大オスマン帝国Ⅴ  冷酷者セリム1世

 コンスタンティノープルを征服し世界帝国の礎を築いたメフメト2世。後を継いだバヤジット2世(在位1481年~1512年)の治世は拡大した帝国の内面を固める時代でした。というのもスルタン位継承争いをしたバヤジットの弟ジェムが聖ヨハネ騎士団、ヴェネチア、ハンガリー、フランスなどオスマン朝敵対勢力に利用されたからです。ジェムは最終的にイタリアに亡命し、フランス王シャルル8世のナポリ遠征に従軍、1495年イタリア南部ナポリに近いカプアで亡くなりました。一説では教皇アレクサンドル6世の実家ボルジア家によって毒殺されたという噂もあります。

 バヤジット2世は、征服者メフメト2世と冷酷者セリム1世に挟まれて地味なスルタンという印象がありますが、メフメト2世の晩年相次ぐ外征で財政が逼迫したのを上手く治め内政を充実させて国庫を潤し次代以降の拡大路線の基礎を作ったスルタンという評価もできるのです。

 オスマン軍の主力常備歩兵軍団イェニチェリは、当初合成弓(コンポジットボウ)を主武器としていました。ところが1444年ヴァルナの戦いでハンガリー重騎兵の突撃を防げなかった事から、当時欧州で普及しつつあった新兵器マスケット銃に目を付けます。マスケット銃は第6代ムラト2世時代にイェニチェリの主武器となりました。

 その他にも領内各地から集められた騎兵、砲兵、工兵から成る常備軍が編成されカプクルと名付けられます。カプクルはほかのイスラム世界の軍人奴隷マムルークと似ていますが、高い棒給が払われ数々の特権を有した事から近代的常備軍の最初の形と言えるかもしれません。騎兵、歩兵、砲兵を有機的に組み合わせた三兵戦術を駆使するオスマン軍は少なくとも中東世界では最強でした。

 イェニチェリ(新軍の意)は、メフメト2世時代末期には1万2千の兵力でした。カプクル全体でおそらく3万くらいか。これにトルコ系諸侯から集めた騎兵、バルカン諸国の援軍を合わせて10万前後が外征兵力でした。

 バヤジット2世の晩年、イランではイスラム教シーア派を奉ずるサファヴィー朝(1501年~1736年)が成立します。サファヴィー朝軍の中核はアナトリア高原東部サファヴィー教信者のトルコ系遊牧民キジルバシですから、それまでバルカン半島進出を重視していたオスマン朝も背後の安全を気にしなければならなくなったのです。

 それを一番敏感に感じていたのは、トルコ北東部トレブゾン州(かつてのビザンツ帝国の亡命王朝トレビゾンド王国の故地)の太守をしていたバヤジット2世の王子セリムでした。セリムはバヤジット2世の三男で継承順位も低かったそうですが、1511年サファヴィー朝に扇動されたシャー・クル(サファヴィー朝初代イスマイール1世の僕という意味)の反乱が勃発します。

 反乱は討伐に向かった大宰相が戦死するほど勢いが強く、イスタンブールの朝廷は恐慌状態に陥りました。何とか鎮圧されたものの、中央政府のあまりの優柔不断ぶりに嫌気がさしたセリムはクーデターを起こします。一度は失敗しクリミヤ半島に追放されますが、イェニチェリ軍団の支持を取り付けたセリムは1512年ふたたび挙兵し、父であるバヤジット2世を強制的に退位させスルタン位に就きました。これが第9代セリム1世(在位1512年~1520年)です。

 セリム1世は、歴代オスマン朝スルタンの例に倣い兄弟たちを次々と粛清します。父バヤジット2世はその後すぐ病死していますが、これもセリム1世による暗殺が噂されています。セリム1世はシャー・クル反乱の苦い経験から、向背定まらないアナトリア高原のトルコ系遊牧民を完全支配するには背後にいたサファヴィー朝を討つ事が必要だと考えました。サファヴィー朝側も、セリム1世の即位を嫌いセリムの兄弟アフマドを支援しアナトリアに軍を派遣したりしていますから両者の対決は時間の問題でした。

 セリム1世は、まずアナトリア半島に残るサファヴィー教団信者のトルコ系遊牧民を虐殺します。その数4万とも言われ、即位時の血生臭さと合わされ冷酷者と呼ばれるようになりました。殺されたものの中にはサファヴィー朝の中核キジルバシ達の親族も多く、サファヴィー朝宮廷ではオスマン朝討つべしという声が大きくなりました。その頃日の出の勢いだったシャー・イスマイール1世は連戦連勝の奢りもありオスマンの田舎者を懲らしめるという軽い気持ちで立ち上がります。実際キジルバシを中核とするサファヴィー朝の騎兵軍団は精強で知られており、負ける気がしなかったでしょう。

 4万のサファヴィー軍はシャー・イスマイール1世に率いられアナトリア高原東部ヴァン湖の畔チャルディラーンに到着します。急報を受けたセリム1世も12万の大軍で迎え撃ちました。1514年8月23日、両軍は激突します。

 この時オスマン軍は、中央にマスケット銃と大砲で武装したイェニチェリなどカプクル軍団を配置、両翼にバルカンとアナトリアの騎兵軍を置きました。歩兵部隊の前には遮蔽物を置き騎兵の突撃に備えます。この陣形、日本の長篠(設楽ヶ原)の合戦と似ていると気付かれたでしょうか?強力な騎兵部隊に対抗するには一番理想的な陣形だったのでしょう。セリム1世はさらに工夫を加え、歩兵部隊を隠すようにその前方に不正規騎兵を置きます。戦いが始まるとこれらは左右に逃れる手はずでした。

 重厚な火力を備えたオスマン軍正面をサファヴィー軍が警戒し突撃しない可能性を恐れたのです。しかしそれは杞憂に終わりました。全軍が騎兵で構成されたサファヴィー軍は、これまでも騎兵突撃で勝ってきたので迷いなくオスマン軍正面に突撃します。待ち構えていたオスマン軍は猛烈なマスケット銃の銃撃と大砲の砲撃を浴びせました。これまで経験した事の無い戦いにサファヴィー軍は驚きます。しかし兵を引こうにも後続が次から次へと突撃するためそれができずなすすべもなく殺されて行きました。

 最初は善戦していたサファヴィー軍も、銃撃と砲撃で大混乱に陥り大きな損害を出します。イスマイール1世が気がついたときには手遅れで、これまで無敵を誇ったサファヴィー軍は壊滅的打撃を受けて敗走します。イスマイール1世は敗戦のショックから以後政治を顧みなくなり酒と女に溺れ生涯を終えました。

 オスマン軍にとってはかつてティムールに敗れたアンゴラの戦いの雪辱戦です。戦いの発端もアナトリアのトルコ系遊牧民を巡っての争いとそっくり。ただ当時と違っていたのは、オスマン軍がマスケット銃と大砲で武装する騎兵・歩兵・砲兵を有機的に組み合わせた近代軍に成長していた事でした。サファヴィー軍はティムール時代と何ら変わり映えのしない騎兵の機動力だけに頼った戦法ですから、勝敗は戦う前から決まっていたと云っても過言ではありません。

 セリム1世は、先祖バヤジット1世の無念を思いだし感無量だったかもしれません。彼には二つの選択肢がありました。このままイランに兵を進めサファヴィー朝に完全にとどめを刺す道。もう一つは、軍を南に向けエジプトのマムルーク朝を滅ぼす道です。サファヴィー朝との戦いは、イラン北西部タブリーズでの越冬が必要で兵站面で不安があったので断念されます。ただこの戦いの結果アナトリア半島は完全にオスマン朝の版図に入り北イラクにもオスマン朝の勢力が及ぶこととなりました。

 オスマン帝国が地中海の制海権を得るにはエジプト・マムルーク朝の征服が不可欠です。セリム1世は翌1515年エジプト遠征を開始します。まず海軍を使い1516年アルジェを占領。8月24日にはシリア北部アレッポに近いマルジュ・ダービクで初めて本格的にマムルーク軍とぶつかりました。戦いはチャルディラーンと似たような経過を辿ります。

 マムルーク軍はサファヴィー軍を上回る8万の騎兵軍団を集めますが、オスマン軍の500門の大砲と数千挺のマスケット銃の前に完敗しました。7万2千という信じられないような大損害を出し文字通り壊滅したマムルーク軍にオスマン軍を防ぐ力はありません。マムルーク朝のスルタン、アルガウリーはショックのあまり脳溢血を起こし半身不随となってそのまま死亡しました。1517年、セリム1世はエジプトの首都カイロに入城します。王朝としてのマムルーク朝は滅亡しますが、セリム1世は軍隊としてのマムルーク軍団は残しエジプトの防衛を任せます。敵対者の処刑だけで良しとしました。

 その頃マムルーク朝にはアッバース朝の後裔が匿われカリフとして祭り上げられていました。カリフ・タワッキル3世は当初セリム1世に保護を求めますが、セリム1世はこれを監禁し1543年獄死させます。この辺りも冷酷者の面目躍如ですが、正統なカリフ、アッバース朝を完全に滅亡させた事により、オスマン朝はイスラム教スンニ派の盟主の地位を獲得します。これをスルタン=カリフ制度の始まりという歴史家もいますが、オスマン朝スルタン自身がカリフを名乗った事実は無いそうです。

 ただ、オスマン朝はイスラム教の聖地メッカ、メディナ、エルサレムを統治し名実ともにイスラム世界の盟主となります。

 セリム1世の征服事業はエジプト遠征が終わっても衰えませんでした。ロードス島の聖ヨハネ騎士団を完全に滅ぼすべく外征の準備を進めます。ところが病気を患いあっさりと死去、享年54歳。




 セリム1世の後を受けたスレイマン1世こそオスマン帝国最盛期を築いたスルタンでした。彼は大帝と尊称されます。次回はスレイマン大帝の治世を描きましょう。
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