源平合戦Ⅰ 平清盛の台頭

 平安時代末期に起こった保元の乱・平治の乱は貴族政治を終わらせ武士の時代を到来させた戦乱でした。保元・平治の乱に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略を述べるに止めます。

 保元の乱(1156年)は極論すると、白河・鳥羽院政によって権力を奪われた前関白藤原忠実とその子悪左府頼長の旧摂関家勢力と、鳥羽法皇の寵姫美福門院に疎まれ院政の道を閉ざされた崇徳上皇が、美福門院の養子守仁親王(のちの二条天皇)を皇位に就けるためその中継ぎで登板した守仁の父後白河天皇(崇徳上皇の異母弟、美福門院の子ではない)とそれを後押しする美福門院勢力に挑んだ戦いでした。

 河内源氏の棟梁源為義は劣勢と承知するも摂関家との結びつきから崇徳上皇方に味方せざるを得ず、最初から鳥羽院方だった嫡男義朝と戦い敗れます。保元の乱の敗北によって藤原摂関家が権力を取り戻す道は完全に閉ざされました。


 平治の乱(1160年)は、保元の乱で勝利した院政側の内部争いです。院の近臣藤原信西入道は桓武平氏の棟梁清盛(1118年~1181年)と結び付き絶大な権力を握ります。官位は藤原摂関家と比べる事も出来ないほど低かった信西(正五位下少納言)ですが、院庁が発する院宣(上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書)の発行権を握っていたため例え藤原摂関家ですら従わざるを得なかったのです。院宣は天皇の下す宣旨より優先されるものとされました。

 一方、同じ院の近臣であった藤原信頼は、自分の政治力の無さは棚に上げ信西体制に無視されていた事を憤りクーデターを計画しました。これに同じくもともと摂関家側とみなされ冷遇されていた源義朝が組んで起こしたのが平治の乱です。

 信頼・義朝は信西一族を倒すことには成功しますが、肝心の平清盛を取り逃がし、軟禁していた二条天皇、後白河上皇が脱出して六波羅の清盛邸に逃げ込んだ時点で勝負ありました。官軍となった清盛は、大軍を持って反乱軍を圧倒、信頼は捕えられて処刑され、義朝は本拠関東に戻る途中美濃で家臣長田忠致に裏切られ暗殺されます。

 最終的勝者となった清盛ですが、戦後処理は大甘でした。義朝の嫡男頼朝は死一等を減じられ伊豆国蛭ヶ小島に流罪、義朝の幼い子供たちも仏門に入れる事で命を助けられます。もしこの時清盛が源氏一族を根絶やしにしていてば後の源平合戦は起こらなかったと思います。清盛が処刑したのは、あくまで敵対の姿勢を崩さなかった義朝の庶長子悪源太義平のみでした。


 平治の乱の勝利によって平清盛の天下になったかというと、実はそうではありません。平治の乱の勝利を見届けるように影の権力者美福門院は1160年11月亡くなります。しかし、美福門院の院政派はそのまま二条天皇の側近となって残りました。

 あくまで二条天皇までのつなぎで即位した後白河は美福門院の圧力で1158年譲位せざるを得ませんでした。本来なら上皇として院政を始めたい後白河上皇でしたが、鳥羽院派=二条天皇親政派によって締め出される危険性がありました。後白河は、同じく二条天皇親政派を警戒する平清盛と結び付きます。

 清盛は、正室時子が二条天皇の乳母だった事から、天皇の後見役として検非違使別当、中納言となり、時子の妹滋子(建春門院)が後白河の寵姫となり憲仁親王(のちの高倉天皇)を生んだことから後白河院庁の別当にもなりました。清盛は朝廷と院の双方に仕え両者の対立を上手く取り成しバランスをとります。

 二条天皇には男子が生まれず、後白河院政派は憲仁親王の立太子を画策しました。1164年二条天皇に念願の男子順仁親王が生まれます。ところが1165年二条天皇は病に倒れました。息子順仁親王の立太子を済ませると7月崩御します。これで一安心した天皇親政派ですが、後白河院政派は巻き返しを図りました。

 即位したばかりの六条天皇に対し、後白河上皇の子憲仁親王の親王宣下を認めさせます。親王とは皇位継承の有資格者となることであり、年齢があまり変わらぬとはいえ六条天皇の叔父にあたる憲仁の親王宣下は異例でした。

 これをみて、院と朝廷両属の形だった平清盛は完全に後白河方に付きます。後白河上皇が、自分の権力の基盤として清盛を優遇したため、平氏の権勢は絶大なものになりました。清盛も馬鹿ではありません。娘盛子を関白近衛基実に嫁がせるなど摂関家とも深く結び付きます。1165年清盛は大納言に昇進しました。1166年11月内大臣。1167年には太政大臣に就任します。

 1166年10月10日、六条天皇の3歳年長にもかかわらず憲仁親王は後白河上皇のごり押しで立太子されます。1167年後白河上皇は出家して法皇となりました。1168年、後白河法皇はわずか5歳の六条天皇を強引に退位させ憲仁親王を即位させました。すなわち高倉天皇です。


 清盛は、高倉天皇に自分の娘徳子(のちの建礼門院)を入内させます。後白河院の絶大な引き立てで従一位太政大臣としてこれまでの武士では例の無い高位高官に昇った清盛ですが、陰謀好きで誠意に欠ける後白河法皇の性格を信用していませんでした。いつ無実の罪を着せられ滅ぼされるか分かりません。清盛は、責任を取って詰め腹を切らされる事を恐れ、劣位の対抗者を用意しました。白羽の矢が立ったのは摂津源氏の棟梁源頼政。河内源氏の勢力が平治の乱でほぼ壊滅した今、本来の正嫡である摂津源氏の優遇は世間からも当然だと思われます。

 源頼政は、1167年清盛の推挙で従四位下になりました。1178年には同じく清盛の推挙で従三位に昇進。従三位以上は公卿といって大臣にもなれます。武家源氏では最高位になったのです。清盛にとって都合が良かったのは、頼政が武人としてより歌人として高名で間違っても謀反を起こすような野心家ではなかった事でした。

 清盛の一族は、嫡男重盛が正二位内大臣になったのをはじめ、一門で公卿(従三位以上)10名、殿上人(正四位上から従五位下まで。特例として六位の蔵人も含む)30数名を占め、全国の半数近くの国を知行国とするほど繁栄しました。清盛の義弟(正室時子の弟)平大納言時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのもこの時です。

 清盛は、摂津国福原(現兵庫県神戸市)に別荘を造営し、日宋貿易に力を入れます。交易は莫大な富を平氏一門にもたらしました。その富力を背景にますます京都で権勢を極めた平氏ですが、満つれば欠くるが世の習い。平氏追い落としの陰謀は着々と練られます。

 次回、鹿ケ谷の陰謀と以仁王の挙兵を見て行きましょう。
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