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万暦帝と朝鮮の役

 明帝国の全盛期は3代永楽帝だと言われます。彼の死後明は緩やかな衰退に入りました。明の後半期を象徴する言葉に北虜南倭があります。北虜は元を滅ぼして成立した明王朝の体制が原因ですが、南倭をもたらしたのは明の海禁政策でした。

 鎖国政策を行った明は、朝貢貿易のみを許し潤ったのは一部の権力者のみ。結果として明の辺境では私貿易が横行し日本の九州沿岸の武装商人・漁民が加わります。世界史に詳しい方なら理解できると思いますが、武装商人はトラブルが発生すれば容易に海賊に転じました。これが倭寇の始まりです。倭寇に転じた九州沿岸の者たちの心の中には、元寇における対馬壱岐の住民の大虐殺に対する復讐の意味もあったと思います。

 神出鬼没の倭寇は明の官憲を苦しめました。そのうち、辺境の暴民が日本人になりすまし月代をそって倭寇を名乗り始めます。明朝の役人は「倭寇のうち真倭は一割に過ぎない」と嘆いたそうです。このような外患にもかかわらず朝廷内部では宦官を中心として権力闘争に明け暮れます。明朝末期、皇帝を傀儡にして国政を壟断した魏忠賢が有名ですが、似たような者が数多く出現したのです。

 明王朝は、当初皇帝独裁の政治体制でした。宰相を廃し皇帝が直接六部という行政組織を見る体制ですが、皇帝一人ですべてを監視することはできないので皇帝を補佐するために内閣大学士を設置します。洪武帝や永楽帝のように有能な皇帝の場合は独裁が一番機能しました。しかし凡庸な皇帝では行政組織が動かなくなり、結局皇帝の助言・補佐役に過ぎない内閣大学士が事実上宰相の役割を担うようになります。ちなみにこれが、日本などにある内閣制度の始まりです。

 第14代神宗万暦帝(在位1572年~1620年)が即位したのはこのような時代でした。内憂外患に軍費がかさみ放埓な政治で国庫は慢性的な赤字を記録します。わずか10歳で即位した万暦帝にこのような国家の危機をさばけるはずがなく、国内政治は内閣大学士張居正(1525年~1582年)が見ました。

 張居正は人間性に難があり一度受けた恨みは絶対に晴らす執拗な性格だったと伝えられますが、12歳で生員(科挙の受験資格を得る)に合格したほどの秀才で1547年22歳の時には進士に上げられます。時の宰相(内閣大学士)徐階に目を掛けられ礼部右侍郎・吏部左侍郎・礼部尚書と朝廷の高官を歴任しました。万暦帝が即位すると政敵を追い落とし自ら宰相に就任します。

 張居正は徹底的な綱紀粛正、冗費の撤廃に努めました。彼の一番有名な政策は一条鞭法の制定です。丁税と地税を一括して銀納する税制で以後支那王朝の基本となります。彼の治世で万年赤字だった歳入は黒字に転じました。張居正の政治は厳しく多くの恨みを買いますが、実際に結果を出しているので表立って批判する者はいませんでした。そんな張居正も1581年病には勝てず死去します。享年58歳。

 張居正にすべての政治を任せていた万暦帝は、初めて自分が自由にできる環境を得ました。張居正健在の間は身を慎み謙虚さを見せていた万暦帝ですが、本心は贅沢好きで怠け者だったのでしょう。現在観光名所にもなっている定陵という墓所を建設、これは内部が巨大な地下宮殿になっていました。溺愛する息子福王の結婚式のためだけに30万両という巨費を投じます。張居正が10年かけて積み上げた余剰金が400万両ですから、どれほどひどい無駄使いか分かります。

 万暦帝は贅沢の為に新たな税を創設、湯水のごとく使い続けました。張居正の努力で黒字に転じていた明の国家財政は万暦帝のために再び赤字に転落、後世明を滅ぼしたのは万暦帝だと指弾されるようになります。自然、庶民の生活は苦しくなり朝廷に対する不満が広がりました。泣きっ面に蜂だったのは、明の属国である李氏朝鮮に日本軍が侵入したことです。

 万暦帝の時代は日本では信長の天下布武、秀吉の統一、家康の徳川幕府創設に当たります。天下を統一した豊臣秀吉は、有り余るエネルギーを海外へ向けました。古来秀吉が朝鮮出兵を何故行ったか議論されていますが、明を征服するための通り道としてまず1592年李氏朝鮮に攻撃を開始したのです。

 日本では文禄・慶長の役と呼ばれますが、被害者の朝鮮は壬辰丁酉の倭乱と称しました。乱とは属国が宗主国に反乱を起こすことを意味します。当時日本と朝鮮は何の関係もなく倭乱という言葉を使う事で腹いせするしかなかったのでしょう。朝鮮も宗主国明と同様国内政治は腐りきっており100年の戦国で鍛えぬかれ鉄砲を巧みに使う日本兵の敵ではありませんでした。破竹の勢いの日本軍は釜山に上陸するとあっという間に首都京城を陥れます。先鋒加藤清正の軍勢などは、半島の日本海側を驀進し満朝国境を越えオランカイにまで達しました。オランカイに関してはどこであったか議論が分かれるところですが、当時満洲の女真族居住地区をオランケと呼んだので満洲の東部国境当たりだったと思います。

 日本軍が明征服を唱えているのですから、報告を受けた朝廷は驚愕します。高官の中には役に立たない朝鮮を見殺しにしろという極論も出たそうですが、宗主国としての責任からも援軍を送ることとなりました。当時遼東地方を支配していたのは軍閥李成梁でした。その長子李如松(1549年~1598年)も鎮守遼東総兵官として遼東地区の明正規軍を握っていました。朝廷は李如松に命じ朝鮮に援軍として出動させます。

 李如松は直属の騎兵4万の他総勢10万前後を率いたと言われます。一方半島に侵入した日本軍は15万ほど。朝鮮の義兵が興ったとはいえ所詮烏合の衆。それほど楽な戦いでないことは李如松も承知していました。加えて率いる兵は自分の子飼いでできるだけ消耗しなくないというのが本音です。

 1593年平壌に籠る小西行長勢を攻めたときも、李如松率いる明軍は交渉して小西軍に撤退を促し深追いしませんでした。そんな李如松も明の朝廷と朝鮮軍にせっつかれて嫌々攻勢に出ることになりました。結果1593年2月碧蹄館の戦いで日本軍に大敗、一説では戦死者6万余という損害を受け、懲りた李如松は積極的に動くことを止めます。

 戦線は膠着し、外交による解決しかなくなりました。文禄・慶長と二度にわたって戦乱が起こったのは日本と明の間の外交交渉が失敗したからです。李如松は1598年4月、伏兵に遭って戦死します。朝鮮の役で朝鮮水軍李舜臣の活躍が語られますが、実際の戦闘の主役は明軍で朝鮮軍の働きは評価できません。李舜臣が日本水軍を苦しめたのが勝利に貢献したと言いますが、だったらなぜ日本軍は10万以上も渡海できたのでしょう?そして長期にわたって活動できたのでしょう?

 日本軍が李舜臣の活躍にもかかわらず兵站を維持できていた証拠だと私は思います。別に当時の朝鮮を馬鹿にするつもりはありませんが、李舜臣のしたことは日本軍の海上補給線の妨害にすぎず、しかもあまり成功しなかったという事実。李舜臣の最期も日明の講和成立後撤退しようとしていた日本軍を追撃し、島津勢の逆襲に遭い戦死するという情けないものでした。

 朝鮮の役は明にとっても国家財政を傾ける出費となります。日本軍の撃退には成功したものの何ら得るものはなく明の滅亡を早めたに過ぎなかったのです。万暦帝は、朝鮮の役の時断固討伐を命じ朝臣を驚かせたほどで、その後一切政治を顧みず宮中で贅沢の限りを尽くしました。1620年8月18日万暦帝崩御。享年56歳。


 明の滅亡はそれからわずか24年後の事です。
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