的に組み合わせる戦術)を採用した近代軍だったのです。

 これに中世の騎兵のみの戦法が通用するはずはありませんでした。時代はすでに近世へ突入しています。イスマイール1世は、おそらく親衛隊までが崩れ敗走する段階になっても自分が負けた原因を理解していなかったかもしれません。これまで連戦連勝だった戦法が全く通用せず、次元の違う戦法でやられたのですから。

 敗戦の衝撃はイスマイール1世を蝕みました。オスマン朝のセリム1世は、サファヴィー朝を滅ぼすまでは考えておらず、追い払うだけで良しとしました。以後、エジプトのマムルーク朝に矛先を変えこれを滅ぼすことになります。マムルーク朝もまた旧態依然とした騎兵戦術でオスマン軍に完敗しました。

 首都タブリーズに逃げ帰ったイスマイール1世は、国政への興味を失い、宰相ミールザー・シャー・フサインに政務を委ね自分は宮中に引き籠ります。以後酒色に溺れ1524年37歳で波乱の生涯を閉じました。


 次回、後を継いだ息子タフマースブ1世の苦悩とアッバース大帝の改革を描きます。
 
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