隋唐帝国Ⅵ  楊堅の台頭

 北魏最後の皇帝孝武帝を長安に迎えた宇文泰。宇文氏はもともと匈奴族出身でした。匈奴族宇文部は後漢末に鮮卑族部族連合に加わり鮮卑化していきます。孝武帝は534年宇文泰を大都督・雍州刺史兼尚書令、536年には都督中外諸軍事・大行台に任じ安定公に封じます。

 ところが孝武帝と宇文泰は性格が合わず、孝武帝も自分を蔑ろにして専横を極める宇文泰を嫌い除こうとしました。陰謀を察知した宇文泰は先手を打って534年12月孝武帝を殺害、第6代孝文帝の孫文帝を擁立します。この頃河北では高歓が孝静帝を擁立していましたから、534年を持って北魏滅亡、西魏・東魏の分裂時代に突入しました。

 宇文泰は、西魏建国に功績があった功臣たちを八柱国に任命します。八柱国というのは柱国大将軍に任命された八人の将軍のことで、もちろん筆頭は宇文泰。軍事が最優先の西魏では、文官の最高職である丞相より上だとされました。八柱国は宇文泰子飼いの武川鎮軍閥の有力者たちです。

 八柱国の下に十二大将軍を置きその下に二十四開府を設置しました。これが府兵制の基となります。府兵制というのは現代で言えば徴兵制に近く、律令政治では均田制と対になる兵制でした。北魏孝文帝によって漢化政策と文官優位が確立しましたが、北方遊牧民の本来の制度に戻ったとも言えます。

 宇文泰は強大な権力を握りながらも皇帝になる事はありませんでしたが、彼の死後跡を継いだ三男宇文覚は557年西魏の恭帝から力ずくで禅譲を受け天王と称します。皇帝と名乗らなかったのは遊牧民的感覚では天王の方がふさわしいと思ったからでした。あるいは古代周王朝の制度を真似たという説もあります。国号を『周』と定め、漢民族を支配しました。これが北周です。同じ頃、東魏でも政変劇があり550年高歓の子高洋が孝静帝から禅譲を受け北斉が成立しました。

 西魏と東魏の対立は、そのまま北周と北斉にも引き継がれます。両者はしばしば戦いますが華北統一には至りませんでした。さて、北周において宇文覚の従兄宇文護が大きな権力を握ります。このように皇帝になってもすぐナンバー2から乗っ取られるのが北朝の特徴でした。そしてこれもありがちですが、権力を奪われた宇文覚は側近たちと権臣宇文護の暗殺を謀りますが、発覚。逆に殺されてしまいます。

 宇文護は、宇文泰の庶長子だった明帝を擁立しました。ところが明帝は意外と聡明だったため宇文護に警戒され暗殺されそうになります。560年、明帝は将来を悲観し宇文護から贈られた毒入り餅をあえて食べました。明帝享年27歳。宇文護はその弟武帝を擁立しました。実は武帝は、兄明帝よりさらに有能な人物でした。宇文護の暗殺を避けるためわざと暗君を演じます。宇文護がすっかり油断した頃合いを見図り、572年罠にはめ誅殺しました。

 武帝は、宇文護とその一党をことごとく処刑し親政を開始します。野望に燃える武帝は、富国強兵に努め北斉に親征しました。そして577年北斉を滅ぼし悲願の華北統一を果たします。578年には天下統一を目指し南朝陳を攻撃しますが、陣中で病を発し崩御。35歳の若さでした。

 後を継いだのは息子宣帝。これが救いようの無い暗愚な人物で、父武帝は息子の将来を危惧し厳しい躾をしますが無駄でした。そのため、皇后の父楊堅(541年~604年)が上柱国・大司馬となって補佐することとなります。楊堅とは一体どのような人物だったのでしょうか?

 彼の父楊忠は、宇文泰に任命された十二大将軍の一人、使持節・大将軍・大都督・陳留郡開国公で建国の功臣でした。自身も有能だった事から、北周宮廷で累進し隋州刺史、代将軍、隋国侯と官職を重ねます。578年には娘楊麗華を宣帝の皇后に入れ、外戚として絶大な権力を握りました。

 宣帝は暗愚なうえに凶暴で、臣下や皇后ですら気に入らなければ棒で叩き人心を失います。ついには579年、幼少の皇太子に帝位を譲ってしまいました。いくら暗愚だとは言え自ら帝位を捨てるでしょうか?私はここに楊堅の暗躍を見るのです。580年宣帝が22歳で死去したのも疑えばきりがありません。そうして即位した静帝はわずか8歳。外孫を傀儡として楊堅の権力はますます増大します。

 580年9月、楊堅は大丞相に進みました。12月には都督中外諸軍事・隋王。自分で自分を任命するのですからやりたい放題です。北周の人臣は次の皇帝は楊堅だと思い始めました。ただ世論の反発を恐れ楊堅は慎重に簒奪を進めます。北周の徳が失われ、天命により楊堅が立たなければならないという雰囲気作りを巧妙に重ね、581年2月、静帝から禅譲させて即位しました。すなわち隋の高祖文帝(在位581年~604年)です。即位すると文帝は、後顧の憂いを断つため静帝を始め宇文氏一族を皆殺しにしました。

 隋の高祖文帝は、さすがに有能な人物でした。楊という名から漢人に見えますが、父が武川鎮軍閥の有力者である事からも分かる通り鮮卑人。ただ、漢人を支配するために後漢の名門楊震の末裔を称しました。首都長安を大興と改めると、587年後粱、589年には南朝陳を滅ぼして300年ぶりに天下を統一します。

 唐代につづく三省六部の中央官制、地方では州県制を整備します。それまでの九品官人法に代わって科挙の制度を始めたのも文帝でした。府兵制、均田制を推し進め律令体制を築きます。ただ598年の第一次高句麗遠征だけは失敗しました。

 隋の高祖文帝は天下統一を果たすにふさわしい有能な皇帝でしたが、晩年は不幸でした。彼が期待していた長男、皇太子楊勇は独孤皇后、一族の楊素らの陰謀で廃嫡させられます。代わって皇太子に立てられたのは次男の楊広。どちらも文帝と独孤皇后の実子ですが、皇后は学問好きながら奢侈でもある楊勇を嫌い親孝行の楊広を溺愛していたそうです。

 ところが楊広の孝子ぶりは、皇太子になるためのポーズでした。604年文帝は病の床につきます。すると皇太子楊広はあろうことか父の愛妾宣華夫人に手を出そうとしました。怒った夫人は皇太子の暴挙を文帝に訴えます。楊広の正体を知った文帝は、楊広と独孤皇后を呼び罵りました。そして楊勇を廃嫡した事を後悔し呼び寄せようとします。

 文帝は、「畜生(楊広の事)になんで天下を託せようか。独孤が朕を誤らせたのだ。息子(楊勇)を呼べ!」と叫んだと云われます。その夜、容体が悪化した文帝は俄かに崩御しました。享年64歳。あまりのタイミングの良さから、息子楊広による毒殺説もあります。


 こうして即位した皇太子楊広こそ、後世悪名高い隋の煬帝(ようだい)です。次回は煬帝の治世を見て行く事にしましょう。
 
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