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阿波戦国史Ⅳ  両細川の乱

 ここで阿波以外の細川氏の歴史を記しましょう。阿波国守護は下屋形阿波細川家が世襲したことは前に書きました。それ以外、讃岐と土佐は奥州家定禅の活躍もあり奥州家の顕氏が讃岐、定禅が土佐の守護となります。他に河内国、和泉国の守護にもなりました。奥州家顕氏は特異な武将で、足利幕府の内訌である観応の擾乱では宗家頼春が最初から尊氏派だったのに対し、直義派の有力武将として戦います。

 ところが後に尊氏派に転じ、これが直義派劣勢の引き金となりました。顕氏は両陣営の間を巧みに泳ぎ切り乱後は引付頭人、侍所頭人など幕府要職を歴任します。その後は幕府重臣として二代将軍義詮にも仕え1352年病死しました。息子繁氏が奥州家を継承しますが1359年6月に急死、家督は繁氏の養子で宗家和氏の子業氏が継承するも奥州家の重要な守護領国である讃岐、土佐は取り上げられ宗家頼之に渡ります。

 以後奥州家は幕府官僚として京都に在住するようになりました。細川宗家では当主和氏が1342年47歳で死去します。和氏の子清氏は幼少だったため叔父頼春の後見を受けることとなりました。清氏は若狭守護、評定衆、引付頭人となり相模守の官位も得ます。1358年足利尊氏が死去し、執事(のちの管領)仁木頼章が辞任すると、二代将軍義詮の初代執事に任命されるなどまさに我が世の春といった状況で得意の絶頂でした。

 しかし、そのため政敵も多く仁木義長、斯波高経、畠山国清らと激しく対立、将軍義詮の意向にも逆らうようになったためついに義詮から追討の命が出されます。太平記では佐々木道誉の讒言が清氏失脚の元凶だと言い、今川了俊の難太平記では清氏は無実だったと記しました。1361年9月、清氏は守護領国だった若狭に脱出します。越前守護斯波高経が幕府の命令で出兵同年10月清氏の軍を破ります。

 敗北した清氏は、摂津に逃れそこで南朝に降りました。一時は楠木正儀とともに京都を奪取しますが幕府の反撃を受け地盤である四国に逃亡します。阿波を経て讃岐に至った清氏はそこで勢力を回復しました。阿波は清氏の父和氏が1340年まで守護を務めていた国、讃岐も奥州家の守護領国ながら清氏の領地もあり室町幕府は放置できなくなります。

 清氏追討の命を受けたのは従兄弟の頼之(頼春の子)でした。頼之は瀬戸内海の海賊衆を味方につけ海上封鎖し清氏を白峰城(香川県坂出市)に追い詰めます。退路を断たれた清氏は、単騎突撃し壮烈な戦死を遂げました。なお清氏の遺児正氏は南朝に属してその後も抵抗を続けますが、最期ははっきりしません。

 こうして細川宗家の家督は清氏ではなく頼之に移ります。頼之は奥州家から讃岐、土佐の守護職を得ると阿波、伊予、備後の守護にも任命されました。妻が三代将軍義満の乳母だったことから管領に就任し絶大な権力をふるいます。これが細川京兆家で、後に阿波は弟詮春の下屋形阿波細川家に譲りますが、丹波・摂津という近畿の枢要な国の守護を独占し繁栄しました。

 応仁の乱はまさに管領京兆家細川勝元と山陰山陽六か国の守護を兼ねる侍所所司山名宗全の対立でした。詮春から数えて四代目下屋形家持常は阿波の他に三河の守護職も獲得し足利六代将軍義教から絶大な信頼を得ます。将軍義教が横死した嘉吉の乱後、暗殺の首謀者播磨の赤松満祐を追討するため播磨出兵も果たします。ただ満祐討伐はすでに山名宗全によって果たされており一歩遅れる形となりました。

 播磨守護は山名宗全に奪われ、これが細川一族と山名氏の対立の発端となります。のちに八代将軍義政の後継問題から応仁の乱が起こりますが、持常の子成之は一貫して宗家勝元に従いました。応仁の乱(1467年~1477年)はご存知の通り何の得るところもなくただ戦場となった京都を荒廃させただけの戦いでしたが、結果として地方では守護や守護代が自立するようになり戦国時代の始まりとなった戦いでした。

 下屋形細川氏は、本拠阿波を動かなかったため勢力は安定し、細川一族内での発言権も大きくなります。京兆家勝元の子政元が管領に就任、父勝元に続き絶大な権勢を誇りました。政元は1493年明応の政変で十代将軍足利義材(義政の弟義視の子)をクーデターで追放、堀越公方政知の子義澄を擁立し十一代将軍に据えました。これは暴挙ともいえる事件でしたが、後々大きな影響を与えることとなります。

 京都を脱出した義材(のちに義稙と改名)は周防の大大名大内義興のもとに逃げ込み、政元死後の話ですが義興は大軍を擁して京都に攻め上りました。

 管領政元には実子がなく、三人の養子を迎えていました。前関白九条政基の末子澄之、京兆家の分家野州家の高国、そして下屋形阿波細川義春の子澄元です。もともと澄之に家督を継がせようと思っていた政元ですが、当の澄之と折り合いが悪く、これを廃嫡し一族から二人の養子を迎えたのです。これでは政元の死後家督争いが起こるのは当然でした。

 政元は修験道に凝るという妙な趣味があり、妻帯もせず異常な生活を送ります。ついには奥州に修験道修行の旅に出たいと言い出す始末で、これは重臣三好之長の諫言で思いとどまりました。家督相続の最有力候補から転落した澄之陣営の香西元長、薬師寺長忠らは、このままではジリ貧になると焦ります。1507年6月政元は湯殿に入っていたところを香西らの兵に襲われ暗殺されます。享年42歳。幕府最大の権臣のあっけない最期でした。

 政元の死後、案の定細川京兆家の家督をめぐって三人の養子が争い始めます。澄之は九条家の出なので除外し、同じ細川一族の高国、澄元の対立を称し両細川の乱、あるいは永正の錯乱とも呼びました。澄之には山城守護代香西氏、摂津守護代薬師寺氏らが付きます。高国は細川典厩家の政賢、淡路守護家の細川尚春が味方に付きました。一方、澄元は実家下屋形家の強力なバックアップを受け、下屋形家から派遣されていた付家老三好之長(長慶の曽祖父)が従います。



 三人の養子の戦いはどのように展開するのでしょうか?次回は両細川の乱の経過と三好氏の下克上を描きます。
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