源平合戦Ⅹ 一の谷から屋島へ

 正五位下斎院次官中原親能。鎌倉軍が1184年1月入京した時、人々は範頼や義経の名を知らず親能が総大将だと勘違いしたそうです。京で長年暮らして事情に明るい親能なくしては院や朝廷との交渉など不可能だったでしょう。範頼や義経はあくまで軍事面での総大将に過ぎず、実質的には親能が頼朝の意向を受けてすべての外交交渉、占領行政を司ったと言っても過言ではありません。ここが義仲軍との大きな違いでした。後白河法皇も、鎌倉軍を侮れないと悟ります。

 親能は摂関家の右大臣九条兼実と父の時代から親交が深く、院に対抗するため急接近します。九条兼実は元関白藤原忠道の第六子ですが、兄弟の近衛基実、松殿基房が摂政・関白を歴任する中1166年から1186年まで二十年も右大臣に留め置かれます。そのため、時の権力とは距離を置きその栄枯盛衰を冷めた目で見続けました。そんな兼実に絶好の機会が到来したのです。

 ライバル松殿家は、義仲の滅亡と共に没落。近衛家も平家との結び付きがあったためおとなしくしていました。兼実も九条家興隆のためには鎌倉の頼朝と結ぶことが不可欠だと考えます。ここに鎌倉と九条家と暗黙の同盟ができるのです。ただ院政復活を目論む後白河法皇としては、摂関家が再び力をつける事は好ましくなく院対鎌倉・九条家という対立の構図ができました。

 頼朝と義仲が血みどろの死闘を続けていた中、九州に落ちのびていた平家は強大な水軍を組織し再び摂津まで進出します。六万の陸兵を擁しかつての拠点福原に布陣し、京都奪還を虎視眈々と窺いました。後白河法皇は、秘かに平家に使者を送り和睦を画策します。今度は平家と頼朝を競わせようというのです。

 法皇の動きを察知した頼朝は、1184年1月26日軍事力を背景に法皇に平家追討の院宣を出させます。こうして源範頼、義経を大将とする源氏軍六万は平家を討つべく摂津に向かいました。範頼率いる主力の五万は生田口で平家軍主力知盛率いる五万と対峙します。平家側では、源氏軍が北方から回り込む事を警戒し教経に一万を与えて警戒させました。

 福原すなわち現在の神戸は六甲山が北に聳え瀬戸内海と挟まれた狭い土地です。教経の別働隊は一応の警戒のための配置で背後の一の谷だけは断崖絶壁でとても馬が駆け降る事ができないと防備は手薄でした。次将義経率いる一万は別働隊として丹波路を進みます。福原の北方に達した義経勢は、大部分を安田義定、多田行綱に授け教経勢に当たらせるため山手の夢野口に向かわせました。さらに土肥実平、熊谷直実らに三千を与え平家軍の背後に回らせました。

 義経自身はわずか七十騎余りを引き連れ、一の谷の断崖から真っ逆さまに駆け下ります。関東武士が馬の扱いに慣れていたこともあったでしょうが、まさかこんな方面から敵が攻めてくるとは夢にも思わない平家軍は大混乱に陥りました。平家軍は、沖合に軍船を浮かべていたこともあり、その場に止まって抵抗する気はなく我先に船に飛び乗って逃げ出しました。こういう面を見ても、平家軍の士気の低さが分かります。そしてこれは屋島でもまた繰り返されるのです。

 一の谷の鮮やかな勝利で、無名だった義経は名前を知られることとなりました。総大将範頼と中原親能は頼朝に戦況を報告するため一時鎌倉に帰還します。義経が残り京都の治安維持を任されました。慎重な範頼や、朝廷を知り尽くしている親能と違い、世間知らずの義経は後白河法皇にとって利用価値が高い存在でした。何かとちやほやし優遇します。8月6日、法皇より左衛門少尉、検非違使に任ぜられました。検非違使の唐名から以後義経は九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれることとなります。

 官位を授けられ有頂天になっている弟義経を見て、頼朝は苦々しく感じます。鎌倉政権が存続するには朝廷や院と距離を置かなければならないのです。慎重な範頼はそれを理解していましたが、義経は兄の危惧を全く気付いていませんでした。このころから兄弟の間に隙間風が吹き始めたのでしょう。軍事的才能は優れているのに政治力皆無、後白河法皇としてはだからこそ使えると踏んだのです。

 敗走した平家追討の任務は範頼に与えられました。義経は任務を外され京に止められます。頼朝の了解を得て朝廷から三河守に任じられていた範頼は、1184年8月北条義時、千葉常胤、足利義兼、三浦義澄、小田朝光、和田義盛ら文字通り鎌倉軍の主力五万を率いて西国遠征に出立しました。ただその目的は、平家討伐ではなく山陽山陰から九州にかけて平家方の武士を鎮圧し平家軍を瀬戸内海に孤立させる事でした。

 備前国藤戸で平家軍の抵抗に遭い苦戦しつつも範頼軍は長門に達します。ところが制海権を平家が握っていたため兵站が阻害され深刻な兵糧不足に陥りました。1185年1月、豊後の豪族緒方三郎惟義が味方に付いたため九州方面から物資が入り一息つきます。周防から九州の豊後に渡った範頼軍は、筑前における有力な平家党原田種直を豊前葦屋浦で撃破、大宰府を制圧し九州に確固たる基盤を築きました。

 こうして平家軍は、相変わらず瀬戸内海の制海権は握っているものの背後の九州に逃げ込めなくなり戦略的に詰みます。後は掃討するのみ。軍記物では屋島と壇ノ浦を重要な戦いとしてが来ますが、すでにこの段階で戦略的には勝負あったと私は見ます。


 一の谷で敗北した平家は、讃岐国屋島(高松市)に新たな拠点を築きました。三方を海に囲まれた半島に位置し難攻不落ともいえる所です。範頼が戦略的に平家を追い詰めつつあるので別に急いで攻める必要もなかったのですが、軍功に焦った義経は強引に出兵を決めます。後白河法皇に直談判し西国出陣を奏上、許可を得ました。頼朝の許可があったか不明です。おそらく独断でしょう。一説では頼朝が義経に求めたのは平家攻めのための軍船集めだけだったとも言われます。

 出陣の準備中、軍目付として頼朝の命を受け義経を監視していた梶原景時との間に有名な逆櫓の争いが起こりました。ただ事の本質はそのような枝葉末節な事ではなく、独断専行する義経に景時が釘を刺したというのが真相でしょう。梶原景時は頼朝が最も信頼する御家人で、ほかの武将が漠然とした戦勝報告しかできない中、戦場、戦況、戦の経過、討ち取った武将の首など詳細に報告し、頼朝は初めて満足したというエピソードもあります。

 1185年2月、摂津多田渡辺党の水軍と熊野堪増の水軍を味方に付けた義経は颯爽と渡海しました。率いるのはわずか百五十騎。暴風雨を衝いた強行軍です。こういう拙速とも言える義経の行動も慎重な景時には気に入らない所でした。自然、鎌倉に対する景時の報告が辛いものになるのは仕方ありません。しかし、義経の軍才は確かに優れていました。ぐずぐずしていては敵に少勢である事がばれると、一直線に屋島に急行します。

 平家にとって最悪のタイミングだったのは、主力軍が伊予の河野通信討伐で出払っていた事でした。屋島の背後に達した義経勢は、付近の民家に火を放ち大軍であるよう見せかけます。突如現れた源氏軍を見て平家はまたしても抵抗せず、船で海上に脱出します。もしこの時籠城して頑張れば、伊予から戻ってきた平家軍主力と挟み撃ちできたかもしれなかったのです。天運にも見放され、軍の士気も低い平家はここでもろくに抵抗せず敗北しました。

 この時、義経軍の那須与一と平家の女官の間で扇の的を射るというエピソードが起こります。しかしそんな悠長な事をする暇があったら平家は再度岸にとって返し死に物狂いで一戦すべきではなかったでしょうか?とにかく瀬戸内海における重要拠点を失った平家は長門国彦島(下関市)に逃れるしかありませんでした。壇ノ浦の最終決戦は刻一刻と近づきつつあります。



 次回、平家滅亡に御期待下さい。
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