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大清帝国Ⅷ  阿片戦争

 清は満洲族が建てた国だけに外国人に寛容でした。康熙帝、雍正帝、乾隆帝時代イエズス会宣教師が数多く朝廷に仕え技術や文化を伝えます。ただ清は明に倣い国是として鎖国しました。海外交易は原則として朝貢に限られ日本に対する長崎貿易など一部例外があるのみでした。西洋列強が進出してくると、遥か南方の広州一港のみ解放し貿易を許します。

 イギリスは、1793年マカートニー、1816年アマーストと二度にわたり広州以外の開港と貿易拡大を求め外交使節を清に派遣します。ところが清の朝廷はイギリス使節に三跪九叩頭の礼を求めたため交渉は決裂します。三跪九叩頭は土下座して三回頭を地面につける礼を三回繰り返すためそう名付けられました。属国が皇帝に対して行う礼です。例えば李氏朝鮮は国王が清の使者に対してもこれを行います。イギリス国王の命を受けた誇りある外交使節にそのような屈辱的な礼ができるはずありません。

 ただ、流石に清もイギリスを門前払いするわけにはいかず、広州での貿易拡大のみは許しました。当時対清貿易を担当していたのはイギリス東インド会社です。イギリスは清から大量の陶磁器・絹・茶を輸入していました。しかし清人はイギリスの工業製品を好まなかったため東インド会社は銀で支払います。その銀が大量に出ていくことがイギリス国内で大問題になりました。イギリスは、銀の流出を防ぐためインドで産出する阿片を秘かに清国内で売りさばいて赤字の解消を図ります。今から考えるととんでもない暴挙ですが、おかげで清国内に重篤な阿片中毒者が大量に出現し深刻な社会問題となりました。

 狡猾なイギリス人は、広州で阿片密売を取り締まる清の役人に賄賂を贈り見逃させます。ここに一人の人物が登場します。彼の名は林則徐(1785年~1850年)、漢人の正義派官僚でした。福建省出身で幼いころから秀才の誉れ高かった林則徐は1811年27歳で科挙に合格、進士となります。その後順調に出世し1837年には湖広(湖北省と湖南省を合わせた地域)総督となりました。ここで林則徐は、域内の阿片撲滅に尽力し成功させます。第8代道光帝は林が上奏した阿片撲滅のための施策を読み感動しました。1839年、林則徐は欽差大臣(特命を受けその案件に全権を有する)に任命され阿片密売の本拠地、広東に赴任します。

 1839年、欽差大臣林則徐はイギリス商人が持っていた阿片をすべて没収し処分しました。これに怒った商人たちは林に抗議しますが、林は全く取り合いませんでした。加えてイギリス商人に今後二度と阿片を持ち込まないこと、持ち込んだ場合は死刑という誓約書を書くよう要求します。林が処分した阿片は1400トンにも及んだそうです。

 イギリス本国ではパーマストン外相がこれを問題視し、植民地経験が長い外交官エリオットを清国貿易監察官として広東に派遣しました。イギリス政府は不測の事態に備え東インド艦隊に出動を命じます。1839年5月、林の求める誓約書提出を拒否しイギリス人たちはマカオに退去しました。

 イギリス政府は、当初このような無理筋な理由で清と戦端を開くつもりはありませんでした。さすがに最低限の良識はあったのでしょう。ところがマカオからもイギリス人たちが追放されようとしたため、エリオットは独断で九龍沖に停泊する清の艦船に砲撃を行いました。イギリス本国も、パーマストン外相の主導で開戦論に傾いており、1839年10月、メルバーン内閣は清への英軍派遣を閣議決定しました。

 イギリス国内でも野党保守党のグラッドストン(後に自由党首相)らが不義の戦争だとして政府を攻撃します。しかし植民地主義全盛時代、正論より国益が優先し抗議の声は圧殺されました。イギリス史上の汚点となる恥ずべき戦争はこのような経緯で始まります。1840年までに軍艦16隻、輸送艦27隻、近代装備で固めた陸軍4000名が清に到着しました。

 イギリス軍は、広東で大量の兵を集め待ち構える林則徐を避け、兵力が手薄な沿岸地帯を占領しながら北上し天津沖に達しました。首都北京の目と鼻の先に出現したイギリス軍に道光帝は驚愕します。対英強硬派の林則徐にすべての責任を負わせて欽差大臣を罷免、辺境の新疆省イリに左遷しました。

 清政府、とくに道光帝の覚悟のなさはどうでしょう?このような弱い態度だからイギリスに付け込まれるのです。乾隆帝時代までの満洲族の気概はどこかに吹き飛んでいました。贅沢に慣れ我慢することを忘れた満洲族は滅ぶべくして滅んだのです。

 清はイギリスの主張を丸呑みします。イギリスが今回の戦争で使った戦費を巨額な賠償金で支払い、香港も割譲しました。広東の他に厦門、寧波の開港も約束させられます。開港はさらに福州、上海にも拡大させられました。翌年、追加条約でイギリスは治外法権、最恵国待遇、関税自主権蜂起を勝ち取ります。これがイギリスによる清植民地化の端緒でした。清政府の情けない態度を見て、フランスなどほかの西洋列強も清を侮るようになります。一度確定した力関係は二度と逆転することはありませんでした。


 よくよく考えてみると、19世紀初め清と西洋列強の軍事力はそこまで隔絶していません。清が本気になれば十分撃退できる程度のイギリス軍の兵力でした。林則徐はそれが分かっていたからこそ断固とした態度を示したのです。しかし、道光帝をはじめ朝廷の高官たちは天津に迫ったイギリス軍の勢いを恐れしなくても良い妥協をして国を売り渡します。後世の史家は林則徐にそのまま全権を任せていたら、その後の清の歴史は変わっていただろうと嘆きます。が、現実は厳しいものでした。

 左遷された林則徐は、その後起こった太平天国の乱を鎮めるため再び欽差大臣を拝命します。そして1849年、任地に赴く途中普寧で病死しました。享年65歳。





 阿片戦争の敗北で亡国の道を歩み始めた清は、さらに太平天国の乱でそれに拍車をかけます。次回、乱の経過と李鴻章の台頭を描きます。
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