阿波戦国史Ⅲ  阿波の南北朝

 1336年阿波国に入った細川和氏、頼春兄弟は秋月城を中心に吉野川下流域の徳島平野の国人を組織し支配を固めます。徳島県の地図を見ると分かる通り、阿波はこの吉野川流域が中心でここを制圧すればほぼ阿波一国を支配したと同然になりました。

 守護小笠原頼清、守護代小笠原頼貞にとってはたまったものではなく、侵入者細川氏に対し激しく抵抗します。が、建武政権は武士を礼遇し貴族や寺社ばかりを優遇したため阿波においても武士の支持はすでに失っていました。細川和氏は、武士の棟梁である征夷大将軍足利尊氏(就任は1338年だが、すでにその権威は持っていた)から任命された阿波の新守護。阿波の国人たちが雪崩を打って細川方に従ったのも理解できます。

 旧守護小笠原頼清は沼島に後退し、守護代頼貞も所領のある吉野川上流三好郡大西(現三好市池田町大西)に押し込められます。劣勢の小笠原氏は南朝に応じ、かろうじて細川勢の攻撃を凌ぐしかありませんでした。

 阿波国のうち、板西郡板東郡の武士団はすでに讃岐国を支配する細川定禅に応じていたため、和氏はここを起点に東西に軍を派遣し小笠原氏の勢力を追い詰めます。三好郡大西城主小笠原義盛、祖谷山の諸豪、麻植郡木屋平の三木氏、木屋平氏、櫟生(いちう)・山城谷の武士のみが最後まで小笠原氏に従い細川軍に抵抗しました。
 
 実は三好郡を除くこれらの地方は古くから朝廷領で、足利尊氏ではなく後醍醐天皇を支持し南朝に従ったのでした。阿波の南朝方は名西郡一宮の一宮大宮司を中心にまとまり阿波山岳党と呼ばれます。ただ、吉野川流域を中心に着々と支配を固める細川氏の圧力を受け、彼らは各個撃破されていきます。細川和氏は、これと同時に阿波の荘園解体を進め貴族や寺社の経済力を断ちました。武士による荘園解体はおそらく南北朝期から室町時代にかけて全国でも行われたはずで、貴族寺社勢力の衰退と武士の守護大名化に繋がります。

 細川和氏自身は軍勢を率い、九州で勢力を回復した足利尊氏に従います。1336年7月湊川合戦、京都攻略戦に参加、尊氏が幕府を開くと引付頭人、侍所頭人と幕府要職を歴任しました。これと同時進行で阿波では小笠原方、南朝方への征服事業が進められました。すでに大勢は決し、残敵掃討の段階に入っていたことから当主和氏がいなくても余裕があったのでしょう。

 和氏自身は、隠居して秋月城に戻り夢窓疎石を招き補陀寺を開くなど文化的活動に専念、1342年47歳の若さで死去しました。南朝方の抵抗はなんと1362年まで続き、まず一宮大宮司が細川氏に降伏。次いで阿波郡久千田の小野寺八郎が続きました。こうなると旧守護小笠原一族も抵抗を断念次々と細川氏に帰順します。こうして細川氏は阿波一国を完全に平定しました。細川氏も帰順した者たちを粗略にすればまた背かれる恐れがあり、気を使います。有力者はどんどん登用し細川家臣団に組み入れました。小笠原一族の三好氏は、この段階で細川家臣になり代々功績をあげ家宰(筆頭家老)にまで累進します。

 阿波守護は1341年和氏の弟頼春に交代。その後は頼春の子頼之に受け継がれました。讃岐と和泉は奥州家の顕氏が守護となり、土佐も顕氏の弟定禅が守護職を得ます。伊予にも勢力を扶植し、さながら四国と淡路は細川王国ともいうべき状況になります。阿波は頼之の後その弟泉州家の頼有が守護となり、さらにその弟詮春(あきはる)が受け継ぎました。

 詮春の子孫が代々阿波守護職を世襲することとなります。これを阿波細川家あるいは下屋形細川家と呼び、嫡流京兆家(管領頼之の子孫)に次ぐ家格を誇りました。細川氏の守護領国には他に和泉、摂津、丹波、備中、備後がありますが、室町期を通じて安定して支配したのは淡路、讃岐、阿波、土佐の4か国のみで、中でも阿波国はその中核に位置します。

 その阿波国守護職を独占した下屋形細川氏の権威が細川一族の中で高くなるのは当然で、ほかの細川一族が守護領国を守護代に任せ自身は京都に在住したのに比べ、一貫して阿波を動かなかったことも強固な支配ができた理由でした。自然、下屋形細川家の家宰三好氏が細川一族全体の家宰となって行きます。京兆家の当主は中央の政変で敗れると阿波に逃れ勢力を回復、下屋形細川家の軍勢の後援を受けて京都に戻り権力を取り戻すという事を繰り返しました。

 下屋形細川家は秋月城から勝瑞(板野郡藍住町勝瑞)に城を築き本拠を移します。勝瑞城は室町戦国期を通じて細川家の中心であり続けました。勝瑞は平城ながら徳島平野の中心にあり吉野川を下ると撫養の港に至ります。都との連絡も便利で海路堺、大阪に至りました。

 細川頼之が管領になれたのも、この四国の経済力が背景にあったのでしょう。勝瑞城は、四国細川王国の都として繁栄し多くの商人、住民が集まり四国最大の城下町を形成しました。



 阿波下屋形細川氏は安定した支配を続けますが、次第に暗雲に包まれることになります。次回は応仁の乱とその後の京都政界の阿波への影響、両細川の乱について見ていきましょう。
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