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長宗我部戦記Ⅰ  岡豊(おこう)落城

 土佐国は現在の高知県に当たります。古代には都佐国と呼んでいましたが、一番西の幡多郡だけは波多国という別の国でした。律令制が始まって都佐と波多を合わせて土佐国となります。土佐は四国の南半分を占めますがその80%は山地。四国山脈が四国の他の三国と隔てる自然の障壁となりました。

 物部川、仁淀川、四万十川などの大河が山脈の間を縫って流れますが、河口の高知平野、安芸平野は狭く耕地は全土の7%にしかすぎません。古代日本の大動脈瀬戸内海に面した伊予、讃岐、阿波が早くから発展したのに比べ、土佐は交通の不便さから流刑地とされました。

 京都方面から土佐に下るには、一旦阿波に上陸して吉野川沿いに遡り三好郡から四国山脈に分け入り、大歩危小歩危の難所を越さなければなりません。もう一つのルートは阿波を沿岸沿いに南下し、室戸岬をこえて海路土佐に至るものでした。確か有名な紀貫之の土佐日記は、この沿岸ルートを通ったと記憶しています。

 土佐国の石高は太閤検地では9万8千石。関ヶ原以後山内一豊が入国し改めて検地したところ20万石でした。ただこれはかなり無理して作り上げた数字らしく、表高と内高の差がない厳しい藩財政を強いられます。一応土佐藩時代初期の石高を記します。

 西から
幡多郡 5万2千石
高岡郡 4万5千石
吾川郡 8千石
土佐郡 1万9千石
長岡郡 2万5千石
香我美郡 2万7千石
安芸郡 1万7千石

 おそらく戦国時代はこの半分くらいではなかったかと推定します。鎌倉時代、武家政権の力は土佐にはあまり浸透せず名目的な守護しか置かれなかったようです。土佐に中央政権の力が及んだのは南北朝時代、足利方の細川氏が四国平定してからです。最初土佐国は細川奥州家の定禅が守護となります。その後細川京兆家(嫡流)が守護を独占しました。ただ京兆家は室町幕府の管領として常に京都に居ましたから、守護代として庶流の遠州家が入りました。

 ただ遠州家だけでは土佐支配は十分ではなかったらしく、細川京兆家は有力豪族を味方につけこれを補佐させました。これが長岡郡岡豊城を居城とする長宗我部氏です。南北朝時代、長宗我部信能(のぶよし)、兼能(かねよし)父子が細川氏に仕え南朝との戦いで戦功をあげました。

 その褒美として長宗我部氏が貰ったのが土佐国内の大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計千百三十四町です。長宗我部氏は、管領細川氏の重臣として土佐国の旗頭となり大きな勢力を誇ります。ただ管領細川氏の威光を笠に他の豪族に命令する長宗我部氏が好かれるはずはありません。細川氏の力が強いうちは我慢していても、一旦細川氏の威光が効かなくなると反撃されるのは時間の問題でした。

 その矛盾は応仁の乱後噴出します。1507年、管領細川政元は後継者争いのごたごたで重臣香川元長、薬師寺長忠らに入浴中を暗殺されました。土佐守護代細川長益は応仁の乱に参加しぼろぼろになって大きく勢力を減退させます。当時の長宗我部氏当主十九代兼序(かねつぐ)は、衰退した守護代遠州家に代わり土佐の守護代的役割を代行していたとされますが、主家細川政元横死で雲行きが怪しくなりました。

 兼序は、細川京兆家衰退に備え幡多郡に領地を持つ関白一条教房を招き後ろ盾にします。土佐一条氏は、幡多郡中村を居城としながら朝廷の位階も累進し中村御所と呼ばれ土佐人の尊崇を受けました。中村は京都を模した碁盤の目状に道が整備され小京都と称されます。土佐一条氏は、本来五摂家の一つ一条家の嫡流でしたが、教房の弟冬良(ふゆよし)が京都に残り関白となったことで、この子孫が嫡流になりました。

 ここに一人の人物が登場します。本山梅慶入道茂宗。兼序とおなじ長岡郡の内陸部本山城主でした。土佐は郡が横並びに連なり南で太平洋に面し、北は四国山脈に接します。通常は海に面した南部が人口が多く北部は少なかったのですが、長岡郡だけは例外で難所とはいえ大歩危小歩危の峠道で阿波との交通路だったため北部山岳地帯を支配していた本山氏はある程度の勢力を誇ります。

 本山氏は土佐日記にも先祖の八木氏として登場するほどの古い歴史を誇る国人でした。一方長宗我部氏も古代豪族秦氏の子孫を称し、平安時代末期に秦能俊(よしとし)が土佐国長岡郡宗我部郷に入り長宗我部氏を名乗ったそうです。最初は宗我部氏だったそうですが、甲斐源氏の末裔を称する香我美郡の宗我部氏が居たために、これと区別するために長岡郡の長を取り長宗我部と称したと言われます。ちなみに香我美郡の宗我部氏も香宗我部氏となります。

 本山梅慶の生年がはっきりしないためその父養明の時代の可能性もありますが、後ろ盾を失った兼序を滅ぼすため近隣の山田氏、吉良氏、大平氏と語らい1508年(1518年という説も)3千の軍勢で岡豊城を囲みました。兼序は土佐国人たちに嫌われていたため援軍もなく、わずか5百の兵で籠城します。

 滅亡は時間の問題でした。死期を悟った兼序は嫡子千雄丸(のちの国親)を呼び寄せます。近臣数名を護衛に付け中村屋形の一条氏を頼って落ち延びるよう命じました。この時千雄丸わずか4歳。千雄丸一行は敵の包囲をかいくぐり中村屋形に向かいます。

 連合軍は、岡豊城総攻撃を開始しました。多勢に無勢。兼序は獅子奮迅の活躍の後自害して果てます。岡豊城は落城しました。長宗我部氏を滅ぼした後、梅慶は本拠本山城を子の茂辰(しげとき)に譲り、自身は平野部の朝倉城(高知市)に居城を移します。1540年には長宗我部攻めで協力した吉良氏を滅ぼし、一条氏とも戦うなど本山氏の全盛期を築きました。



 一条氏を頼り落ちていった千雄丸はどうなったでしょうか?次回、お家再興について語りましょう。
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