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長宗我部戦記Ⅶ  秀吉の四国攻め

 1582年6月2日の本能寺の変以後歴史は大きく動き出します。早くも6月13日には毛利氏と和睦し中国大返しを行った羽柴秀吉が山崎の合戦で逆臣明智光秀を討ちました。信長亡き後の織田家の後継者を決める清洲会議が6月27日。ここで秀吉は、ライバル柴田勝家を圧倒し実力で天下人への道を歩み始めます。

 とはいえ、北陸に大きな勢力を誇る柴田勝家も黙ってはおらず1583年4月賤ヶ岳の合戦が起こりました。この戦いに勝利した秀吉は、逃げる柴田勢を追って勝家の本拠越前北ノ庄城を包囲、勝家を滅ぼします。次いで、秀吉の専横に我慢ならなかった信長の次男織田信雄が徳川家康と結び1584年3月小牧長久手の戦いが起こりました。

 秀吉は四国の事を忘れたわけではなく、元親に使者を送り土佐一国と阿波において海部・那賀の二郡を安堵するから降伏をするように命じます。元親の正室が明智光秀の重臣斎藤利三の妹という事はすでに紹介しました。当初は光秀を通して信長から四国切り取り次第の密約を得ていた元親ですが、元親があまりにも大きくなりすぎたために逆に信長は警戒し、これまで敵対してきた三好一族を使って四国侵攻の先兵としてきたのです。

 光秀謀反の原因はいろいろ言われますが、長宗我部氏に対する外交の破綻で面目を潰されたことも一因だったと思います。明智家滅亡後、斎藤利三は主君光秀と運命を共にしますが、その弟石谷頼辰(いしがいよりとき)は長宗我部家を頼って土佐に落ちてきていました。頼辰の事もあり、元親は尚更秀吉に屈服することはできませんでした。また長宗我部軍の中核である一領具足たちの軍功に見合った領地を与えるには土佐一国と阿波二郡くらいではとても足らず、自然秀吉と敵対せざるを得なくなります。

 元親のもとには、柴田勝家からも徳川家康からも使者が来ます。元親は両者と誼を通じ秀吉と敵対しました。といっても直接畿内に上陸できるわけでなく、兵糧を送ったり後方を脅かすくらいしかできません。そしてこの敵対行為が秀吉の格好の四国征伐の大義名分となります。

 1585年5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に入ることを命じます。四国攻めの始まりです。四国攻めの総大将は秀吉の弟羽柴秀長。三好秀次、宇喜多秀家、蜂須賀正勝らが加わり総勢8万。これに伊予口からは小早川隆景、吉川元長を大将とする毛利勢3万が進撃しました。秀吉軍来るの急報を受けた元親は阿波白地城を本陣と定め総勢4万を動員します。しかし戦場は伊予、讃岐、阿波と広大でとても守り切れるものではありません。野戦などもってのほか、各地で籠城する以外手がなくなります。

 讃岐では宇喜多・黒田・蜂須賀勢が屋島に上陸し長宗我部方の喜岡城(高松市)を落としました。香西城、牟礼城も簡単に落城します。戸波親武の守る植田城だけが頑強に抵抗しなかなか落ちませんでした。羽柴方の諸将は軍議を開き、植田城の囲みに兵力を残しながら阿波攻略を優先するため秀長の本体と合流します。

 阿波口の秀長軍は、淡路洲本を出港し土佐泊へ上陸。すぐさま攻撃に移り木津城の東条関兵衛を降しました。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れます。羽柴軍は谷忠澄(1534年~1600年)の守る一宮城を囲みました。谷忠澄はもともと土佐一宮土佐神社の神主でした。有能だったため元親に見いだされ主に外交を担当します。一宮城は阿波の要衝でここに長宗我部勢9千が集まりました。忠澄はなかなかの名将で羽柴軍5万が攻める中城を守り抜きます。

 攻めあぐねた秀長は、水源を断ち坑道を掘って城壁を掘り崩す作戦に出ました。こうなるといくら忠澄でも落城は時間の問題、抵抗を断念します。開城に応じた忠澄はそのまま元親のいる白地城に向かいました。忠澄はじめ全線で実際に羽柴勢と戦った者は、上方武士のきらびやかな軍装、豊富な物資、数多くの鉄砲を見てとても敵うものではないと衝撃を受けました。田舎合戦しか経験したことのない自分たちとは違うと身をもって知ったのです。

 白地城に戻った忠澄は、主君元親に羽柴軍との武器の差、物量、兵力差を説明し降伏を勧めました。最初は拒否していた元親ですが、逃げ戻ってきた諸将も口々に降伏を申し出たため、渋々という形で同意します。内心では元親もとても勝ち目がないことは分かっていました。ただ自分から降伏を言い出してはこれまで自分を信じてついてきた家臣たちに示しがつかないと思っていたのです。

 もしかしたら忠澄は一宮城開城の条件として秀長から元親に降伏を説得する役目を受けていたのかも知れません。7月25日元親はついに降伏します。使者は例によって忠澄でした。もともと秀吉も長宗我部家を完全に殲滅するつもりはなく自分に従えばよしとしていましたから、元親の降伏を認めます。結果、元親は土佐一国のみを安堵されました。

 こうして元親は羽柴秀吉配下の大名となります。以後は秀吉の命ずるまま戦場に出るだけです。土佐安堵の返礼として元親は初めて天下人秀吉の大坂城に挨拶に向かいます。この時の元親の心情は複雑だったと思います。しかし時代は動いていました。好むと好まざるにかかわらず、秀吉に従う以外道はないのです。1586年9月関白秀吉は豊臣の姓を正親町天皇から授かりました。



 次回は豊臣政権下の元親の戦い、そして死を描きます。
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