阿波戦国史Ⅹ  中富川の決戦(終章)

 長宗我部元親が阿波に侵入したとき、土佐勢は総勢2万3千。明らかに土佐の石高(10万石)から見ると過大でしたが、そのからくりは一領具足だと前に書きました。すでに占領している伊予、讃岐各地から動員した兵を加えても2万3千と言えば普通はだいたい70万石から80万石に相当します。計算上阿波を除いた四国三国(土佐・伊予・讃岐)の石高より多いのです。
 
 元親四国制覇の原動力はまさに一領具足の力でした。守護細川真之は滅ぼしたものの、十河存保も三好勢も満身創痍。とても長宗我部勢に敵うはずがありません。各地で敗退を繰り返し、本拠勝瑞城まで追い詰められていきます。

 中央において、1582年6月織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反に遭い非業の最期を遂げていました。跡を継いだのは信長の重臣羽柴秀吉。本能寺の変を備中高松城の陣中で知った秀吉は、変を知らない毛利方と急いで和睦すると、後世中国大返しと称賛される離れ業を演じ、山崎で逆臣光秀を討ち天下人への道を歩みつつありました。

 織田信長に降伏し以後は従い続けた三好家残党ですが、当時は長老三好笑岩(康長)が一族を率いていました。信長時代、笑岩は四国進出の先兵とされ1581年には威力偵察を兼ねて阿波に上陸、この時は長宗我部元親に叩き出されています。本能寺の変直前にも、信長の三男信孝を総大将とする四国遠征軍の先鋒を任され準備中でした。四国平定後は阿波一国を恩賞として貰う約束もあったと言われます。

 信長の横死で四国遠征は沙汰止みになり、信孝も丹羽長秀も秀吉の勢いに呑まれる形で山崎合戦に参加します。笑岩は戦はからっきし下手でしたが、一方政治力は優れ次の天下人が秀吉だといち早く見抜きました。可愛い甥存保のために秀吉に四国遠征を訴えますが、畿内統一に忙しい秀吉はなかなか良い返事を与えませんでした。

 そこで笑岩は、秀吉のそばに側近として仕え存在感を示すことで接近を図ります。秀吉としても名門三好笑岩が近くに侍ることに悪い気はしませんでした。笑岩は駄目押しとして、秀吉の甥秀次を自分の養子に迎えることを申し出ます。出自コンプレックスのある秀吉としても渡りに船でした。

 その間、阿波の存保からは火の出るような援軍の要請が来ます。1582年8月、一宮城まで進出した2万3千の長宗我部軍は、存保の息の根を止めるため勝瑞城に迫りました。存保は阿波・讃岐の兵5千を集め必死の抵抗を示します。

 8月27日、中富川の南岸に長宗我部勢の先鋒香宗我部親泰(元親の弟)が着陣しました。28日までに長宗我部勢主力が到着し、正午ごろ総攻撃を開始します。このころ、阿波は疫病が流行し飢饉が起こっていました。兵糧も満足に集まらない厳しい状況だったのです。おまけに敵勢は4倍以上の大軍。いくら存保が勇将でも、個人の武勇でどうこうできる状況ではありませんでした。存保が籠城を選ばず打って出たのも兵糧問題があったのではないかと思います。

 中富川の合戦で、三好方の主だった武将はことごとく討死したと言われます。数多くの兵士も死に、四国で起こった戦では最大の死傷者を数えたと伝えられます。存保はかろうじて死地を脱し讃岐に退去しました。阿波は長宗我部元親の領土となります。同年10月、元親は讃岐に侵入し存保の籠る十河城を攻撃します。この時は存保も必死に抵抗し守り抜きました。


 1585年5月、三好一族が待ちに待った秀吉の四国攻めが始まります。羽柴軍は総勢10万を数え、流石の長宗我部軍も各地で連戦連敗、たまりかねた元親は秀吉に降伏しかろうじて本国土佐一国を安堵されました。戦後阿波を貰ったのは秀吉の宿老蜂須賀正勝の子家政。十河存保に安堵されたのは讃岐十河領三万石のみ。すでに1584年頼みの綱三好笑岩が病死していたため、存保に打つ手はありませんでした。





 時は流れ1587年。十河存保に仙谷秀久、長宗我部元親を加えた四国勢は秀吉の九州征伐の先陣として豊後に渡ります。そこへ島津家久の兵1万3千が攻めかかりました。軍議の席で元親は、「ここは一時撤退し本隊の到着を待つべき」と発言します。存保は元親を臆病者と罵り合戦を主張して譲りませんでした。大将の仙谷秀久も積極策だったため合戦に決します。四国勢は6千でした。

 実は存保は、戦の行方を見抜いておりかつての宿敵元親と心中するつもりでした。戸次川の合戦は案の定島津軍に押しまくられ四国勢は進退窮まります。どこまで史実か分かりませんが、司馬遼太郎の小説『夏草の賦』では元親の嫡男信親を見つけた存保が「ともに敵陣に突撃仕ろう」と呼びかけ、臆病者と言われるのが嫌だった信親も同意。両者は獅子奮迅の活躍をした後壮烈な戦死を遂げました。存保享年33歳。信親に至っては22歳でした。

 戦場を脱出した元親は、最も期待していた信親の戦死を知り衝撃を受けます。以後政治に対する興味を失い酒に溺れたそうです。戦の直前存保は嫡男千松丸を脱出させていました。存保の願いは千松丸が十河家三万石を継ぐことでしたが、秀吉は戸次川の敗戦の責任を追及し領地を没収します。

 存保には千松丸の他に何人かの子がいたそうですが、彼らのその後は分かりません。存保の戦死で鎌倉以来の歴史を誇る名門三好家は滅びました。



 阿波国は蜂須賀氏が領し幕末まで続きます。ここに至り阿波の住民はようやく平穏を得たともいえます。






                              (完)
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