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大清帝国Ⅴ  国姓爺合戦

 呉三桂が清軍を引き入れ北京に接近中という報告を受けた李自成は、あわてて即位の準備を始めます。準備を行わせたまま、軍勢を率いた李自成は迎え撃つため北京を出撃しました。この時李自成の軍は集まってきた雑軍を合わせて50万以上いたと言われます。が、所詮は寄せ集めの兵。しかも略奪暴行で軍規はあって無きようなものでした。

 結果は当然のごとく大敗。北京に逃げ戻った李自成はあわただしく即位の礼を上げると、紫禁城の財宝をことごとく奪って逃亡します。最初に北京に入城してからわずか40日の天下でした。後を追うように入城した清軍はやすやすと北京を陥れます。摂政王ドルゴンは北京に戒厳令を発し、まず最初に非業の最期を遂げた明朝最後の皇帝崇禎帝を厚く弔いました。減税特赦も発表し北京の人心安定に努めます。

 明の首都北京に対し慎重に占領政策を行うと同時に、他の占領地では満洲族の風俗である辮髪を強制しました。これは敵味方を識別する最も分かりやすい方法で、北京でも敵対の意思だと取られないように自発的に辮髪にする者が続出します。ドルゴンの巧妙な方針でした。さらにドルゴンはほぼ支那大陸を制覇すると「辮髪にあらざる者、首を刎ねるべし」という過酷な占領政策に移行していきます。女子供を含めても30万~40万人しかいない満洲族が億を超える漢人を支配するためには武断政策しかなかったのです。

 北京を追われた李自成は、追撃してきた清軍との間に一進一退の攻防を繰り返しますが、次第にじり貧になっていきます。1645年湖北省九宮山で略奪しようとした山賊を倒した農民の自警団は、死体の一人が外套の下に見事な龍の刺繍の入った錦袍を着ていることを発見しました。李自成です。一時は皇帝にまで昇り詰めた男の末路でした。

 1644年10月19日、幼帝順治帝は摂政王ドルゴンに迎えられて北京に入城。これによって清は明に代わる新たな支那大陸の支配者となります。後は掃討戦にすぎませんでした。ただ、明王朝の残党は華南各地で蜂起し反清闘争を開始します。これを南明政権と呼びます。南明政権では南京の福王政権、紹興の魯王政権、福州の唐王政権が誕生しました。

 1645年4月、清軍は南京を攻略し福王は捕らえられます。翌年北京に送られ処刑されました。残った魯王と唐王は正統性を巡って争い、その隙を突かれる形で1646年6月清軍によって紹興が陥落、魯王は鄭成功を頼って海上に逃亡します。南明の唐王は、1644年皇帝に即位すると年号を取って隆武帝と呼ばれました。武装商人・大海賊として名をはせていた鄭芝龍も隆武帝の招致に応じ南安伯に封じられます。父芝龍に連れられて皇帝に謁見した嫡男成功は、眉目秀麗で頼もしげな姿を皇帝に気に入られます。隆武帝は「朕に皇女がいれば娶らせるところだが残念ながらいない。その代わり国姓の『朱』を与えよう」と言いました。

 以後、鄭成功は国姓爺(爺とは旦那とか御大という意味)と呼ばれることになります。では鄭成功(1624年~1662年)とはどのような人物だったのでしょうか。彼には半分日本人の血が入っています。王直や鄭芝龍ら明末に名をはせた海賊たちは日本の九州、特に平戸を根拠地としました。これは現地の領主松浦氏が貿易の利を得るために保護したからですが、成功は芝龍と平戸藩士の娘田川まつの子として平戸に生を受けます。幼名を福松といいました。7歳で父の故郷福建に戻り、科挙を受けるべく勉学に励みます。泉州府の生員(科挙の資格を得る試験)に合格した成功は南京に上京し東林党の学者銭謙益に師事しました。

 しかし成功21歳の時肝心の明が滅亡。仕方なく父の元に戻ります。亡命政権隆武帝に謁見したのはこの時です。隆武帝は無謀にも北伐を敢行しました。そして大失敗し清軍に殺されます。弟紹武帝が後を継ぎますが、これもすぐに清軍に滅ぼされました。鄭芝龍は、南明政権の将来を見限り清に降伏します。陸軍ばかりで水軍がなかった清は、鄭芝龍の帰順を大歓迎し優遇しました。

 一方、息子成功は『朱』姓を賜った恩義から父と袂を分かちます。科挙を受けるため学んだ朱子学が影響したとも、日本人の血から潔い生き方をしたかったのだともいわれます。広西に居た万暦帝の孫朱由榔が永暦帝と名乗り反清に立ち上がると、鄭成功はこれを明の正統政権だと認め奉じます。清側と南明側で鄭一族は分裂しました。鄭成功は手勢を率い鄭氏の根拠地厦門島を急襲、従兄弟たちを殺して鄭氏一族を纏めます。

 1658年には北伐の軍を起こすも南京攻略に失敗。そこで勢力を立て直すために台湾攻略を企画します。当時台湾は化外の地で、沿岸部にオランダの植民地があるのみでした。1662年大軍を率いた鄭成功は、ゼーランディア城を落とし、オランダ勢力を台湾から叩き出します。鄭氏政権はこれにより台湾から厦門、福州にまたがる海上帝国を築きました。

 鄭成功は、清を討つため母の祖国日本へ援軍を求める使者を送ります。徳川幕府はこれについて議論しますが、神君家康公の定めた鎖国の大方針から最終的に断りました。一部、紀伊大納言徳川頼宣などは積極出兵策を論じたそうですが、賛同は得られなかったと伝えられます。

 清朝では、鄭成功の海上勢力を無視できなくなり父芝龍に命じて帰順工作を始めました。しかし成功が拒否したため、鄭芝龍は謀反の罪を着せられ1661年北京で処刑されます。享年58歳。現状、大海軍を保有する鄭氏政権に対し、ろくな海軍を持たない清はまず艦船の建造から始めなければなりませんでした。このままいけば、台湾は鄭氏のもとで独立国家の道を歩むはずだったかもしれません。ところが、1662年6月鄭成功は熱病にかかりあっけなく死去。まだ37歳の若さでした。

 鄭成功の生きざまは多くの人々の共感を呼びます。日本では近松門左衛門が国姓爺合戦を書いて人気になります。最初は人形浄瑠璃、そして歌舞伎にもなりました。台湾では国家の基礎を築いた英雄として称えられています。鄭氏政権は息子鄭経、孫鄭克塽(こくそう)に引き継がれ20年続きました。鄭氏政権が清朝に降伏したのは康熙帝時代の1683年の事です。


 次回、清朝が名実ともに支那大陸の覇者となるための産みの苦しみ、三藩の乱について記します。
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