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モンゴルのビルマ侵攻

 史上空前の大帝国を建設したモンゴル。日本やベトナム、ジャワ島を中心にスマトラ、マレー半島、ボルネオ、セレベス、バリという広大な領土を誇ったマジャパヒト王国、西ではエジプト・マムルーク朝などモンゴル軍の侵攻を撃退できた国は幸運でしたが、他の多くの国は滅ぼされます。

 ビルマ(現在のミャンマー)に最初に成立したビルマ人の王朝パガン王国(849年~1298年)もそのような国の一つでした。パガン王国を建てたビルマ族は現在ミャンマー全人口の7割を占める主流民族です。しかし、もともとこの地に住んでいたわけではなく、9世紀頃支那雲南地方から南下しました。

 ビルマ族はチベットビルマ語族で、五胡の一つ氐族の後裔だと言われます。同じチベット系とされる南詔が雲南地方に成立した影響で押し出された、あるいは南詔の先兵としてビルマ地方に下ったとも言われています。この地にはすでにチベットビルマ語族系のピュー(驃)と呼ばれる古代王国がありました。

 ビルマ族は、ピュー王国を滅ぼしパガン王国を建国します。これには異説があり、ピューを滅ぼしたのは南詔で、ピューとビルマ族はもともと同族、南詔軍侵攻で滅ぼされ混乱したビルマ地方を再統一したのがパガン王国だったとも言われます。このあたり、まったく知識がないので両説を紹介しておきます。

 パガン王国は、上座部仏教(南伝仏教)を国教とし仏教文化が栄えました。パガンといえばパゴダ(ビルマ形式の仏塔)と連想されるほど有名ですよね。そんなパガン王国にも終焉の時が来ます。

 チンギス汗によって建国されたモンゴル帝国はユーラシア各地に遠征軍を派遣しました。当時モンゴルの騎兵戦術は他国で対抗できないほど精強で多くの国が滅ぼされます。雲南地方に割拠していた大理も1254年モンゴルの将軍ウリヤンカダイの侵攻を受け滅亡しました。

 元朝が成立すると、辺境雲南地方はフビライ汗の庶子フゲチが雲南王に封じられます。フゲチの後は子のエセン・テムル(?~1332年)が継承しました。元朝は大理に隣接していたパガン王国に対し1271年朝貢を促す使者を送りました。ところが時のパガン王ナラティーハパテは元の要求を拒絶し使者を斬ってしまいます。

 怒った元は、雲南王国に命じ1277年、1283年と二度に渡って懲罰の軍を送らせました。それでもパガン王国が屈服しなかったため1286年雲南王エセン・テムルが征緬副都元帥に任命され軍を率い国境を越えます。エセン・テムルは直属の兵わずか7千余りしか率いなかったそうです。ただ全兵力が精強なモンゴル騎兵。歩兵中心で鈍重なパガン軍を機動力で圧倒できると踏んでの編制でした。

 さすがのナラティーハパテ王も、連年のモンゴルの侵攻で疲弊しようやく降伏を考え始めていたところでしたが、それに反対する庶子の一人に毒殺されます。跡を継いだのはナラティーハパテの王子たちの家督継承争いに勝ち残ったチョウスワー王。ただし王国の実権はシャン族の3人の大臣に握られていました。

 パガン軍はバモーの戦いに敗北し首都パガンを放棄、王はベンガル湾沿いのパテインに避難します。チョウスワー王もモンゴルへの降伏を考え始めますが、怯懦であるとしてまたしても庶子の一人に殺されました。実権は相変わらずシャン族三兄弟が握り、パガン朝は侵略者モンゴル軍と対決するため4万の軍を率いて北上します。

 待ち構えていたエセン・テムルはエーヤワディー川沿いに軍を展開、両軍は首都パガン郊外でぶつかりました。結果は機動力に勝るモンゴル軍の圧勝、首都パガンはモンゴル軍の馬蹄に蹂躙されます。以後も傀儡政権が続きますが、これにより事実上パガン王国滅亡。傀儡のパガン王国は元の属国となりました。

 シャン族三兄弟は上ビルマで自立、独自の王国を建てますが間もなく内紛で分裂、300年に渡る分裂時代に突入します。乱れたビルマを統一したのは同じくビルマ族の王朝タウングー朝(1510年~1752年)でした。
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