源平合戦12 義経最期

 壇ノ浦勝利の吉報が鎌倉にもたらされた時、頼朝は亡き父義朝の菩提を弔う法要を営んでいたそうです。非業に倒れた父、自身の二十年の流人生活を思い頼朝は感慨深かったでしょう。しかし感傷に浸ってはいられません。今では鎌倉殿と尊称され天下人となったのです。ただそれを完全なものにするには院政復活を目論む後白河法皇との対決が待っていました。

 さて、当面の問題は弟義経でした。1185年4月15日、頼朝は義経と共に勝手に官位を受けた御家人たちの鎌倉帰還を禁じます。生き残った平家所縁の人たちの戦後処理はまず堂上平家の平時忠を能登に配流。安徳天皇の生母建礼門院徳子は後白河法皇の意向もあり京都大原で出家、寂光院で余生を過ごすこととなります。残るは平家の棟梁宗盛とその子清宗の処分でした。義経は宗盛父子を護送し鎌倉に向かいました。

 ところが頼朝は義経の鎌倉入りを拒否、郊外の山内荘腰越の満福寺に止めます。驚いた義経は、頼朝側近大江広元に対し自分が叛意などないこと、兄頼朝に忠誠を誓っている事などを記した有名な腰越状を送りました。が、頼朝の心は動かず京都への帰還を命じます。宗盛父子は、途中近江国篠原で斬首されました。取り付く島の無い頼朝の態度に義経は絶望します。しかし今日の事態を招いたのが他ならぬ自分である事を義経は最後まで理解できていませんでした。

 悄然と京都に戻った義経を、後白河法皇はますます優遇します。従五位下左衛門尉・伊予守に任官。ついに頼朝に対する謀反を決意した義経は、河内、紀伊あたりで蠢く叔父新宮十郎行家と結びました。またしても行家の登場です。この野心ばかりあって実力の伴わない小人は疫病神でした。義仲が滅ぼされ、今度は義経に取り憑いたわけです。義経が謀反人行家と結んだ事を知った頼朝は、御家人土佐坊昌俊を送りこみました。土佐坊は手勢を率い義経の堀川館を襲撃しますが、義経はこれを撃退します。

 怒った義経は、1185年10月後白河法皇に迫り頼朝追討の院宣をもらいました。法皇としては願ってない展開です。頼朝と義経が互いに殺し合ってくれれば源氏政権が滅び院政は盤石となるからです。ところが義経にとっても法皇にとっても誤算だったのは、義経に人望がなく味方する武士がほとんどいなかった事でした。京都に近い摂津源氏多田行綱ですら、鎌倉に忠誠を誓い義経に公然と敵対します。九州における永遠の不満分子緒方三郎惟義のみが義経に味方すると宣言、11月義経は惟義と合流しようと船団を組んで出航しました。ちなみに惟義が義経を迎えるために築城したのが戦国時代難攻不落と名高い岡城(大分県竹田市)だったと伝えられます。

 11月6日、摂津大物浦を出た義経一行は途中暴風雨に遭い難破、義経は摂津に戻されます。11月7日頼朝は後白河法皇に圧力をかけ義経のすべての官位を剥奪させました。法皇は頼朝の要求に屈し今度は義経を朝敵と定め追討の院宣を出します。信じていた法皇にまで裏切られた義経の惨めさはどうでしょう。法皇としても義経を切り捨てなければ自分の身が危なくなるのです。

 11月25日、謀反人義経、行家追討の院宣が出され、親義経派、頼朝追討の院宣に関わった公卿が解任されました。義経は郎党や愛妾白拍子の静御前と共に逃亡します。途中吉野山で足手まといの静と別れ、自分を保護してくれる奥州の覇者藤原秀衡を頼って平泉を目指しました。加賀国安宅の関(小松市)における勧進帳のエピソードは歌舞伎などで有名です。史実かどうか分かりませんが似たような事があったかもしれません。

 義経を利用して頼朝追討を画策したのは後白河法皇の大きな失点でした。鎌倉では政所別当大江広元の献策で法皇に対し義経追捕を名目とする守護・地頭の設置を要求します。法皇もこれを認めざるを得ませんでした。ただ平泉に逃げ込んだ義経に関してはしばらく放置します。奥州藤原氏は、陸奥出羽両国を支配し簡単に滅ぼせるような勢力ではなかったからです。

 1186年、頼朝は側近の中原親能を京都守護に任じ送りこみます。これが六波羅探題の前身で、ほかにも頼朝は舅北条時政に千騎を与え上洛させ、院を恫喝しました。5月、野望多き新宮十郎行家も捕えられ斬首。頼朝と奥州藤原氏の冷戦が続く中、1187年10月頼みの綱秀衡が病没します。義経は藤原氏の兵を借りて頼朝と対決するつもりでしたが、夢と消えました。藤原氏の後を継いだのは嫡男泰衡。頼朝は気の弱い泰衡に圧力をかけ謀反人義経の引き渡しを命じます。

 圧力に屈した泰衡は、1189年4月義経の住む平泉郊外の衣川館を急襲しました。わずか十数騎の義経主従は必死に防戦しますが多勢に無勢。郎党たちが次々と討たれます。覚悟を決めた義経は、持仏堂に籠りまず正室河越氏と4歳の娘を殺しました。そして自らも自刃し波乱の生涯を閉じます。享年31歳。



 義経は死にましたが、潜在的敵対勢力である奥州藤原氏を頼朝が許すはずはありませんでした。次回、奥州合戦を描きます。
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