源平合戦Ⅷ 平家の都落ち

 最初に富士川合戦以降の平氏政権の動向を記しましょう。1180年12月、清盛は以仁王の乱に関連し平氏政権に反抗的な態度を崩さない南都(奈良)興福寺を焼き討ちします。指揮したのは清盛の五男重衡で、このために興福寺の深い恨みを買いました。もともと平家と深い関係のある熊野ですら衆徒が騒ぎだし伊予では河野氏が兵を挙げます。

 1181年1月安徳天皇の父高倉上皇が病を発し俄かに崩御しました。安徳天皇を擁する平氏政権と後白河法皇を結ぶ細い糸が断ち切られたのです。内憂外患が続く中、2月平家の棟梁清盛が熱病におかされました。高熱に苦しめられる死の床で清盛は遺言します。
 「わしの葬儀は不要だ。墓前に頼朝の首を捧げて供養とせよ」

 1181年閏2月4日、平清盛は波乱の生涯を閉じました。享年64歳。後を継いだのは三男宗盛。清盛の正室時子の子だという以外これと言って取り得の無い無能な人物でした。多難な時期に宗盛のような人物を棟梁にせざるを得ない平氏政権の未来は暗いものになります。

 時は流れ1183年、信濃国木曽に興った木曽義仲は、横田河原、倶梨伽羅峠と相次いで平家の大軍を撃破し日の出の勢いで京都に迫りつつありました。義仲は京都を北から窺い、新宮十郎行家は伊賀、大和を経て南にから。源三位頼政敗死以来なりを潜めていた摂津源氏の多田一族も蜂起、甲斐源氏の安田義定もまた近江から京に進撃中でした。安田義定はもともと東海地方で活躍し、頼朝とは一時的に結んでいただけでした。今回も頼朝の了解を得ておらず、のちのち大きな禍根を残すこととなります。1193年義定は頼朝に謀反の罪を着せられ処刑されました。

 宗盛は、敵が間近に迫る厳しい状況を見て京都を捨てる決意をします。六波羅の居館に火を放った平家一門は6歳の幼帝安徳天皇を擁し西に去ります。この時、後白河法皇も連れ去ろうと動きますが、法皇は動きを察知しいち早く比叡山に逃れました。これが平家運命の分かれ道になります。安徳天皇と後白河法皇を擁していれば自分たちが官軍、敵を賊軍とできたはずでした。平家一門が続々と都を離れる中、清盛の異母弟池大納言頼盛がその列を外れ京都に戻ります。実は頼盛の母は頼朝の命を救った池禅尼で、頼朝から「頼盛だけは命を保証する」との確約を受けていたからでした。

 1183年7月、義仲は軍勢を整え入京を果たします。思えばこの時が義仲の絶頂期でした。7月28日叔父行家と共に蓮華王院に参上、後白河法皇から平家追討の院宣を受けます。この時義仲と行家は序列を争って譲らず、院近臣の冷笑を受けました。論功行賞ではさらなる侮辱を受けます。今回の功績第一位は鎌倉の頼朝とされ、義仲は第二、行家は第三とされるのです。政治力の無い義仲は甘んじて受け入れるしかありませんでした。

 後白河法皇としてはせっかく取り戻した院政を手放す気はなく、義仲も頼朝も徹底的に利用する気でした。法皇は義仲に京都の治安維持を命じます。ところが軍人としては有能でも、政治力が無きに等しい義仲には無理な命令でした。そもそも治安を乱しているのは義仲の軍勢なのです。義仲の軍勢は寄せ集め。田舎者揃いで、軍中に頼朝の鎌倉政権のような軍政を司ったり兵糧を集められる官僚団など存在せず、京都においても略奪暴行強姦など乱暴狼藉の限りを尽くしました。義仲自身、略奪は勝者の当然の権利と思っていたふしがあり、そのために京都の民衆は怨嗟の声をあげます。こんな状態なら平家の方がはるかにましだったとさえ言われ出す始末。

 これだけでも後白河法皇の不興を買っているのに、さらに追い打ちをかける出来事が起こりました。安徳天皇が西に去った為皇位継承の問題が生じ、後白河法皇は亡き高倉上皇の第4皇子(安徳天皇の異母弟)尊成親王(のちの後鳥羽天皇)を考えていました。そこに義仲は、自分たちが擁する以仁王の遺児北陸宮をごり押ししてきたのです。もともと以仁王自体親王宣下を受けてないくらいですから、常識があれば北陸宮に皇位継承権がないくらい理解できるはずです。しかし教養の無い義仲にそれを求めても無駄でした。

 何とか義仲の無理な要求は退けたものの、後白河法皇は義仲に深い怒りを覚えます。義仲と叔父行家の仲が悪化している事に目を付けた法皇は、わざと両者を互いに競わせ対立を助長しました。その上で、鎌倉の頼朝に使者を送り義仲追討を秘かに命じます。これに対し頼朝は上洛の引き延ばしを願い出るとともに、上洛の条件として実質的な東海道、東山道、北陸道の軍事指揮権を求めました。後白河法皇と源頼朝の虚々実々の駆け引きが行われる中、京都の義仲はすっかり蚊帳の外におかれます。

 義仲にも、法皇の怪しい動きは分かっていました。少しでも政治力を上げるため関白松殿基房の娘伊子(冬姫とも呼ばれる)を正室に迎えたり、法皇に頼朝追討の宣旨や志田義広の平家追討使への起用を求めたりします。煩わしくなった後白河法皇は義仲を召し出し、西国で勢力回復しつつあった平家追討を命じました。体の良い厄介払いです。

 義仲としては、今は平家より頼朝こそ憎き敵でした。しかし院宣とあっては受けざるを得ず渋々西に出陣します。腹心樋口兼光を都の守備に残した義仲でしたが、備中国水島(倉敷市)の戦いで平家軍に大敗、京都に逃げ戻りました。そこへ頼朝が法皇の命を受け自分に対する追討軍を発したという報告を受けます。泣きっ面に蜂とはこの事。義仲は烈火のごとく怒りますが、まさか法皇を手に掛ける事も出来ませんでした。

 それでも腹の虫は治まらず、後白河法皇、後鳥羽天皇を捕え政権を一気に奪取しようと院御所のある法住寺殿を襲います。法皇、天皇は幽閉され義仲は松殿基房の子師家を摂政とする傀儡政権を樹立。そして自らを征夷大将軍に任じました。この時処刑された者、院近臣源光長以下百余名。義仲に批判的だった公卿43名も解官されます。

 松殿家は、一時平氏と深く結びついた近衛家のために逼塞を余儀なくされますが、義仲と結び付く事で復活を図りました。ところが義仲の天下は長く続かず、義仲と結び付いた事が仇となり、摂関家から滑り落ちます。この辺り、家の浮沈は本当に難しいと考えさせられます。

 頼朝の鎌倉政権は、頼朝の弟蒲冠者範頼、九郎義経を大将として義仲追討軍を出立させます。戦奉行として京都の事情に詳しい中原親能と官僚として有能な梶原景時が同行しました。義仲は挟撃される事を恐れ平家に和睦を申し込みますが黙殺されます。絶体絶命の義仲はどのような運命を辿るのでしょうか?


 次回、宇治川の先陣争いと義仲の最期を描きます。
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