人取橋合戦時の連合軍勢力

 ただいま独眼竜政宗にはまっておりまして、1585年人取橋合戦時の反伊達連合軍の勢力について興味を覚えました。そこで私なりに調べたので書き記します。


◇佐竹義重(1547年~1612年) 
 反伊達連合軍の盟主。本領は常陸国(現茨城県の大半)奥七郡。と言ってもこの分類は那珂郡と久慈郡を無理やり東西に分けて数えているので、江戸期の分類では多賀郡、久慈郡、那珂郡、茨城郡の四郡に当たる。
 その石高は、
多賀郡5.7万石
久慈郡10万石
那珂郡10万石
茨城郡14万石
で、計39万7千石。これに南陸奥の白川郡の一部と、常陸南部にも勢力拡大中だったから40万石は確実。動員兵力1万3千。盟主にふさわしい実力を持っている。


◆蘆名義広(1575年~1631年)
 佐竹義重の次男。南陸奥の名門蘆名氏の養子となり家督を継ぐ。おかげで蘆名家中は蘆名旧臣と佐竹派で分裂しまとまりに欠ける。ただ南陸奥最大の大名であることには間違いない。
 勢力圏は会津四郡27万石と安積郡、岩瀬郡の一部で30万石強。動員兵力1万。


◆畠山義綱(1574年~1589年)
 二本松城主畠山義継の遺児。幼名国王丸。父義継が伊達政宗の過酷な要求に反発し、政宗の父輝宗を人質に逃亡を図り輝宗もろとも政宗に惨殺された事件以後、伊達家とは不倶戴天の敵となった。当時二本松領の大半は伊達家に奪われていたため勢力は不明。安達郡は7万石あるが、半分もなかった模様。


◆岩城常隆(1567年~1590年)
 南陸奥、岩城郡領主。石高5万石弱。家督相続に際し母(佐竹義昭の娘)の兄佐竹義重を後見人としたため、事実上佐竹氏の属国になっていた。常隆の父親隆は伊達晴宗の子で岩城氏に養子に入った。常隆は、伊達輝宗と従兄弟。


◆石川昭光(1550年~1622年)
 伊達晴宗の子で石川氏に養子に入った。政宗の叔父。所領の石川郡はわずか5千石。その周辺に領土を広げていたとしても1万石あったかどうかの弱小勢力。のちに政宗に降伏し、御一門衆筆頭となる。


◆白河結城義親(1541年~1626年)
 実質的に白河結城氏の家督を簒奪したので、家中の統制力は弱い。隣国佐竹義重の影響下に置かれる。石高6万石。


◆相馬義胤(1548年~1635年)
 相馬三郡6万石の領主。石高のわりに戦上手で、伊達輝宗、政宗親子をしばしば苦しめた。陸前の伊具郡、亘理郡にも勢力を拡大し伊達氏と激突、政宗の正室(愛姫)の実家である田村家にも手を出し、不倶戴天の敵となった。義胤の正室は伊達稙宗の娘。


 こうしてみると、皆伊達家と姻戚関係にあり叔父甥従兄弟、又従兄弟同士の戦いであったことが分かります。佐竹義重ですら正室は伊達晴宗の娘ですから、政宗とは義理の親戚でした。

 蘆名氏の勢力は大きかったですが、家中が混乱していたので佐竹氏の軍が中核。義重が国元の異変で撤退し連合軍が瓦解したのも分かります。ただ人取橋合戦自体は連合軍3万対伊達軍7千で勝負にならず、佐竹勢撤退がなければ政宗はこの時滅亡していたと思います。

 そういう運も戦国武将には大切なのでしょう。

 ところで、連合軍の石高は全部合わせても90万石弱しかないので、兵力3万は誇張のような気がします。実数は2万前後だったのではないでしょうか?多くても2万5千くらいか。それでも伊達勢の3.5倍はいますが。
 
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