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インカ帝国(後編)

 前編でインカ帝国の成り立ちを記したわけですが、ここではまず滅ぼした側であるスペインの事情から説明しましょう。

 スペインが新大陸と関りを持ったのは、アラゴン王国のフェルナンド2世と結婚し現在のスペインを形成したカスティリアの女王イサベル1世が1492年イタリア人コロンブスの提案した西回り航路でのインド到達計画に出資したことがきっかけでした。当時アラゴン王国はバルセロナを含むカタルニア、イタリア南部のナポリ王国を領土としており地中海志向が強い国家でしたが、一方内陸のカスティリアはレコンキスタ(国土回復運動)の中心でイスラム教徒をイベリア半島からの駆逐した事とその後の海外進出に大きな意識の違いはなかったと言われています。いわば大西洋志向とでも言いましょうか。

 ところが皆さんもご存知の通り、コロンブスはインドへ到達できず南北アメリカ大陸を発見してしまいました。彼は最後まで新大陸をインドの東の辺境と勘違いしていたと言われ、ここに住む住民をインディオ(北米ではインディアン)と呼びます。コロンブスは国王から新発見した領土の総督にしてもらい植民地経営を始めますが住民の反発を買い大失敗、援助したスペイン(当時はカスティリャ・アラゴン連合王国だが面倒なのでスペインで通す)王室も莫大な損害を出してしまいました。

 これに懲りたスペイン王室は、以後の征服事業を請負制にします。新領土征服にかかる費用は自弁。征服後得られた戦利品の5分の1を王室に上納すればその土地の総督に任命するという方式です。これだと王室の懐は痛みません。カピトゥラシオンと呼ばれるこの制度の代表はアステカ帝国を征服したコルテス、そしてインカ帝国を滅ぼしたピサロです。請負制のため、彼らは収奪が最大の目的となり征服やその後の占領支配は過酷なものになりました。現地住民にとってはたまったものではありません。

 フランシスコ・ピサロ(1470年?~1451年)はカスティリア王国の下級貴族の家に生まれます。若いころイタリア戦争に参加するなどしますが芽が出ず、1502年新大陸に渡りました。1513年バルボアのパナマ遠征に参加して太平洋に達し、この地で黄金郷インカ帝国の噂を聞きつけたと言われます。1524年、1526年と南アメリカ探検を行いインカ帝国の北辺トゥンベスまで到達しました。

 一旦本国スペインに戻ったピサロは1528年時のスペイン国王カルロス1世(後に神聖ローマ皇帝カール5世となる)に探検で得られた戦利品を献上、南米におけるカピトゥラシオンを認められます。同志を募ったピサロは、1531年マスケット銃で武装した180名の兵士、37頭の馬(兵士二百数十名という説もあり)と共にパナマを出港し太平洋を南下しました。

 時はすこし遡りインカ帝国。1527年第11代皇帝ワイナ・カパックが原因不明の病気で亡くなります。当時彼は帝国の北部トゥメバンバ(現在のエクアドル、クエンカ)にいました。皇帝はこの地を気に入り長逗留しており、いわばクスコとトゥメバンバ、二つの首都があるような状態でした。皇帝の急死で母の違う有力な二人の皇子の間で皇位継承争いが起こります。まずワスカルが第12代皇帝としてクスコで即位。一方、もう一人の皇子アタワルパは父から溺愛されトゥメバンバに来ており皇帝の側近たちに担がれトゥメバンバで挙兵しました。

 当然両者の間では内戦がおこります。ピサロが上陸したのはちょうどこの時期でした。ある時アタワルパのもとに銀の脚をした巨大な獣に跨り、白い肌に黒や赤い髭を生やし雷鳴を放つ道具を持った異人たちが上陸したという報告が入ります。銀の脚とはおそらく甲冑をまとった馬の事でしょう。スペインの騎士でした。雷鳴を放つ道具はマスケット銃の事。

 内戦の最中でしたが、異人たちが敵であるワスカルに味方してはたまらないと、アタワルパは彼らと面会することにしました。一方、ピサロの側は自分たちが著しく劣勢であることは承知しており、何とかしてアタワルパを騙し帝国を乗っ取る事を考えていました。1532年11月16日、運命の日がやってきます。

 ピサロはアタワルパに使者を送りカハマルカの広場にやってくるよう申し出ました。アタワルパは警戒し数万の兵と共に広場に移動。ピサロ側からは従軍司祭ドミニコ会士のバルベルデが通訳を従え出てきました。この時スペイン側の記録では、バルベルデが聖書を読み聞かせアタワルパに入信するよう迫り聖書を差し出すもアタワルパはこれを拒否、渡された聖書を払いのけたため、それを合図としてピサロ側が発砲したとされます。ところがインカ側ではピサロがアタワルパの勧めた友好の証であるチチャ酒の入った黄金の杯を払いのけ、驚くアタワルパを拘束、動揺するインカ兵士たちにマスケット銃を乱射したと記録されています。

 私は後者の可能性が高いと思いますが、アタワルパを人質にされたインカ側は抵抗できず一方的にマスケット銃で虐殺されたそうです。捕らえられたアタワルパは、ピサロに対し身代金として膨大な黄金と銀を約束します。使者が帝国各地に走り翌年三月には部屋一杯が金銀で満たされるほどだったと言われます。ところがピサロは約束を破りアタワルパを処刑してしまいます。

 インカ帝国を二分した内戦は、アタワルパ優位に進んでおりクスコのワスカルはすでにアタワルパ軍に捕らえられていました。人質となりながらもアタワルパは使者を送りワスカルを処刑させます。ピサロにとってはこれが格好の口実となりました。ピサロは、アタワルパが秘かに兵を募りスペインに対する反逆を企んでいると言いがかりをつけ、兄弟殺しの罪とともに裁判にかけ死刑を宣告します。完全な茶番でした。処刑方法は火刑と決まります。ところがインカでは遺体が損傷すると来世生まれ変われないという信仰があり、死の直前カトリックの洗礼を受け絞首刑となりました。

 こうしてピサロは、邪魔なアタワルパを殺し堂々と帝国の首都クスコに乗り込みます。しかしスペイン人が圧倒的少数派なのは承知しており、インカの皇族トゥパク・ワルパ(ワイナ・カパックの子)を傀儡皇帝に仕立てての入城でした。インカ帝国は第13代アタワルパの死をもって事実上滅亡。傀儡皇帝はピサロがインカ帝国の支配を確立するまでの道具にすぎませんでした。結局1533年傀儡皇帝トゥパク・ワルパは天然痘で死亡します。

 悪逆非道の限りを尽くしたピサロですが、報いを受けることとなります。1535年ピサロはパナマのスペイン領と連絡の取りやすい沿岸部にリマ市を建設、植民地の首都としました。しかしその後植民地の分配をめぐって部下のアルマグロと対立、1537年スペイン人同士で内戦を起こします。1538年アルマグロの軍を破り彼を処刑しますが、スペイン本国ではピサロの植民地支配が失敗したとみなされ支持を失いました。国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)は、アタワルパを無実の罪で処刑したとしてピサロに死刑を宣告します。1541年6月26日アルマグロの遺児一派にリマで暗殺されました。

 カルロス1世によるピサロの死刑宣告は、別に人道的罪を糾弾したわけではありません。コンキスタドール(征服者)による植民地支配は各地で問題となっていました。征服するまでは収奪の対象でも、その後は国王の臣民となるのです。税金徴収の対象である植民地住民は生かさず殺さず。スペイン本国では、官僚による効率的植民地支配が目指されました。いずれピサロ達コンキスタドールは排除される運命にあったのです。

 1543年ペルー副王領成立。副王はスペイン本国から派遣される官僚です。副王領はブラジルを除く南米大陸全土が管轄地域となる広大なものでした。ペルーでは1821年、ボリビアは1825年独立するまでスペインによる植民地支配が続きます。

 近年、ペルーでは混血のメスティーソも含めインカ人の子孫という意識が高まっているそうです。征服者ピサロの銅像は国民の反発で1998年撤去されます。ピサロの征服後1600万人もいたとされるインカ人は、過酷な植民地支配とスペイン人の持ち込んだ天然痘などの伝染病でなんと60万人にまで激減したそうです。

 その意味では、スペインの植民地支配は悪以外の何ものでもなかったと言えます。
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