阿波戦国史Ⅴ  京兆家の家督争い

 応仁の乱の結果、足利将軍は権力を失い形骸化した権威のみ残りました。三管領家でも斯波氏、畠山氏は兄弟一族が東西両陣営に分かれ激しく戦ったため力を無くし守護領国のみを汲々と守るだけの存在に落ちぶれます。三管領家で唯一残った細川政元が幕府の実権を握り独裁したのは当然でした。

 ただしその威勢も精々近畿と四国のみに及ぶだけで、すでにほかの地域では守護や守護代が台頭し戦国時代が始まっていたとも言えます。細川政元横死は確かに幕府や畿内では大きな事件でした。政元には実子がなく、九条家から入った澄之、野州家から入った高国、阿波下屋形家から入った澄元という三人の養子がいました。

 この中で、山城国守護代香西元長、摂津国守護代薬師寺長忠が後押しした澄之が最有力となります。香西、薬師寺の軍事力を背景に澄之は義父政元の葬儀を催し、将軍義澄から細川京兆家の家督を認められました。しかし、香西、薬師寺らが主君政元を暗殺したことは皆知っており澄之が裏で命じた可能性もあったため、澄之の京兆家家督相続は細川一族の猛反発を招きます。

 実は政元暗殺の時、澄之最大のライバルになるはずの澄元暗殺も計画されました。下屋形細川家から澄元補佐のために派遣されていた三好之長は、危険を察知し澄元とともに近江に脱出します。京兆家家督争いは実質澄之と澄元の対立で、家格的に一枚落ちる高国は澄元と連携し、まず余所者の澄之排除を決断。他の細川一族も澄元・高国を支援し、河内の畠山氏、近江の六角氏も引き込み1507年8月京都に攻め上りました。

 この戦いで香西元長、薬師寺長忠が戦死し、進退窮まった澄之は自害します。享年19歳、政元暗殺からわずか40日余りの天下でした。家格的に澄元が細川京兆家の家督を継ぐのは当然で、管領に就任し摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を兼ねる強大な勢力となります。澄元を助け京兆家家督を継承させた三好之長の功績は抜群で、之長は京兆家を含めた細川一族全体の家宰に就任しました。

 ところで細川政元にクーデターで将軍の座を追われた義稙(義材から改名)はどうしていたでしょう?この頃義稙は西国の大大名大内義興の庇護のもとにありました。義興は本国周防・長門はもとより北九州の豊前、筑前の守護を兼ね、安芸や石見にも進出し実に六か国を領する巨大勢力でした。義稙は管領細川一族の内訌が自分が復権する絶好の機会だと見ました。義興もまた天下に野心を持っており両者の利害は一致します。

 義興は、澄元家督相続に不満を持つ高国と秘かに結び1508年3月2万の大軍で上洛しました。当然義稙も同行します。澄元は義興に和睦を申し込みますが、野望に燃える義興はこれを一蹴、義興と結ぶ高国も伊勢で挙兵、京都に攻め上る姿勢を見せました。同年4月、大内軍が泉州堺に上陸し京都に迫ると畿内の諸将は次々と義興に寝返ります。最終的に大内勢は6万に膨れ上がり、澄元とこれを擁する三好之長の阿波勢は近江に撤退を余儀なくされました。この時将軍義澄も行動を共にします。

 入京した義稙は、義澄の将軍職を剥奪し再び将軍に返り咲きました。義澄は将軍職を失った衝撃から間もなく病死します。今回の上洛に抜群の功績があった大内義興は、管領代、山城守護となり左京大夫の官位を得ました。細川高国は管領に就任し京兆家の家督を相続したものの、将軍義稙も管領高国も大内義興の傀儡に過ぎず、この時義興は実質的な天下人となります。

 近江に逃れた澄元、之長は何度か京都奪回を試みますが、1509年如意ヶ嶽の戦いで敗北、同年10月には逆に高国が近江に攻め込んだため澄元、之長は本国阿波に逃亡しました。ただ、義稙と高国が簒奪に近い形で権力を奪取したことは畿内の武士たちの反発を招き、余所者に過ぎない大内義興が天下人として大きな顔をしていることも嫌います。

 義興・高国政権は安定せず、前将軍義澄と前管領澄元を支持する勢力と泥沼の戦いを繰り広げました。なんとこの戦いは10年も続き、大内方諸将が離反、勝手に帰国する者が続出します。出雲の尼子経久が大内領の石見に攻め込んだため、たまりかねた大内義興は1518年帰国しました。義興・高国の連携もこの頃にはすっかり冷え込み対立していたことも義興が嫌気を起こした要因でしょう。

 高国は将軍義稙とも対立、京都政権の混乱を見て取った阿波の澄元・之長は1519年11月四国の兵を率いて摂津国兵庫に上陸しました。1520年2月、摂津でこれを迎え撃った高国が敗北したため、将軍義稙は澄元と通じました。今度は高国が近江に逃亡する番です。入京を果たした澄元は実に10年ぶりに管領に復職しました。

 しかし近江坂本に逃れた高国は、近江南半国守護六角定頼、同北半国守護京極高清、丹波の内藤貞政と結び逆襲に転じます。1520年5月高国・六角・京極・内藤連合軍に等持院の戦いで敗北した澄元は再び播磨から本国阿波に逃亡。三好之長も高国に捕らえられ二人の息子とともに処刑されました。

 失意の澄元は同年6月、阿波勝瑞城で病死します。享年32歳。京兆家の家督は嫡子晴元が継ぎました。再び権力を握った高国は、澄元と内通していた将軍義稙を追放、前将軍義澄の遺児義晴を十二代将軍に擁立します。が、高国の天下は長く続きませんでした。

 1526年10月、細川澄元の遺児晴元を擁した三好之長の孫元長が高国打倒の兵をあげます。元長の阿波勢は摂津に上陸、将軍義晴を擁立する高国に対抗するため、義晴の弟義維(よしつな)を担ぎ出しました。ただ義維は京都に入ることは叶わず堺に留まったため堺公方と呼ばれます。

 晴元・元長勢は畿内各地で高国勢と激しくぶつかり、1527年3月桂川原の戦いで高国勢が敗れたため、高国は将軍義晴を連れて近江坂本に逃亡、高国政権は崩壊しました。すると今度は、管領細川晴元と家宰三好元長が対立をはじめ、怒った元長は阿波に帰国してしまいます。復権をたくらむ高国は越前の朝倉孝景に支援を要請、孝景は大叔父朝倉宗滴を大将とする越前勢を送り込みます。越前勢とともに攻め込んだ高国は京都を奪回するも、翌年3月越前勢の帰国とともに勢いを失い京都を叩き出されました。

 しぶとい高国は、今度は備前守護代浦上村宗の協力を取り付けます。浦上勢とともに逆襲に転じた高国は1531年摂津の大半を制圧。危機感を覚えた晴元は三好元長と和睦し、元長の兵を加えて摂津中嶋の戦いで高国・浦上勢を防ぎました。同年6月、天王寺の戦いで敗北した高国は総崩れになり尼崎に逃亡します。混乱の最中、高国は進退窮まり尼崎の藍染屋に逃げ込みました。藍甕の中に隠れた高国ですが、三好勢に発見され尼崎の広徳寺で自害を強要されます。享年48歳。野望多き男の最期でした。これを大物崩れと呼びます。

 最大の宿敵高国を倒すと、再び管領晴元と三好元長の対立が表面化しました。晴元の従兄弟で阿波守護の下屋形家持隆は両者の関係を取り持とうとしますが無駄でした。1532年、晴元が扇動した木沢長政、一向一揆との戦いで元長は敗北します。管領となった晴元は堺公方義維を見限り将軍義晴を擁立していたため、元長は敵から義維を逃がすだけで精一杯でした。晴元から敗戦の責任を追及された元長は、1532年6月20日、自害します。享年32歳。

 非業の最期を遂げた元長ですが、彼の遺児長男長慶、次男義賢、三男冬康、四男一存(かずまさ)は優秀で三好一族台頭の原動力となりました。



 次回三好長慶登場、三好一族の畿内制覇を描きます。
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