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パラグアイ戦争 知られざる本土決戦

 南米パラグアイの歴史は意外と古いものがあります。1536年スペインの探検隊はラプラタ河口デルタ地帯にブエノスアイレスを建設しました。ところが現地人に攻撃され町を放棄。ラプラタ河を遡り翌1337年中流域にアスンシオンを建設、ようやく定住に成功します。ブエノスアイレスはアスンシオンからパラナ川を下ってきた入植団によって1580年再建されました。

 アスンシオンに入植したスペイン人たちは現地のグアラニー人と戦いながら農地を拡大していきます。彼らは自ら武装し民兵を組織しました。これがパラグアイの始まりで、イエズス会の布教活動も加わり独特の社会を形成します。パラグアイは自治評議会を組織し1811年ブエノスアイレスからの統合の呼びかけを断りました。

 パラグアイが宗主国スペインから独立したのは1811年ですが、対ブエノスアイレス自立派のフランシアという人物が国民の支持を勝ち取り1816年終身独裁官に就任します。ブエノスアイレスは、内陸国パラグアイの大西洋への出口であるパラナ水系を押さえパラグアイの輸出品に関税をかけて圧力を掛けますが、逆にパラグアイの結束力を高める結果となりました。

 当時パラグアイの人口は約50万。タバコとマテ茶の栽培・流通・販売を国営化し莫大な外貨収入を得る農業国家でした。フランソワの死後カルロス・アントニオ・ロペスが後を継ぎます。1862年カルロスが死ぬと息子ソラノ・ロペスが新大統領に就任しました。

 パラグアイは内陸国でアルゼンチンやブラジルなどの外洋に面している国に常に圧力を掛けられていた関係から、7万という常備軍を持ち国民も全員民兵と成り得る軍事国家となります。アルゼンチンやブラジルよりも多い恐るべき数でした。

 1861年、ブラジルとアルゼンチンの緩衝国ウルグアイで保守党政権に対し自由党がクーデターを起こします。ブラジルは国境問題でウルグアイと揉めていた為反乱軍を支援、軍を派遣しました。パラグアイのロペス大統領は保守党を支援していた関係からブラジルに宣戦布告、マットグロッソ州に侵入します。ここは人口希薄地で無意味だったので、ロペスはウルグアイを直接支援するため、アルゼンチンに領土を通らせろと掛け合いますが当然拒否されました。するとロペスはアルゼンチンにまで宣戦布告、パラナ川を越えてコリエンテス市を占領します。

 外交的にも軍事的にも無謀を通り越して破滅への道でした。こうしてパラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ(自由党が政権を掌握)を敵に回し袋叩きに遭います。ロペスの頭としては常備軍7万3千、いざとなったら国民皆兵で全国民を動員できるため負ける気はしなかったのでしょう。ところが現実は厳しく、戦略的に負けておりこれを戦術で挽回するのは至難の技でした。局地的戦闘では勝利しても、三国同盟軍に押されついに1866年パラグアイ本土へ攻め込まれてしまいます。

 壮絶な本土決戦が始まりました。パラグアイは必至で抵抗し膨大な損害を出したアルゼンチン軍は翌年事実上戦線を離脱、ウルグアイ軍は大したことありませんから、ブラジル軍が単独で戦うようになります。ブラジル軍は1869年ついに首都アスンシオンを占領。なおも抵抗を続けるロペス大統領も翌年戦死、ようやく戦争が終わりました。

 この戦争でパラグアイは60万の人口を半減させ、成人男性に至っては3分の1しか生き残らなかったそうです。パラグアイは戦後処理で領土の半分を奪われます。国土は焦土化しイギリスから巨額の借款を押し付けられ、経済的にイギリスとアルゼンチンに従属しました。そして政治的にはブラジルに従属するようになります。本土決戦に負けるとこうなるのです。以後、パラグアイは周辺諸国に左右される弱小国に落ちぶれました。その後もボリビアとのチャコ戦争で大きな被害を出し政情は不安定化します。

 第2次大戦後も、内戦、クーデターが相次ぎ軍部独裁から民政移管し正常化したのは1989年でした。
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