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土佐藩の幕末維新Ⅱ  吉田東洋

 山内容堂が佐幕と勤王の板挟みになり公武合体論を推進したことは前に書きました。そしてその理想を実現しようとしたのが容堂の抜擢した土佐藩参政吉田東洋(1816年~1852年)です。

 吉田家の祖は長宗我部家の重臣吉田重俊。吉田家は土佐藩では200石の馬廻役でした。幼少期から文武の修行を積み剣は一刀流、文は藩の儒官中村文十郎に学びます。礼節を重んじるも融通の利かない性格で短気、若いころ投網の事で家僕と喧嘩し無礼討ちして蟄居処分になりました。東洋は13代藩主豊熈(とよてる)に仕え郡奉行や船奉行になります。

 1848年藩主豊熈の死去で辞職し各地を遊学、研鑽を深めました。同じ年妻の兄後藤正晴が病死すると彼の遺児保弥太(後の後藤象二郎)を引き取り親代わりとして養育します。保弥太は悪童として有名で同じ幼馴染の乾退助(後の板垣退助)と共に暴れまわっていたそうです。

 1853年7月山内容堂は東洋を見出し大目付に抜擢しました。同年12月には参政に就任、藩政改革を進めます。時代はペリー来航から激動の幕末に突入していました。東洋は容堂の命により幕府に建白書を提出、アメリカの要求を拒絶し海防を厳重に行い幕府が断固たる態度を示すよう要求した内容でした。これは尊王攘夷思想そのものでしたが、当時の日本人の考えはこれが主流だったのです。

 1854年(安政元年)6月、東洋は酒宴における旗本殴打事件を起こし150石に減俸されたうえ罷免、土佐に戻り隠居を命ぜられました。帰郷後東洋は高知郊外に私塾少林塾を開き、甥の後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、間崎哲馬、岩崎弥太郎らを教授します。彼らは後に『新おこぜ組』と称される一大勢力に成長しました。1857年赦免された東洋は再び参政に返り咲き、安政の藩政改革を行い革新的な政策を次々と打ち出します。

 人心の刷新と緊縮財政を行い浮いたお金で大砲・小銃を購入、文武館の整備や大阪住吉の陣営建設を実施しました。ただ緊縮財政だけでは莫大な費用を捻出できず、大阪商人からの借金や藩内で生産される木材・酒・醤油・砂糖・石灰・和紙の統制を強化し増産に努めます。その成果は1861年歳入銀2200貫余の黒字になるほどでした。

 ただ吉田東洋の改革は容堂の公武合体論に沿ったものだったので、保守的な門閥層は反発し東洋や彼の意を受けて動く若い藩士たちを憎み『新おこぜ組』と呼んで敵視します。一方、土佐国内で南学や国学の影響を受けた郷士、庄屋層は過激な尊王攘夷思想に染まり、あくまで幕府存続を前提とした東洋の改革に反感を覚えました。



 東洋の改革に最も反対したのは武市瑞山を党首とする土佐勤王党です。次回は土佐勤王党結成の動きとその経過を記しましょう。
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