大オスマン帝国Ⅰ  オスマン家のルーツ

 現在トルコといえばアナトリア半島(小アジア)とバルカン半島の一部(トラキア地方)を領土とする国を指します。ところがトルコ民族としては最も西に位置し、ほとんどのトルコ民族はトルキスタンと呼ばれる地域に住みました。その地域は広大で、国でいえばカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンを中心にアフガニスタンのヒンズークシ山脈より北部、支那の実効支配する新疆ウイグル自治区を含みます。面積はインド亜大陸より広いと言われます。

 古代トルコ民族の居住区はもっと広大で東はモンゴル高原、西はイラン辺境部、ウクライナまで及びました。トルコ民族発祥の地はモンゴル高原西部だと言われます。隣接するモンゴル民族とはきわめて近く、違いはモンゴル語とトルコ語だけ。それも東洋史学者宮脇淳子先生によれば方言の違いにすぎないそうです。

 古代支那の史書に出てくる狄や匈奴はトルコ系民族だったと言われます。その後丁零、高車と続き突厥の時に大遊牧帝国を築きました。突厥はトルコの漢訳です。突厥の時代に現在のトルキスタンと呼ばれる地域に住み始めたと言われます。逆にモンゴル高原はモンゴル民族が広がり地域の名になりました。

トルキスタンといっても、すべてトルコ民族が占めているわけではなく様々な民族が住みます。タジキスタンを例に挙げると多数派はイラン系のタジク人でウズベキスタンももともとはソグド人というイラン系民族が定住していました。トルキスタンはトルコ語が通じる地域という側面もあり、上で挙げた国々はトルコ諸語を公用語にしています(タジク語だけ例外)。

 トルコ民族は、セルジューク・トルコの西アジア進出開始(11世紀)以降イラン、イラク地方にも猛威を振るい特にイランではサファヴィー朝、アフシャール朝、ガージャール朝も支配民族はトルコ系でした。イランの民族王朝パフラヴィー朝が成立したのはなんと1925年です。

 トルコ民族が西アジアに進出した原因はイスラム教を奉じるアラブ人がこの地域を征服したからでした。もともと砂漠の剽悍な民族だったアラブ人は、支配者としての贅沢に慣れるにつれ堕落していきます。剣とコーランの両方で異民族を支配していたアラブ人ですが、剣である軍事力が堕落によって弱まります。かといって現地民族を兵士として採用するとアラブ人支配を覆される危険がありました。そこでアラブ人たちは、中央アジアに出現したトルコ人に目を付けます。彼らを傭兵として雇う事で、自分たちの支配を盤石なものにしようと考えたのです。これが軍人奴隷マムルークの発祥です。

 が、世の中そんな甘い話は無く結局軍人奴隷であるマムルークのトルコ人たちが実権を握り支配者のアラブ人たちを追放し自分たちの王朝を開きました。アラブ人はトルコ人のために露払いをしたという皮肉な見方もあります。セルジューク朝による征服も、前段階としてマムルークたちによる西アジア進出があったからでした。

 ところで、セルジューク朝を開いたセルジューク家はオグズと呼ばれる集団に属しました。オグズは現在ではトルクメン人と呼ばれます。トルクメンとはもともと『トルコに似たもの』というのが語源だそうですが、トルコ民族で間違いありません。トルコ民族が西アジアに進出した過程で、民族の伝統を守り続けた者が純粋なトルコ人だと呼ばれたのに対し、柔軟に現地の文化を取り入れた集団がオグズと呼ばれ区別されたにすぎません。

 オグズは24氏族で形成されていたそうですが、そのうち有力な6氏族はそれぞれ有力な王朝を開いています。

クユク氏 → セルジューク朝
バユンドゥル氏 → アクコユンル(白羊朝)
イウェ氏 → カラコユンル(黒羊朝)
サルグル氏 → サルグル朝
アフシャル氏 → アフシャール朝
カユグ氏 → オスマン朝

 本シリーズで取り上げるのはカユグ氏に属するオスマン家です。1071年セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンがマラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破るとアナトリア地方はセルジューク朝に従ってきたトルコ人たちの進出を許しました。オスマン家もその中の一つで、アナトリア西北部かろうじて残ったビザンツ領との国境近くに定着します。

 辺境というのは、双方の文化を取り入れる事ができるので意外と発展しやすいものです。その典型はエトルリア人とラテン人の勢力の境界に誕生した都市国家ローマで、アナトリア西北のオスマン君侯国も似たような立場でした。遊牧騎馬民族であったオスマン家は、ビザンツの不満分子を受け入れ歩兵戦術、攻城法を学びます。これがのちの大発展につながったのでしょう。

 オスマン朝を建国したオスマン・ベイ(オスマン1世、在位1299年~1326年)は、突如国家を建設したというよりその前の君侯国時代の基盤あってのものでした。数々のエピソードがありますが史実と言い難いものもありはっきりしません。ただオスマン朝が1326年ボスポラス、ダーダネス海峡にはさまれた内海マルマラ海に近いブルサを落とした事は大きな事件でした。それまでガーズィーと呼ばれるイスラム教を奉じジハードを行う戦士集団(実態は夜盗に近い)と見られていたオスマン朝が国家として初めて認識されたからです。

 オスマン・ベイは1299年主家ルーム・セルジューク朝から独立を宣言します。ブルサ占領は二代オルハン時代でした。オスマン・ベイはブルサ包囲戦の途中に没します。ブルサはオスマン朝最初の首都となりました。


 次回は、オスマン朝の発展とムラト1世のバルカン進出を描きます。
 
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