源平合戦Ⅲ 源三位頼政の死

 前記事で近衛基通が出てきたのでここで藤原北家の嫡流五摂家について簡単に記します。保元の乱で関白藤原忠通は、父忠実や弟悪左府頼長が崇徳上皇方に付いたのに対し、後白河天皇方に味方して勝利しました。というより、頼長を溺愛した忠実が忠通に関白職を弟に譲れと要求したのが父子対立の始まりで保元の乱の原因の一つとなったのです。

 忠通には三人の有力な息子がいました。四男の基実は平安京近衛小路に屋敷があった事から近衛家を称し、三男兼実は同じく京都九条の屋敷から九条家を名乗ります。これに対し五男基房は、松殿屋敷の地名から松殿家と呼ばれます。忠通の息子は他にもいましたが、この三家が摂関家を独占しました。

 松殿家は一時後白河法皇の引き立てを受け嫡流になりますが、源平合戦時の生き残りに失敗し摂関家の家格から滑り落ちます。残った近衛家、九条家が以後摂政・関白職を独占するようになりました。近衛家から一条家と二条家、九条家からは鷹司家が分かれ、この五家が五摂家と呼ばれ最高の家格を誇るようになります。


 ここに一人の女性がいました。彼女の名は八条院。近衛天皇の同母姉で鳥羽法皇と美福門院の忘れ形見。そのため莫大な財産を相続しこの当時日本有数の大富豪でした。彼女自身は普通の女性で野心家でもなかったため、八条女院御所には後白河法皇と平清盛との熾烈な権力闘争を嫌った貴族たちが集まり一種のサロンを形成します。この中には摂津源氏の源三位頼政も加わり、厳しい浮世と離れ和歌を詠んで過ごしました。

 さて生涯未婚を通した八条院ですが、彼女の寵臣三位の局(高梨盛章の娘)は以仁王という冴えない皇族と結婚します。王と親王の違いは以前説明しましたが、ようするに皇位継承資格があるかどうかです。以仁王は後白河法皇の第三皇子ですがよほど母の身分が低かったのでしょう。あるいは権門でなかったため親王宣下を受けられなかったのかもしれません。

 子供のいない八条院は、以仁王と三位の局との間に生まれた子供たちを可愛がり養子として引き取りました。このため、以仁王も八条院御所に出入りし猶子(ゆうし)という一種の養子関係にもなるのです。泣かず飛ばずの皇族以仁王に八条院の莫大な遺産相続の可能性が出てきました。

 安徳天皇が即位すると、蔵人頭に清盛の五男重衡が補任されるなど平氏かその縁者が朝廷の官職を独占する事になります。平氏と対立する者たち、官職にあり付けない者たちの間で不満は蓄積していきました。そんな中、以仁王が謀反を企んでいるという噂が京の町を駆け巡りました。確かに、以仁王は八条院の猶子となり浮かれていた面はあったでしょう。ただ、彼はそんな大それたことを企む人物ではありませんでした。噂を流したのは、以仁王を嫉妬する不遇な貴族たちだったと思いますが、自分たちが嫌われていると自覚し疑心暗鬼になっていた平氏の者たちはこの噂を真に受けました。

 1180年5月、清盛の意向を受けた朝廷は以仁王を臣籍降下させ源以光と改名、土佐に配流と決めます。平氏政権としては以仁王の背後にいる八条院を刺激しないよう穏便に事を済ませるつもりでした。ところが、殺されると曲解した以仁王は屋敷を脱出し園城寺に逃げ込みます。八条院を通じて以仁王と関係があった源三位頼政は、使者を送って素直に朝廷の命に従うよう説得しますが無駄でした。それどころか以仁王は頼政に対し自分に味方するよう誘います。

 頼政は迷いました。文人でもあり有能な武人でもあった頼政は、たとえ挙兵しても負ける事が分かっていたからです。そしてこれに加担すれば摂津源氏の滅亡も覚悟しなければなりませんでした。が、忠義に負けた頼政は味方に付く決意をします。この頃追捕使として以仁王逮捕に向かっていた養子兼綱が取り逃がした失態もあり、以仁王と頼政が手紙のやり取りをしていた事がばれれば言い逃れできないと覚悟したのでした。

 頼政は、以仁王に全国の源氏に挙兵を促す令旨を出すよう進言します。少しでも勝つ可能性を高めるための策ですが、頼政自身これが効果あるとは思っていませんでした。以仁王の挙兵と源三位頼政の同心は清盛を驚かせます。どう考えても負ける戦を頼政ほどの武将がするはずないと安心していたからです。

 この時頼政は76歳の高齢でした。以仁王と合流しひとまず大和国の興福寺に逃れようと考えます。頼政の軍勢は千騎ほどだったとされますが、おそらく誇張でしょう。5月25日、園城寺を出た一行は宇治川に辿りつきます。武士ではない以仁王がいたため行軍速度が遅くなっていました。そこへ平知盛(清盛四男)率いる追討軍が到着します。頼政は平等院に籠り宇治川を挟んで必死に防戦しますが多勢に無勢。息子たちは次々と討たれ、自身も深手を負った頼政は、以仁王を秘かに脱出させると平等院の境内で自刃して果てました。

 一方脱出に成功した以仁王ですが、30騎程に討ち減らされ平氏軍に追いつかれて殺されます。これが以仁王の挙兵の顛末です。本人に謀反の意思はなかったと思いますが、運命に翻弄され波乱の生涯を閉じました。以仁王の第一皇子北陸宮は秘かに脱出し木曽義仲に匿われます。義仲は北陸宮を奉じ上洛の大義名分としました。

 以仁王と源三位頼政の敗死は徒労とも言える出来事でしたが、以仁王が出した令旨は時代を大きく揺り動かします。木曽義仲もそうだし、伊豆で流人生活を過ごしていた源頼朝をも動かします。時代は大きく流れようとしていました。


 次回、源頼朝挙兵について語りましょう。
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