隋唐帝国12  安史の乱

 唐の政治体制と言えば律令格式です。土地制度としては均田制・公地公民。税制は租庸調。軍事は府兵制。実は均田制というのは北魏から始まったもので、土地を国家の所有とし民衆にそれを貸し出し、対価として税を徴収するというシステムでした。これらは遊牧民族独特の社会制度が基となっており、その意味でも唐が遊牧民族鮮卑族の国である事が分かります。

 武韋の禍によって存亡の危機に陥った唐王朝。聡明であった則天武后は、権力闘争と国家運営を区別する最低限の良識はありました。ただ晩年、耄碌から来たのか寵臣に政治を投げ出し国政を蔑ろにした事でクーデターを招き引退を余儀なくされます。一方、則天武后ほどの頭がない韋后は、自分の権力維持のために一族を枢要な地位に据え好き勝手な政治をしたために唐の国家体制はがたがたになりました。

 韋后が自分の権力維持のために実の夫中宗を毒殺し傀儡皇帝を擁立した事は唐王朝の将来を憂う者たちにとって我慢の限界を超えます。その中の一人廃帝睿宗の三男李隆基は、則天武后の娘(睿宗の妹、李隆基の叔母)で権力の中枢から遠ざけられ不満を抱いていた太平公主と結び710年クーデターを敢行しました。韋氏一族の政治は民衆から恨まれていたため簡単に成功し韋后は反乱軍に斬られます。その一族もことごとく粛清されました。

 最初李隆基は、もし反乱が失敗したら父睿宗にも迷惑がかかると恐れ黙って実行します。クーデター成功後恐る恐る父の前に出ると、睿宗は「お前のおかげで助かった」と抱擁しながら涙を流して喜んだそうです。睿宗は復位し、隆基もこのたびの功績から三男にもかかわらず皇太子になりました。

 睿宗が復位した後、今度は太平公主が政治に口を挟むようになります。聡明な李隆基が居ては自分が母則天武后のように権力を握れないと焦った彼女は、睿宗に讒言しました。しかし、武韋の禍ですっかり懲りていた睿宗は、再び国政に混乱を招かないように712年さっさと隆基に皇位を譲って引退してしまいます。この時李隆基28歳。すなわち唐第9代玄宗皇帝(在位712年~756年)です。

 713年、クーデター成功に貢献した功績を盾に政治に口を出し王朝の癌細胞になっていた太平公主を玄宗は逮捕します。太平公主とその一党を処刑しようやく自らの政治を始める事ができました。姚崇や宋璟ら有能な人材を抜擢し、悪政で乱れた政治を立て直します。太平公主一派を粛清した713年、年号は開元と改元されました。玄宗の治世は、これにちなんで開元の治と称され太宗の貞観の治と並んで唐王朝が安定した時期だと評価されます。

 ところが、さすがの玄宗もその晩年政治に倦むようになります。737年寵妃武恵妃が亡くなってからは特に顕著でした。740年玄宗55歳の時一人の美女を見染めます。彼女は実の息子寿王李瑁の妻でした。欲望に負けた玄宗は寿王から妻を取り上げ自分の愛妾にしたのです。彼女の名は楊玉環。すなわち楊貴妃でした。父に自分の妻を奪われた寿王ですが、絶対権力者の皇帝に逆らう事はできず泣き寝入りします。別の女性を宛がわれますが失意の中775年世を去りました。

 父の側室を強引に妻にした高宗、息子の嫁を奪った玄宗、現代の我々から見るとおぞましい話ですが、実は支那の歴史ではよくあることで有名な臥薪嘗胆の故事も楚の平王が息子の太子建から妻を奪ったのが発端でした。楊貴妃を得た玄宗はますます政治を顧みなくなります。それでも宰相李林甫が生きている間は何とか回っていましたが、彼の死後宰相になった楊国忠は楊貴妃の従兄というだけの男で無能だったため政治は乱れます。

 その玄宗と楊貴妃に取り入って出世したのが安禄山でした。康国(サマルカンド)出身でソグド人と突厥人の混血だったと言われます。安禄山とはアレクサンドロスの漢訳でしょう。このように唐王朝は国際色豊かな宮廷で日本の阿倍仲麻呂が出世しても違和感ありませんでした。もともと唐の帝室自身が鮮卑族ですから、こだわりもなく有能な人材なら異民族でもどんどん登用したのです。

 唐は、辺境を守るために節度使を置きます。節度使は律令体制から外れた令外官で、藩鎮という軍管区を持ち軍事と政治を司りました。最初は辺境のみに置かれますが、唐の政治が乱れるにつれ節度使は増やされ内地にも設けられるようになります。安禄山は范陽節度使、平盧節度使、河東節度使を兼任し河北で20万の大軍を指揮する唐王朝最大の節度使でした。

 安禄山は玄宗皇帝、楊貴妃に巧みに取り入りついには楊貴妃の養子になってしまいます。もちろん安禄山の方が楊貴妃より年上で異常な関係でした。史家の中には楊貴妃と安禄山が密通していたのではないかと見る者もいます。安禄山は大きな野望の持ち主でした。755年、賄賂を朝廷の高官(その一人は宰相楊国忠)に送り便宜を図ってもらっていた嫌疑を受け玄宗に召集されそうになった安禄山は、腹心の史思明(ソグド人と突厥人の混血で安禄山と同郷)と語らいついに反乱を起こします。これが世に言う安史の乱の始まりでした。

 突厥に代わり台頭したウイグルと最前線で対峙していた安禄山の軍と中央で平和の慣れた唐軍では勝負になりません。挙兵1ヶ月で副都洛陽が陥落。この期に及んでも玄宗は安禄山の反乱を信じなかったそうですから驚きます。ようやく玄宗は高仙芝(高句麗系)らを討伐軍の大将に任じ安禄山を防がせますが、時すでに遅く関中への侵入を防ぐ最終防衛線潼関は破られ都に逃げ帰った高仙芝らは処刑されました。

 代わって防衛軍を任せられたのは隴右節度使、突厥人の哥舒翰(かじょかん)。安禄山の軍に唯一対抗できる人材でしたが、数と勢いの差は如何ともしがたくこれも敗北します。河北では書家でも有名な顔真卿と一族の顔杲卿が挙兵しますが簡単に粉砕されました。関中への最終防衛線潼関が抜かれた事で長安の宮廷はパニックに陥ります。玄宗は首都を捨て蜀(四川省)に逃れようとしました。

 安禄山は奸臣楊国忠を討つという大義名分を掲げていたため、楊国忠、楊貴妃はじめ楊氏一族へ対する風当たりが強くなります。玄宗一行が馬嵬(陝西省興平市)に着いた時、付き従っていた兵士たちは楊一族の処刑が無ければ従軍を拒否すると玄宗に要求しました。背に腹を変えられない玄宗は泣く泣く処刑を容認します。楊貴妃に対しては宦官高力士に命じて縊り殺させました。楊国忠はじめ楊氏一族もことどとく処刑されます。

 楊貴妃自身に罪は無かったと思います。則天武后や韋后のように国を乗っ取ろうという野心はなかったはず。しかし運命のまま流される弱い性格が今日の悲劇を生んだのです。確かに傾国の美女ではあったのでしょう。私は春秋時代の夏姫と似た要素を感じます。

 さて首都長安を陥れた安禄山ですが、無計画に反乱を始めた彼らに国を統治する意思も能力もありませんでした。もし天下統一の意思があるなら逃げだした玄宗一行を追撃し殺すべきなのです。愛する楊貴妃を殺され失意の玄宗は756年退位して皇位を皇太子に譲りました。すなわち第10代粛宗(在位756年~762年)です。唐軍は将軍郭子儀を中心に纏まり反撃の態勢を整えました。粛宗はウイグルに使者を送り背後から安禄山を攻撃するよう要請します。

 唐軍とウイグル軍が南北から迫る中、安禄山軍は愚かにも内紛を始めました。大燕皇帝に即位した安禄山が息子皇太子安慶緒の廃嫡を言いだした事から、怒った息子に暗殺されてしまいます。これに怒った盟友史思明は范陽に戻って自立しました。今度は安慶緒と史思明が戦争を始めました。結局史思明が759年勝ち安慶緒を殺しますが、その後息子史朝義と不仲になり息子に殺されました。

 自滅するかのように弱体化した反乱軍は、唐とウイグルの連合軍に敗れ762年10月重要拠点洛陽を奪還されます。すでに粛宗は逝去し代宗の御世になっていました。范陽に逃れ再起しようとした史朝義は763年正月唐軍に追いつかれ自害します。こうして長きに渡った安史の乱は終結しました。が、唐の国力は大きく衰え、反乱鎮圧に功績があったウイグルに苦しめられることになります。吐蕃と契丹も唐の弱体化で台頭。同じく功績のあった将軍たちへの論功行賞で節度使を乱発したために中央集権体制が崩れ節度使は軍閥化しました。

 玄宗皇帝は唐帝国中興の祖と言われますが、同時に唐帝国滅亡の遠因を作った皇帝でもありました。彼の欲望が国を傾けたのです。傾国の美女楊貴妃が悪いのか、それとも彼女に溺れた玄宗が悪いのか、言うまでもないでしょう。





 唐はその後150年続きますが、874年に起こった黄巣の乱で完全に止めを刺されました。次回最終回、黄巣の乱の顛末と唐の滅亡を描きます。
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