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世界史英雄列伝(44) シヴァージー 反ムガールの英雄(後編)

 インドは2015年の統計で人口13億1千万。世界2位の大国です。少し古い情報ですが人口10億の時代(2000年代初め?)、ガンジス河沿岸の大平原、いわゆるヒンドスタン平原の主要部を占める北部17州だけで5億5千万人もいました。

 この計算だと、デカン高原以南の人口は4億5千万。デカンを境に北部5.5に対し南部は4.5しかいません。この人口比率は17世紀当時もほとんど変わってなかったと思います。当時のムガール帝国の領土は、これに加えデカン高原北縁部、バングラデシュの1億6千万、パンジャブ地方を中心とするパキスタン北部、アフガニスタン東部を加え推定8億から9億人の人口がいたことになります。

 17世紀当時、現在の10分の1としてもムガール帝国は1億近い人口を抱えていた超大国だったと言えます。古来「北インドを制する者がインド亜大陸を制す」と言われたのは人口の面からも当然でした。ムガール帝国はティムール6世の子孫バーブルが創始した王朝です。中央アジアの勢力争いに敗れインドに新天地を求めたバーブルは、北インドを占めるロディ朝を滅ぼし自らの帝国を打ち立てました。その後紆余曲折はあったものの2代フマユーン、3代アクバル(大帝)、4代ジャハンギール、5代シャー・ジャハンと続きアウラングゼーブは6代目皇帝です。

 もともとデカン総督としてこの地の征服を担当していたアウラングゼーブにとって、自分が皇位継承争いで構う余裕のない時に急速に勃興したシヴァージーの勢力は目障りでした。両者の直接対決の引き金は、1663年シヴァージーがムガール帝国のデカン総督シャーイスタ・ハーンをプーナの官邸に襲い負傷させたことです。超大国ムガール帝国との全面対決は当時のシヴァージーにとっては死を意味しました。

 1665年新任のデカン総督ジャイ・スィングは、多くのマラーター族に支持されたシヴァージーを討伐しても泥沼になるだけだと悟り巧みな外交によって降伏させました。同年ブランダル条約でシヴァージーは正式にムガール帝国に仕えることになります。翌年、ジャイ・スィングの強い勧めでシヴァージーはアグラの宮廷に出向きました。

 ところがアウラングゼーブは、マラーター族が新興のカーストであることからシヴァージーを軽んじ酷く尊大な態度で謁見したそうです。怒ったシヴァージーは皇帝の面前で怒りを露わにし退出します。両者の対立は決定的になりました。その後シヴァージーはデカンへの帰還を願い出ますが、アウラングゼーブは許さず彼とその息子サンバージーを監禁します。

 シヴァージーは本国への脱出の機会を待ちました。仮病を使って引きこもるとバラモンや宮廷の有力者に砂糖菓子を贈り続け油断させます。番兵もこの状況にすっかり慣れたころ、シヴァージーは洗濯籠に隠れ無事脱出に成功しました。シヴァージー一行はムガール帝国領を潜り抜け本国ラーイガド城に帰還します。

 ムガールとの全面戦争を覚悟するシヴァージーでしたが、国王が長いこと留守にしていたため国土は荒廃していました。まず領国コンカン地方の内政を立て直し、ムガールとの戦争中背後を突かれないため南のビジャープル王国と戦端を開きます。すでにビジャープル王国はムガール軍の侵攻を受け疲弊していたため講和が成立。1667年7月、シヴァージーを苦しめ続けた有能なデカン総督ジャイ・スィングが死去しました。後任はアウラングゼーブの皇子ムアッザムです。

 無能なムアッザムは、シヴァージーの降伏の申し出を喜び父アウラングゼーブに報告します。これによりシヴァージーは1668年3月ラージャの称号を認められました。しかしこれは戦争の態勢が整うためのシヴァージーの時間稼ぎに過ぎませんでした。1670年、アウラングゼーブがヒンズー教寺院を破壊したことを口実にシヴァージーはムガール領を襲い始めます。

 シヴァージーのマラーター軍の主力は軽騎兵。これに歩兵を加えた軍隊で、戦局不利となれば一時山中に退き、隙あれば敵軍の背後から奇襲し補給線を襲い分断するというゲリラ戦術に徹します。ムガール軍は大軍だけに膨大な補給物資を必要とし、「動く都市」とまで呼ばれる大部隊でしたからこの戦術は効きました。ムガール軍はマラーター軍の跳梁跋扈に悩まされ、皇帝アウラングゼーブはこのため25年間戦場からデリーに戻れないほどでした。

 1674年、シヴァージーはラーイガル城でヴェーダの古式に則りマラーター王国国王の即位式を大々的に挙行。マラーター王国が正式に誕生した瞬間です。シヴァージーはアウラングゼーブのイスラム化政策に対抗し、インド古来のヒンズー教の信仰と自由を守ることを宣言。これがデカン以南の多くのヒンズー教徒の支持を得ます。

 ムガールとマラーターの領土争いをイスラムとヒンズーの宗教対決、民族対立に持ち込んだシヴァージーの慧眼でした。シヴァージーはムガールだけでなく他のイスラム諸国とも戦い続け領土をどんどん拡大します。ヒンズー至上主義は侵略の大義名分としても有効でした。

 イスラム教徒とヒンズー教徒との間で泥沼の戦争が巻き起こる中、アウラングゼーブ帝は1679年4月異教徒に対する人頭税ジズヤを復活させるなど異教徒弾圧政策を強めます。これを聞いたシヴァージーはアウラングゼーブを諫める手紙を送ったそうですが、返って皇帝の怒りを増幅させるだけでした。

 1679年9月、インド南部のビジャープル王国がムガール軍の攻撃を受け首都ビジャープルを包囲されます。シヴァージーはこれまで幾度もビジャープル王国と戦いますが、ビジャープルが滅亡すれば自分への圧力が倍加すると考え援軍の要請を受け入れます。1万の援軍を率いたシヴァージーは背後からムガールの大軍に襲いかかり見事撃退に成功しました。

 1680年4月、シヴァージーは赤痢にかかり波乱の生涯を終えます。享年53歳。彼が生涯で獲得した領土はデカン西部からインド南部に広がる広大なものでした。シヴァージー存命の間、ムガール帝国は南方への領土拡大を頓挫させられます。シヴァージー死去の報告を聞いたアウラングゼーブは小躍りして喜んだと伝えられます。

 



 その後のマラーター王国を記しましょう。シヴァージーの後は息子サンバージーが継承しました。宿敵シヴァージの死を受けアウラングゼーブは大軍を動員し1686年ビジャープル王国、1687年ゴルコンダ王国を滅ぼし1689年にはサンバージーも殺害しました。この一連の戦争をデカン戦争と呼びます。1707年アウラングゼーブ帝が崩御したとき、ムガル帝国の領土は南インドの一部を除くインド亜大陸全体に及ぶようになりました。世界史の教科書に載っているムガール帝国最大版図の図はこの時のものです。

 ただその実態は一時的な占領に過ぎず、アウラングゼーブの死と共にマラーター王国の残党が蜂起し領土は一瞬にして失われます。サンバージーの死後、弟ラージャラームが王位を継ぎました。ラージャラームは南インドに逃げ王国復興の機会を待ちます。皇帝アウラングゼーブ死去で統制力が弱まったことを知ったラージャラームは旧領に戻り挙兵、マラーター王国を復興しました。

 その後、1708年1月マラーター王国を中心にマラーター同盟が成立。ところが実権はバラモンの宰相に奪われます。1720年宰相に就任したバージー・ラーオ1世はまさにシヴァージーの再来ともいえる人物でした。彼のもとでマラーター同盟は拡大を続け、一時は1736年ムガール帝国の首都デリーを包囲するまでに成長します。

 1760年代初め、マラーター同盟はヒンドスタン平原の大部分とデカン高原西半分を占める巨大勢力に膨れ上がり、ムガール帝国は首都デリー周辺のみを領する弱小国家に落ちぶれます。このままマラーター同盟が新たなインド王朝を建設するかと思われる中、1761年アフガニスタンのドゥッラーニー朝がインド侵攻を開始し第3次パーニーパットの戦いが起こります。

 この戦いは北インドの覇権を賭けたマラーター勢力とアフガン勢力の最終決戦でした。アフガン軍は10万、マラーター軍は37万にも達したと言われます。第1次、第2次をはるかに凌ぐ激戦で、マラーター側の主だった武将はほとんど戦死、大敗北を喫しました。マラーター同盟は瓦解、すでにこの当時イギリスがインド侵略を開始していましたから、1812年3次に渡るマラーター戦争で負け王国は藩王国として存在を許されるも1848年藩王シャハージーの死去をもって廃絶、イギリスに併合されることとなります。

 結局漁夫の利を得たのはイギリスで、イギリスはインド国内の諸王国の対立をうまく利用し着々と植民地化を進めました。いくら人口が多くても経済力があっても国が分裂していれば狡猾な外国勢力に付け込まれ国が滅ぼされるのです。その意味では国家の統一は本当に重要ですね。
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