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土佐藩の幕末維新余話  陸援隊・海援隊のその後

 土佐藩の幕末維新、書き終わった余韻が未だ覚めやりません。本編で書ききれなかった陸援隊と海援隊のその後について簡単に記します。

 まず陸援隊。中岡慎太郎が創設した陸援隊は討幕のための浪士隊でした。もちろん土佐出身者が中心で中岡横死後は同志であった田中光顕(維新後貴族院議員、宮内大臣)と谷干城(維新後子爵、陸軍中将)らが指導しました。実はこの谷干城も戦国時代長宗我部氏の重臣谷忠澄の子孫です。谷氏は代々土佐一宮土佐神社の神官で、関が原後土佐に入った山内氏も粗略にはできず召し抱えて上士にしました。

 陸援隊は中岡の死後、中島信行(維新後神奈川県令、自由党副総理、衆議院議員、貴族院議員)も参加しています。中島は土佐郷士出身、土佐勤王党加盟、脱藩し一時は長州藩の遊撃隊に参加します。その後龍馬と知り合い海援隊に入りました。中岡は亀山社中とその後身海援隊を見て、長岡謙吉(維新後三河県知事、明治5年死去)や陸奥陽之助(宗光、維新後伯爵、外務大臣)など優に一国の宰相が務まる有能な人材が龍馬のもとに集まっていたことを羨ましく思い、龍馬に人材を譲ってくれるよう頼みます。中岡の頼みで海援隊から陸援隊に移籍したのが中島でした。

 陸援隊は、維新後明治新政府が御親兵を創設したときこれに吸収されます。その際田中は官界・政界に転じ谷はそのまま軍に残ったのでしょう。


 海援隊は海軍だけではなくカンパニー(商社)としての性格もあったため複雑でした。坂本龍馬と後藤象二郎の話し合いで土佐藩預かりとなっていたため、処理は土佐藩の役目となります。1868年(慶応4年、9月8日明治に改元)長岡謙吉が土佐藩の命で海援隊隊長に任命されますが、閏4月27日藩命により解散させられました。その後は土佐商会と名前を変えます。

 土佐藩参政後藤象二郎は、部下の岩崎弥太郎(地下浪人出身、吉田東洋門下)を連れ長崎へ土佐商会の処理に赴きました。調べてみると土佐商会は莫大な借金がありこれを土佐藩が被ると大赤字になることは必定でした。後藤は岩崎に土佐商会のすべての権利を借金も含めて押し付け、これにより岩崎は商売の道に進むこととなりました。後藤の無責任さには呆れるのを通り越して笑ってしまいますが、岩崎はもともと商売っ気があったのでしょう。

 有能な岩崎は、土佐商会を整理し様々な紆余曲折を経て明治5年三菱商会を立ち上げます。これがのちの三菱財閥の始まりです。岩崎の話は単体でも面白いのですが、今回は触れません。三菱企業は戦後も生き残り現在でも三菱重工をはじめ大企業として名を連ねています。


 考えてみると陸援隊、海援隊は短くともそれぞれ歴史的意味があったのだと思うと感慨深いですね。
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