サファヴィー朝Ⅳ  内憂外患

 1524年、偉大な父シャー・イスマイール1世の後を受け即位したタフマースブ1世(在位1524年~1576年)ですが、この時わずか10歳の少年でした。サファヴィー朝軍事力の中核、サファヴィー教徒のトルコ系遊牧民から成るキジルバシはイスマイール1世のカリスマで制御していただけで、少年王が即位するとあからさまに侮り言う事を聞かなくなります。

 即位して10年間、サファヴィー朝では国王そっちのけでキジルバシ同士の権力闘争が続き、多くの有力者が命を落としました。王朝はその成立の経緯から、中央集権化が進まずキジルバシを各地に封じる封建体制でした。成人したタフマースブ1世は、1533年キジルバシの最有力者フサイン・ハーン・シャームルーを謀反の罪で処刑、ようやくキジルバシを掌握します。

 このフサインですが、チャルディラーンの戦いで出てきたホラサン太守ドルミーシュ・ハーン・シャームルーの親族(息子あるいは甥)だったと思います。シャームルー家はキジルバシの中でも筆頭でしたから、処刑することでようやく実権を取り戻せたのです。以後、タフマースブ1世は、キジルバシたちをなだめすかして統御するしかありませんでした。

 チャルディラーンの敗因がマスケット銃と大砲という敵の新兵器だったのは明らかで一刻も早く導入すれば良いのに、というのは歴史を知っている現代人だから言える事で、キジルバシ騎兵軍団に頼っているサファヴィー朝では、彼らの既得権益を奪う事になるため改革はなかなか進みませんでした。

 1533年、そんなタフマースブ1世のもとに驚愕の報告が入ります。オスマン帝国のスレイマン1世(セリム1世の息子、大帝、在位1520年~1566年)がサファヴィー領に攻め込んできたというのです。スレイマン大帝はオスマン朝の最盛期を築いたスルタンで、ハンガリーを平定し1529年には第1次ウィーン包囲を行っています。スレイマン1世は、12万とも20万とも言われる大軍を率いました。オスマン朝にとっては、主敵であるハプスブルク家と本格対峙するため後顧の憂いを断つ事が目的の遠征でしたが、サファヴィー朝にとっては存亡の危機です。

 強大なオスマン軍が来たという報告はサファビー朝全土を駆け巡り、権力闘争に敗れたキジルバシ達は次々とオスマン軍に寝返りました。もともとどちらもセルジュークトルコに従いアナトリアに入植したトルコ人の子孫ですから、キジルバシにとっても心理的抵抗はなかったと思います。

 まともに戦ってもとても敵わないということはタフマースブ1世も十分承知していました。そこで徹底的にゲリラ戦法と焦土戦術で対抗します。が、それには限界がありました。首都タブリーズはオスマン軍に蹂躙され、メソポタミア地方まで奪われます。スレイマン大帝が本気なら、この時サファヴィー朝は滅んでいたでしょう。オスマン軍も伸びきった兵站線という弱点を抱えていました。タフマースブ1世が焦土戦術を採った事がようやく生きてきたのです。1555年、両国の間に和議が成立します。バグダードを含むメソポタミア地方を失ったものの、かろうじて平和を取り戻す事ができました。

 タフマースブ1世は、タブリーズの南東500kmのガズヴィーン(テヘランから北西に150km、エルブルズ山脈の南麓)に遷都しました。1540年には、インドからフマユーンの亡命を受け入れています。フマユーンは、ムガール帝国を建国したバーブルの息子で第2代皇帝となりますが、臣下のシェール・シャーに背かれインドから叩き出されたのです。タフマースブ1世もオスマン朝の侵攻に悩まされている最中でしたが、父イスマイール1世以来の関係から暖かく迎えたのでしょう。亡命中の1542年、フマユーンの息子アクバル(後のムガール帝国第3代皇帝、大帝)が生まれます。

 1545年シャール・シャーが急死するとタフマースブ1世はフマユーンに援軍を与えインド奪還を後押ししました。奪還作戦は10年かかり、1555年ようやくフマユーンはインドを取り戻します。オスマン朝との長い戦争の最中、ホラサン地方にはシャイバーニー朝軍が攻め込みます。まさに内憂外患ですが、タフマースブ1世は粘り強い戦争指導で何とか領土を守り抜きました。

 オスマン朝との和議成立後一息ついたタフマースブ1世でしたが、その晩年後継者指名をはっきりしなかったため息子たちを有力家臣が擁立しお家騒動が起こります。1576年タフマースブ1世死去、享年62歳。死因もはっきりせず、妻による毒殺、あるいは火傷が原因だったとも言われます。

 タフマースブ1世亡きあと真っ先に動き出したのは彼の三男ハイダルでした。ところが有力家臣クズルバシュ・グラーム・ハーヌムはハイダルを騙して処刑、タフマースブ1世の次男イスマイール2世を擁立します。1577年、このイスマイール2世も急死しました。陰謀の臭いがしなくもないですが、ハーヌムはイスマイール2世の兄ムハンマド・ホダーバンデを第4代シャーに担ぎ出します。当然これも傀儡でした。

 国王交代に付き物の権力闘争は、ハーヌムの命まで奪います。政争の末ハーヌムを処刑したキジルバシ達は、互いに争いサファヴィー朝は内乱状態に陥りました。すると、弱みに付け込んだオスマン朝が再度侵略を開始。この時アゼルバイジャン地方が占領されました。内乱は、ムハンマドの子アッバース1世が即位し鎮めるまで続きます。

 このアッバース1世こそ、サファヴィー朝最盛期を築いたシャーでした。
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