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出雲尼子軍記Ⅳ 十一州の太守

 前回記した経久による月山富田城奪還の経緯は軍記ものでは有名ですが、史実かどうかははっきりしません。単に守護代職を剥奪されただけで出雲において一定の勢力を保ったという説もあります。

 ともかく実力で月山富田城を奪還した経久は、出雲統一に向けて戦いを開始しました。最初の標的は仁多郡惣地頭三沢氏です。対三沢氏に関して軍記ものでは面白いエピソードもあるのですが史実かどうか確認できないのでここでは紹介しません。経久は謀略によって三沢勢を誘い出し奇襲攻撃を加えてこれを粉砕、1490年には三沢為国の籠る横田藤ケ瀬城を攻めます。為国は尼子勢の攻撃に耐えかね降伏しました。経久が最大の豪族三沢氏を攻略したことで三刀屋氏、赤穴氏らが次々と軍門に降ります。

 出雲国内を平定した経久は宗教政策にも力を尽くしました。杵築大社(出雲大社)の社殿を造営したり、出雲国内の有力寺社の所領を安堵したりします。1500年、対立していた出雲守護京極政経がお家騒動に敗れ出雲に下向してきました。背に腹は代えられない政経は経久と和解、再び経久は出雲守護代になります。政経は孫の吉童子丸に家督を譲り1508年死去、経久は吉童子丸の後見人となりました。ところが吉童子丸は間もなく行方不明になります。経久の陰謀の臭いがしなくもないですが、これで文字通り経久は出雲国主となりました。ちなみに政経の墓は京極一族でただ一人、出雲国安国寺にあります。

 京極家のお家騒動は、政経の子村宗に政経の甥高清の子高吉が養嗣子に入って一応の決着を迎えますが、出雲、隠岐、飛騨に対する支配力を失い本拠北近江ですら台頭してきた国人領主浅井亮政に実権を奪われ傀儡に落ちぶれます。

 京極政経が没した1508年は、京都において管領細川政元に追放され流浪していた前将軍義稙が周防の有力守護大名大内義興を頼り、上洛戦を開始した年でもありました。当時義興は周防、長門、筑前、豊前を完全に支配しており日の出の勢いです。前年1507年には権勢を振るった管領細川政元が暗殺されて畿内では細川一族による家督争いが起こっていました。

 大内義興は前将軍足利義稙を擁し2万の大軍で上洛します。この時中国の武士たちにも参陣を求めました。出雲国主尼子経久もこれに従い上洛したという説と、本人は動かず配下の武士たちを送ったという説があってはっきりしません。どちらにしろ前将軍を擁し大義名分を持つ大内義興に逆らうことはできなかったでしょう。

 義興は、細川政元の養子の一人高国と結び、管領細川澄元と対立します。澄元は大内勢との合戦に敗れ十一代将軍義澄を擁し近江に逃亡、義興は前将軍義稙を再び将軍の座に就けました。功績により細川高国が管領、大内義興は管領代、左京大夫、山城守護になります。ところが両雄並び立たず義興は高国と対立を深め、細川澄元も実家の阿波細川家、細川家家宰三好一族の後援を受けしぶとく抵抗、戦いは泥沼になりました。

 義興たちの畿内における醜い権力争いを冷静に眺めていた経久は、秘かに帰国し自らの領土を拡大すべく伯耆や石見へ侵攻を開始しました。当時、伯耆、因幡などは山名氏の守護領国でしたが応仁の乱で支配権を失い権力の空白地になっていました。美作は赤松氏と山名氏が争奪した国でしたが両家とも没落し、草刈り場となります。

 大内氏の影響力の強い石見、安芸に関しては調略の手を伸ばし国人領主たちを次々と寝返らせました。伯耆、美作には経久自ら兵を率い平定していきます。国元から急報を受けた大内義興は驚愕しました。足元に火が付いた今、天下どころではなくなります。1518年管領代の職を辞した義興は急ぎ帰国、尼子経久と決戦すべく準備を始めました。強大な後ろ盾を失った義稙、高国政権は瓦解、義稙は再び京都を叩き出され流浪、最後は1523年阿波国撫養で寂しく亡くなります。享年56歳。細川高国は逃亡した後も各地の有力大名を頼って何度か反抗を試みますが、最後は細川澄元の子晴元に大物崩れの戦いで敗れ1531年自害しました。享年48歳。

 将軍職は義澄の遺児義晴が継ぎ第12代将軍になります。以後畿内においては細川晴元、次いでその家宰阿波三好一族が猛威を振るう事となりました。

 尼子経久の勢力拡大も順調に進んだわけではありません。1518年には伯耆の南条氏と結んで反乱を起こした桜井氏の出雲阿用城の戦いで最愛の息子政久を失っています。享年26歳。政久は温厚篤実な人物で頭も良いことから経久が最も期待していた長男でした。衝撃を受けた経久ですが、武勇名高い次男国久の活躍もあり阿用城を攻略、再び勢力拡大の戦を始めます。国久の館は月山北麓新宮谷にあったため国久の一党を新宮党と呼びました。新宮党は常に尼子勢の先頭にあり武勇をもって戦を勝利に導きます。

 1521年、経久は安芸国の国人毛利元就を帰順させ大内方の鏡山城(東広島市)を攻めさせました。ここに毛利元就が初めて出てきます。経久は元就の才能は認めても、自分と同じ謀略の才を感じ取り最後まで信用しなかったそうです。

 経久は、亡き政久の遺児詮久(あきひさ)を世子に定めます。詮久は後に十二代将軍義晴から一字を拝領し晴久と名を改めますから、混乱を避けるため以後晴久で統一します。1524年経久は伯耆の有力豪族南条宗勝を破り、守護山名澄之を追放します。南条宗勝は但馬の山名氏を頼って亡命しました。安芸では旧守護武田氏を味方に引き入れるも、大内氏に武田氏が敗れたことで毛利元就は大内方に鞍替えしました。備後でも経久自ら率いた兵が、大内方の陶興房(隆房=晴賢の父)の軍勢に敗れるなど一進一退の攻防を繰り返します。

 1530年には処遇に不満を持っていた三男塩冶興久があろうことか宿敵大内氏と結び反乱を起こしました。反乱は1534年鎮圧されますが、興久は備後甲立城に逃亡。甥の晴久に攻め立てられ自害しました。同年晴久は美作にも侵攻します。1537年経久が隠居し孫の晴久に家督を譲った時、出雲・隠岐・伯耆・美作をほぼ手中に収め、安芸、石見、備後、備中、備前、因幡に勢威を振るいました。隠居中の1539年孫の晴久が播磨に進出し守護赤松晴政を撃破し一時的に播磨の支配権を握ったため、これを合わせて十一州の太守と呼ばれました。

 その後、経久は1541年まで生き82歳の高齢で没します。経久の晩年から晴久の前半までが尼子氏の絶頂期でした。しかし満つれば欠くるが世の習い。尼子氏の没落の始まりは裏切った毛利元就をその居城に攻めた吉田郡山城の戦いでした。


 次回、尼子氏と大内氏の威信をかけた激突、吉田郡山城の戦いを描きます。
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