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インカの反乱

 ピサロによってあっさりと滅ぼされた印象のあるインカ帝国ですが、流石に無抵抗というわけではありませんでした。最後の皇帝アタワルパを人質にされいわば騙し討ちのような形で滅ぼされたので、むしろ滅亡後にスペイン人に対する反発が激しくなったとも言えます。

 ピサロがインカ帝国を支配するため傀儡皇帝を仕立てたことは前に書きました。最初の傀儡トゥパク・ワルパが天然痘であっさり死んだあと、アタワルパやワスカル、トゥパク・ワルパの異母兄弟であるマンコ・インカが次の傀儡皇帝に擁立されます。

 ところがピサロは部下のアルマグロと占領後の分け前を巡って醜い争いを始めました。この状況を見ていたマンコ・インカは隙をついて1536年首都クスコを脱出、ビルカバンバの山中に城を築いて籠ります。すでにインカ国内でスペイン人への反発は強くなっており、また内輪もめの真っ最中だったため討伐はできませんでした。山中の新たなインカ帝国ともいうべき存在でしたが、王権はマンコ・クッパ、サイリ・トゥパク、ティトゥ・クシ、トゥパク・アマルと4代に渡って継承されます。

 最後のインカ王トゥパク・アマルが殺されたのは1572年。スペイン軍に捕らえられ激しい拷問の末斬首されました。27歳だったと伝えられます。以後トゥパク・アマルはインカ人にとってスペインに対する抵抗の象徴となりました。1996年ペルーの日本大使公邸占拠事件を起こしたテロリストもトゥパク・アマル革命運動を名乗っていたくらいです。

 欧州列強の植民地支配は過酷で人権を無視した酷いものでした。一例をあげるとポルトガルのブラジル支配。他国に隠れて目立ちませんが、ポルトガルのそれも酷いものでした。ブラジルには狩猟採取生活から脱していないインディオしかおらず人口も少なかったためプランテーション農業に不適でした。そこでポルトガル人はアフリカから黒人奴隷を連れてきてゴム農園で働かせます。この時男女比は2対1でした。黒人の奴隷女はポルトガル人農場主の邸宅で召使として使用し、時には性奴隷として慰み者にします。一方、男は隔離し死ぬまで働かせました。満足な食事も与えられない男奴隷は平均10年も生きなかったそうです。ポルトガル人にとっては、死んでも別の奴隷を連れてくればよく数多くの黒人が異郷ブラジルの土となりました。18世紀末、ブラジルの人口はわずか30万人のポルトガル人に対し300万もの黒人奴隷がいたそうです。

 スペイン領ペルー副王領(ペルーを中心にブラジルを除く南米全土が管轄)の旧インカ領ではスペインに対する小規模な反乱が後を絶たなかったそうですが、満足な武器を持たないインカ人たちはその都度鎮圧されました。

 ここに一人の人物が登場します。彼の名はホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(1742年~1781年)。クスコの南140㎞くらいにあったティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)でしたが、先住民としては最高の教育を受け公用語のスペイン語、インカ帝国の公用語だったケチュア語の他にラテン語まで話せたそうです。

 コンドルカンキは一説では純粋なインカ人ではなくメスティーソ(スペインとインカの混血)だったとも言われます。スペイン人の植民地に対する収奪抑圧に不満を抱いたコンドルカンキは自らインカ帝国皇帝の血を引くと宣言トゥパクアマル2世と名乗りました。16世紀当時初めて見る銃と馬に混乱したインカ人ですが、そこから200年も経つと馬は当たり前に存在し、銃器を扱った者も出てきます。クラカクラスだと自らの銃器を所持していたとしても不思議ではありません。

 ティンタ郡でトゥパクアマル2世ことコンドルカンキが蜂起したとき、瞬く間に6000名もの同調者が出現します。それだけスペインの植民地支配に対し不満が鬱積していたのでしょう。反乱に驚いた植民地政府はクスコから討伐軍を派遣します。ところが数が違いすぎて壊滅、575名もの死者を出しました。スペイン不敗神話の崩壊です。クスコの市参事会はパニックに陥りました。リマからの援軍到着はいつになるか分かりません。この時点でインカ反乱軍がクスコに進軍していれば簡単に陥落していたと思います。

 ところが反乱軍はクスコには向かわず南進し、チチカカ湖沿岸地帯を襲います。インカ発祥の地チチカカ湖を手に入れ正統性を確保したかったのかどうか分かりませんが、致命的な時間のロスは植民地政府に準備の時間を与えます。反乱軍は、スペイン人を見ると男は虐殺し、女は散々レイプした後殺したそうです。私も普段なら反乱軍の非道な行為に憤るところですが、スペイン人がかつてインカ人に同様以上の酷い行為を行っていたことを知っているため自業自得としか思えません。むろん先祖の行為の報いを子孫が受けるのは理不尽とは思いますが、インカ人にはそれすら許されていなかったのです。

 ペルー副王政府は、各地から援軍を集めインカ反乱軍鎮圧に動きました。反乱軍も銃は持っていましたが、その数は少なく全員が銃で武装するスペイン軍に各地で敗退します。この時スペイン軍は反乱軍の3分の1もいなかったと思いますが銃の数は逆にスペイン軍が圧倒していました。返す返すも惜しいのは、早い段階で反乱軍がクスコを抑えていれば大量に備蓄されていたスペイン軍の銃や大砲を奪い、ちょっとやそっとでは鎮圧できないほど強大な力を手に入れられた事です。

 1781年3月鎮圧軍との決戦に敗北、トゥパクアマル2世はついに捕まり略式裁判で死刑が宣告されます。処刑方法は馬に縄で首や手足を結び付けられ八つ裂きにされるという残酷極まりないものでした。この時トゥパクアマル2世41歳だったと伝えられます。

 トゥパクアマル2世の反乱は5か月で鎮圧されますが、これによりスペインの威信は地に堕ちその後各地で反スペインの反乱が後を絶たなくなりました。植民地政府はその鎮圧で力を使い果たし、19世紀のシモン・ド・ボルバル達による南米独立へと繋がるのです。

 敗れはしたものの、トゥパクアマル2世がいなければペルー独立には繋がらなかったわけで、彼は現在英雄視されています。1985年にはペルー旧500インティ紙幣に肖像が載るくらいでした。
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