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長宗我部戦記Ⅳ  国虎

 安芸氏はその出自がはっきりしません。壬申の乱で敗れ土佐に流罪となった蘇我赤兄の後裔という説もあれば、惟宗氏出自説、橘氏説、藤原氏説もあります。近年安芸郡少領凡直伊賀麻呂の子孫ではないかという説が有力になっていますが、まだ確定ではないそうです。

 安芸氏は安芸郡を中心に香我美郡の大忍庄まで領有する土佐七雄の一つに数えられる有力豪族でした。当時の当主は安芸国虎(1530年~1569年)。元親の父国親と同様土佐守護職を持つ管領細川高国から偏諱を賜り国虎と名乗ります。

 もともと長宗我部氏の勃興には快く思っていなかったところに加え、香我美郡夜須領を巡って長宗我部氏の家臣吉田重俊(元親の重臣孝頼の弟)と争ったことから敵対関係となりました。1563年元親が宿敵本山茂辰を攻めるため本山盆地に遠征すると、その隙をついて義兄一条兼定に兵を借り5千の軍勢で岡豊城に攻め寄せます。この時は、留守を守っていた吉田重俊の奮戦で撃退されました。

 1564年元親は安芸氏を攻めようと決意しますが、一条兼定の仲介で和睦します。1567年元親は安芸氏に使者を送り友好関係を結ぼうと国虎を岡豊城に招きました。行ったら殺されると分かっている国虎はこれを拒否。元親は国虎の拒否を口実に安芸氏攻めを発表します。これは元親の和戦両用の謀略でした。国虎はまんまと策にはまったのです。

 1569年7月満を持した元親は7千の軍勢を動員し安芸領に攻め込みました。国虎も5千の兵を集め本拠安芸城を中心に新荘城、穴内城などにも兵を置き徹底抗戦します。国虎は文字通り虎でした。その武勇は土佐中に鳴り響き戦いの帰趨を土佐の国人たちはじっと見守ります。

 元親は安芸郡和食(わじき)に陣を敷きました。国虎も八流(やながれ)に布陣します。元親は軍を二手に分け、5千を腹心福留親政に授け海沿いの道を進ませました。ちなみに親政は元親の信頼厚く、後年長男信親の守役となりました。元親自身は2千を率い山沿いを進みます。海手軍は八流で安芸方の武将黒岩越前率いる2千とぶつかりました。数の上でも長宗我部軍が有利で安芸勢は簡単に撃破されます。そこへ元親率いる本隊が安芸軍の背後を突いたため敵勢は総崩れとなりました。

 こうなると国虎個人の武勇ではどうすることもできず安芸城に逃げ込まざるを得なくなります。八流の合戦で元親が完勝したため安芸家中に動揺が走りました。国虎の家臣たちは次々と元親に内応し投降します。国虎唯一の頼みは、義兄一条兼定が元親の背後を突いてくれることでした。しかし、八流の戦いの結果は土佐中に広がっていたため、兼定は怖気づき動きません。国虎は見捨てられたのです。

 それでも国虎は城を守り抜きました。困った元親は、内応を約束してきた安芸家臣横山民部に城の井戸へ毒を入れるよう命じます。すでに裏切り者として負い目のある民部は従わざるを得ませんでした。城兵が毒水を飲んで次々と死んだため国虎は城兵の助命を条件に開城します。8月11日国虎は安芸郡浄貞寺で自害。名族安芸氏はここに滅亡しました。こうして元親は安芸領を併呑し残るは幡多郡の一条兼定のみになります。

 が、一条氏は何といっても長宗我部氏の恩人。大恩ある一条氏を滅ぼす事には長宗我部家中ですら反対がありました。元親はどのように一条氏を攻略するのでしょうか?



 次回、四万十川の戦いと一条氏の滅亡を語りましょう。
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