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世界史英雄列伝(45)明の世祖永楽帝(後編)

 朱元璋が建国した当時、明の首都は南京応天府でした。明は江南の人士を中心にできた政権で知識人である儒学者たちもこれを支持します。モンゴル族の元があまりにも彼ら士大夫階級を圧迫したためにその反動で久々の漢民族王朝である明に傾斜したのかもしれません。

 そんな彼らにとって、様々な事情があるにしろ武力で政権を奪った永楽帝は簒奪者でした。方孝孺に代表される通り、儒学者たちは永楽帝を認めずある者は殺され、またある者は追放されます。永楽帝自身も、南京の人士が内心では自分を認めず憎んでいることを敏感に感じ取っていました。そこで永楽帝は、自分の本拠地である北平への遷都を考え始めます。ただ、太祖洪武帝が定めた首都を簡単に変えることは許されませんでした。

 永楽帝は、北平を臨時の首都行在とすることでなし崩しに遷都しようと考えます。北平は北京順天府と改称されました。首都にふさわしい街にするため紫禁城を大改修し、道路を拡充し城壁を築きます。現在の故宮の形が出来上がったのは永楽帝の時代でした。ただ、正式に北京が首都となるためには19年もかかります。それまでは南京を首都としつつも北京に長期滞在するという形をとったのです。

 北京はもともと元朝の首都大都があった場所です。規模的には首都にふさわしいものがありましたが、永楽帝によって正式に明帝国の首都と定められ、以後の王朝もこれを継承します。永楽帝は学問を奨励しました。甥建文帝を殺し王朝を簒奪したという負い目があったのでしょう。支那最大の辞書ともいうべき永楽大典もこの時編纂されました。永楽大典は22877巻・目録60巻・11095冊という膨大なものです。その後歴代皇帝によって改訂が続けられ、清代乾隆帝が四庫全書を編纂するときも参考にされたそうです。

 その後アロー号事件が起こった時北京に侵入した英仏連合軍は、永楽大典の価値が分からず道路に敷き詰めて大砲を通したといいますから、どちらが蛮族か分かりますね。

 この頃モンゴル高原では北元がカラコルムを首都としモンゴル高原はもとより雲南や満洲へ進出し再び南下の構えを見せていました。ただ内紛によりフビライの皇統は絶え一時アリクブカの系統が立つなど混乱を極め最後の皇帝イェスデルは1391年死去します。代わって台頭してきたのはオイラート部でした。オイラートはモンゴル高原西部から新疆にかけて広がるモンゴルの有力部族で、当時の族長マフムードは最初アスト部族アルクタイを永楽帝が攻撃したときは協力したくらいでした。

 マフムードは、モンゴル高原のモンゴル諸族をまとめオイラート部族連合を結成します。北方の覇者となったオイラートは強大化し明帝国に挑戦するようになりました。永楽帝はこれを放置できず自ら親征してこれを倒すことを決意します。モンゴルの後進であるタタール(明では韃靼と呼んだ)も侮れない勢力を保ち、永楽帝は5度にわたる大遠征を敢行しました。

 ここで支那の軍制に詳しい方は疑問に思われるかもしれません。歴代支那王朝の軍隊は歩兵が中心で、騎兵の遊牧民族軍を補足することは難しく大軍だけに補給も困難なのではないか?と。疑問はもっともです。ただ前編を思い出してほしいのですが、永楽帝の軍の主力は歴代支那王朝では珍しく騎兵でした。燕王として北平に駐屯していたころ、降伏したモンゴル人や元を見限り明に帰順した遊牧民族を多数軍に加えていたのです。でなければ燕王時代の北伐すら成功しなかったでしょう。永楽帝のモンゴル遠征は実態としては北方遊牧民族同士の戦争だったとも言えます。

 それでも50万という大軍を動員しすべてが騎兵というわけにはいきませんでしたから、5回も遠征しながらオイラートやタタールに決定的な打撃を与えることはできませんでした。いくつかの戦闘では勝利しながら、敵の主力は機動力を生かし明軍の補足不可能なバイカル湖周辺や遠く西域に逃げたのです。結局、永楽帝のモンゴル遠征は一時明への遊牧民族侵入を阻止するという最低限の目的は達しましたが、永楽帝の没後再び盛り返し、1441年オイラートのエセン汗(ハン)による土木の変に繋がるのです。

 土木の変は、オイラート討伐に出陣した明朝第8代皇帝英宗正統帝が河北の土木堡でオイラート軍の捕虜になるという前代未聞の大事件でした。明は永楽帝の時代が最盛期でその後は徐々に衰退していきます。永楽帝は気宇壮大な皇帝でした。北方遠征を繰り返しながら、一方海へも目を向けます。靖難の変でも功績があった宦官鄭和(1371年~1434年)を総大将に任命し大艦隊を整備、南海への7次に渡る大航海を行わせました。

 鄭和は雲南出身のイスラム教徒、先祖はモンゴルの雲南遠征に同行した色目人だと言われます。イスラム教徒の多い東南アジア、インド洋沿岸への派遣にはうってつけの人物でした。このように五胡十六国から始まった北方異民族の侵入で漢民族は変質し多くの異民族が朝廷の高官になるほど混在していたのです。

 永楽帝が大航海を命じた理由は様々ありますが、
1、南海に逃げた可能性のある建文帝を捜索するため
2、靖難の変で途絶えた東南アジア諸国からの朝貢を促すため
3、簒奪という負のイメージを払拭し多くの国から朝貢を受けた聖なる皇帝を演出するため
などがあげられます。

 鄭和の大艦隊は総勢2万という大規模なもので、東南アジアはもとよりインド亜大陸、アフリカ大陸東部沿岸まで達しました。鄭和は部下を派遣しイスラム教の聖地メッカ巡礼すら果たしています。このように永楽帝は歴代支那皇帝では珍しくスケールの大きな人物でした。そのような永楽帝も1424年第5回モンゴル遠征の帰途陣没します。享年65歳。

 永楽帝の死後、明は鎖国政策を取り鄭和の海外遠征も全くの無駄となりました。大艦隊は解体され人々の記憶から忘れ去られます。そしてオイラートやタタールによる北虜、海禁政策によって必然的に誕生した南倭という外患、宦官による権力闘争という内憂に悩まされ続けていきました。
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