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土佐藩の幕末維新Ⅴ  大政奉還

 龍馬が亀山社中を設立する際、薩摩藩の援助がありました。ですからあとは長州藩を貿易の利で結び付ければ薩長同盟は成るのです。近年龍馬の業績を過小評価し亀山社中自体が薩摩藩主導で、長州藩首脳との話し合いで同盟が成立したという説が出てきています。真相は分かりませんが、本稿は土佐が主人公なので龍馬が活躍したとして書き進めましょう。

 ここで幕末の長州藩の歴史を簡単に記します。1863年8月18日の政変で京都を追われた長州藩は孤立し、自藩のみで攘夷を決行しようとしました。関門海峡を通る外国船を砲撃したのです。怒った米英仏蘭は1864年4カ国連合艦隊を編成し長州藩に報復します。これが下関戦争ですが、戦いに完敗した長州藩は欧米列強の強力な兵器に精神論だけでは対抗できないと悟ります。そこで外国から兵器を大量に買い入れ近代軍備を作って幕府を倒し改めて攘夷を決行しようと決意しました。

 長州藩は1864年8月、京都に出兵し禁門の変を起こしていますから、徳川幕府も長州藩を放置できなくなります。尾張藩主徳川慶勝を総督とする長州征討軍が組織され第1次長州征伐が起こりました。長州では攘夷派の宿老周布政之助らが粛清され椋梨藤太を首班とする幕府恭順派が実権を握ります。高杉晋作ら過激派はいち早く行方をくらまし、椋梨は幕府軍に降伏しました。幕府の示した降伏の条件は攘夷派の三家老国司親相、益田親施、福原元僴の切腹、長州に匿われていた三条実美ら攘夷派五公卿の追放、山口政事堂の破却など寛大なものです。

 実は征討軍参謀に薩摩の西郷隆盛がおり、長州藩をあまり追い詰めれば討幕に不利になると考えての処分でした。幕府軍が去ると、逃亡していた高杉晋作が1865年1月12日伊藤俊輔(博文)らとともにわずか80人で下関功山寺に決起、萩城へ攻め上ります。すると次から次へと奇兵隊や諸隊が合流、椋梨が派遣した藩兵を撃破しあっというまに萩城を制圧しました。こうして長州藩の実権を握った高杉は、京を追われ但馬国に潜伏していた桂小五郎を呼び戻し藩政を委任します。また、桂が招聘した軍学者大村益次郎に軍の全権を与え軍備と教練を任せました。来るべき幕府の再征に備えての事です。

 軍備で一番重要なのは近代兵器です。特に歩兵の主力武器として銃身にライフリングが施され椎の実弾(ミニエー弾)を撃てる新式銃ミニエー銃がどうしても必要でした。軍備の責任者大村は桂に訴えます。ところが幕府は欧米諸国に長州藩との武器取引を禁じており武器購入は厳しいものになっていました。そこへ登場したのが龍馬です。

 龍馬は薩摩藩の名目で武器を購入し亀山社中の船で秘かに長州へ運ぶことを申し出ます。実は薩摩藩とも話はついており、ここに薩長同盟の第一歩が踏み出されました。亀山社中の活躍でミニエー銃4300挺、やや旧式ながら幕府の火縄銃よりははるかにましなゲベール銃3000挺、そして木造蒸気船ユニオン号の購入が決まります。

 藩主毛利敬親、世子定広親子は山口に入り、藩を上げて幕府軍と対決する姿勢を示しました。そしてついに1866年6月第2次長州征伐が始まります。長州藩は周囲すべてが敵、幕府軍は実に12万の大軍でした。長州ではこれを四境戦争と呼びます。わずか1万にも満たない長州軍は、大村益次郎の作戦と奇兵隊を率いた高杉晋作の活躍により見事勝利しました。この戦いの敗北で幕府の権威は地に堕ちます。

 1866年3月、坂本龍馬の仲介で長州の桂小五郎が京都薩摩藩邸で西郷隆盛と会談、ついに薩長同盟が成立しました。時代は討幕へと急速に流れ出します。この間、坂本龍馬や中岡慎太郎は国事に奔走し土佐にこの人ありと天下の耳目を集めました。一方、土佐藩では老公山内容堂の下ようやく後藤象二郎や板垣退助らが台頭してきた段階でした。吉田東洋門下の彼らは本来土佐勤王党の流れをくむ龍馬や中岡と合うはずがありません。実際、容堂が勤王党を弾圧したとき側近として勤王党幹部を厳しく取り調べたのも後藤らでした。

 土佐藩上士では少数だった討幕の意見を持っていた板垣は、中岡慎太郎と交流するうちに天下の情勢を知り中岡の仲介で薩摩の西郷隆盛と会ったりしました。一方土佐藩参政となっていた後藤は容堂と同じく公議思想でしたが、長崎出張中坂本龍馬と知り合い共鳴します。二人は考えればお互いに敵同士でしたが、天下国家のために手を結んだのです。

 1867年4月、後藤の仲介で脱藩の罪を許された龍馬は亀山社中を前身とする海援隊を結成しました。中岡は陸援隊を組織します。これらは土佐藩が資金援助をする約束がなされ、土佐藩を討幕に引きずり込む秘策でした。ただ龍馬は討幕が避けられないとしても、内戦になったら多くの罪なき人が犠牲になると悩みます。後藤も幕府の運命は仕方ないとしても徳川家の存続だけは実現したいと考えていました。

 龍馬は後藤と共に上洛する船上、新国家構想を語ります。龍馬が口述し海援隊書記長岡謙吉が文書にまとめました。これが有名な船中八策です。龍馬は後藤に、徳川家を守る方法として大政奉還の考え方を述べます。非常に感銘を受けた後藤は、さっそく山内容堂に報告。京都にいた将軍慶喜にも大政奉還の建白書を提出しました。1867年10月14日、将軍慶喜は土佐藩の大政奉還を容認し朝廷に将軍位返上を申し出ます。

 1867年11月15日京都近江屋にて悲劇が起こりました。坂本龍馬と中岡慎太郎が上洛し近江屋に滞在していたことを察知した刺客たちにより暗殺されたのです。実行犯は京都見廻組説が有力ですが、新撰組説、薩摩藩黒幕説など諸説あってはっきりしません。どちらにしろ時流を理解できない馬鹿者どもの犯行でした。坂本龍馬享年31歳、中岡慎太郎は救出されるものの、深手を負っており龍馬に遅れること2日で絶命しました。こちらは29歳の若さです。

 思えば、坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が明治維新の扉を開いたとも言えます。龍馬は公議思想、慎太郎は勤王討幕と方向性は違いましたが、互いに日本の未来を見据えていたことだけは確かでした。二人の不世出の英雄の死で、戊辰戦争の道は決まったと思います。土佐藩は厳しい言い方をすると、掛川衆である後藤や板垣が土佐郷士龍馬や慎太郎の築いた土台を利用し幕末維新の舞台へと躍り出たと言えるでしょう。




 次回最終回、戊辰戦争と土佐藩の終焉を描きます。
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