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大清帝国Ⅹ  辛亥革命(終章)

 清代末期、阿片戦争から始まる一連の西洋列強の侵略で清は半植民地と化していきます。曽国藩、李鴻章、左宗棠ら太平天国鎮圧の功労者で朝廷の実力者になった者たちは、この事を憂い西洋の技術を取り入れなければどうにもならないと悟りました。

 彼らは、第10代皇帝同治帝を動かし「中体西用」(支那の伝統文化は残し、西洋の機械文明を取り入れる。日本の和魂洋才と同じ)を唱え一連の改革を推進します。これを洋務運動と呼びますが、清の国勢は一時回復し同治の中興と称えられました。

 しかし同治帝が1875年19歳の若さで崩御すると雲行きが怪しくなります。代わって道光帝(同治帝の祖父)の孫にあたる光緒帝(在位1875年~1908年)がわずか3歳で擁立されました。これには同治帝の母西太后の意向が働きます。西太后は映画やドラマでおなじみ、稀代の悪女と呼ばれる女性です。詳しくは映画や小説に譲りますが、自分の息子同治帝を後継ぎにするために咸豊帝の正妃だった東太后を排除、ライバルの側室たちを毒殺したり罠にはめて勝ち抜きます。ところが、あらゆる苦労と努力を重ねて皇位に就けた息子同治帝はわずか19歳で亡くなり、彼女は次の傀儡として同治帝の従兄弟に当たる3歳の幼児を担いだのです。

 西太后は政治の実権を握り垂簾聴政を行いました。彼女には清国を改革し良くしようという意思は毛頭なく、自分の権力の維持だけが至上命題でした。成長した光緒帝はそんな西太后に反発し、洋務運動に理解を示し改革を進めようとすると彼女は露骨に妨害を始めました。西太后は朝廷の実力者李鴻章と結びます。李鴻章もまた洋務運動を自分の私兵である北洋軍強化に充てようと考えており両者の利害が一致したのです。北洋軍は、清朝の予算で1888年北洋艦隊という東洋最大の艦隊を建設します。

 清朝が変わるには外国の圧力が必要です。清の東には世界史上の奇跡とも呼べる新興国家が誕生していました。すなわち明治維新で近代国家に生まれ変わった日本です。清の中体西用と日本の和魂洋才は似ていましたが、日本の場合は立憲君主制を取り入れるなどより西洋に近づき徹底した近代化を果たします。

 1894年朝鮮問題を発端として勃発した日清戦争は、両者の違いを鮮明にしました。組織も兵器も近代化された日本軍は、兵器こそ最新でも旧態依然とした組織を持った清の北洋軍を圧倒。海上でも北洋艦隊が日本の連合艦隊に黄海海戦で完敗します。日本陸軍は鴨緑江を渡河、旅順を攻略し北京を目前とした山海関に迫りました。北洋軍は名目上官軍ですが、その実態は李鴻章の私兵です。自分の権力の源泉である北洋軍を失うわけにはいかない李鴻章は、朝廷を動かし日本と講和を結びます。

 下関条約で日清は和平。この結果、西洋列強は眠れる獅子として恐れていた清の本当の実力を知りました。西洋列強は、イギリスが上海を起点に長江沿岸を、フランスは仏領インドシナと隣接する広東広西を、ドイツが山東半島を、ロシアは満洲を、日本も福建省をそれぞれ勝手に勢力圏に設定、分割支配します。

 清にとってイギリスをはじめとする西洋列強に戦争で敗北することはある意味慣れていました。ですが同じアジアの新興国日本に負けたことは衝撃を与えます。敗北の原因を日本の立憲君主制と考え、康有為ら少壮官僚たちは若い光緒帝を動かし改革に乗り出します。西太后にとって、立憲君主制は自分の権力を奪う陰謀に見えました。怒った西太后は、1898年戊戌の政変を起こして光緒帝を幽閉、康有為ら改革派官僚たちを逮捕処刑します。西太后は清朝の癌でした。

 あまりの清朝のふがいなさに、1900年山東で扶清滅洋を叫ぶ義和団の乱が起こります。最初は鎮圧の動きを見せた朝廷ですが、乱は拡大の一途を辿り北京に迫ると西太后はこれと結びなんと西洋列強に対し宣戦布告したのです。北京にいた大使館や公使館の外国人たちは敵中に孤立します。英仏米露独墺伊日は八か国連合軍を結成し救出に向かいました。義和団は鎮圧され、列強は清政府に対し莫大な賠償金とさらなる植民地化を要求します。この結果清の庶民たちは政府を完全に見限りました。

 1901年清が列強との間に結んだ義和団の乱の講和条約(辛丑条約)が李鴻章最後の仕事でした。李鴻章は間もなく病死します。享年78歳。北洋軍閥を引き継いだのは叩き上げの軍人袁世凱(1859年~1916年)でした。西太后に動員された官軍が列強の連合軍に壊滅させられたことで、温存していた北洋軍を背景に袁世凱の発言権は相対的に大きくなります。

 清王朝をぼろぼろにした西太后は1908年亡くなりました。光緒帝も後を追うように同年崩御。1908年12月、第12代、そして清朝最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀、1906年~1967年)が即位します。わずか3歳でした。宣統帝の父醇親王載灃が摂政王として政権を担当することとなります。醇親王は戊戌の政変で兄光緒帝を裏切り西太后についた袁世凱を憎んでおり、袁世凱を失脚させます。ところが袁世凱子飼いの部下は朝廷内に数多く残っており、復活の機会を虎視眈々と狙っていました。

 この頃華南地方では孫文が創設した興中会などの革命組織が誕生します。彼らは「清朝打倒、共和政体の確立」を唱えました。阿片戦争以来の清朝のお粗末な対応と、度重なる戦争による重税であえいでいた庶民は、革命組織の主張は理解できなくとも、清を滅ぼし自分たちの生活を変えてくれるかもしれないと彼らに期待します。同時に同治の中興を支持し戊戌の政変で裏切られた知識層も、この動きに同調し始めました。

 1905年孫文は亡命先の日本でこれら革命組織の団結に成功、一気に革命の機運が高まります。1908年湖北省武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が勃発。西太后の死を受け、ようやく清朝政府も科挙の廃止、憲法発布、議会の開設を約束しますがあまりにも遅すぎました。同じ頃モンゴル高原でも独立運動が起こりモンゴル国成立。清朝は内部からガタガタとなります。1912年1月1日、南京において孫文を臨時大統領とする中華民国が成立しました。

 袁世凱はこの動きを利用し巻き返しを開始します。清朝政府は北洋軍を握る袁世凱の裏切りでどうにもならなくなり、1912年2月12日宣統帝が正式に退位、清は276年に渡る歴史に幕を下ろし滅亡しました。以後、愛新覚羅溥儀と袁世凱、そして孫文にも面白い歴史がありますが、本稿のテーマから外れるのでここでは語りません。







 清王朝は、満洲族が建てた最後の東洋的征服王朝でした。そして支那における最後の王朝となります。少数の満洲族が数億の支那人民を支配する体制はどこか無理があったのでしょう。貴族化し尚武の気風を失った満洲族は、台頭してきた漢人に実権を奪われることになります。曽国藩、李鴻章、袁世凱の系譜は成るべくして成った歴史の必然だったのかもしれません。

 現在、満洲族は1000万前後。13億の巨大な人口の中では少数民族として埋没しています。この中には清朝勃興の過程で吸収された漢人八旗の子孫もいることでしょう。

 西アジアにおけるオスマン帝国と同様、清朝もまた栄光の歴史の後うたかたの夢のごとく消え去りました。




                               (完)
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