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出雲尼子軍記Ⅶ 尼子氏滅亡

 毛利元就が陶晴賢を滅ぼして旧大内領の併呑を進めている頃、尼子晴久はどう動いていたでしょうか。大寧寺の変の翌年1552年、13代将軍足利義輝により山陰山陽八か国の守護は追認され、従五位下修理大夫に昇りました。幕府相伴衆にもなり、対外的にはその威勢はいまだ健在とも言えます。因幡、美作に出兵し1553年には備前守護代浦上宗景、美作三星城主後藤勝基ら1万5千の兵を撃破して備前天神山城まで進出するなど依然として中国地方では強大な力を有していました。この時晴久が率いた兵力が2万8千を数えたことでもそれが分かります。

 安芸・周防・長門を平定し備後、石見に進出しつつあった毛利元就も、尼子氏とまともにぶつかっては不利だと悟ります。そこで元就は尼子氏の軍事力の中核である新宮党の排除を画策しました。元就は出雲に数多くの間者を放ち新宮党が毛利氏と内通し晴久を倒そうとしていると噂を流させます。新宮党は経久の次男国久を棟梁とする一族で確かに軍事的功績を鼻にかけ尼子家中では嫌われていました。元就はさらに念を押します。吉田郡山城攻めで戦死した経久の弟下野守久幸の子経貞を抱き込んだのです。冷遇されていた経貞はこれに飛びつきました。

 もともと叔父国久一党の横暴を苦々しく思っていた晴久は、経貞の讒言を信じ秘かに近臣を集め新宮党討伐の命を下します。1554年11月1日、尼子家の旧例通り来年の方針を話し合う評定が月山富田城で開かれました。晴久は病気と称し評定に出てきません。異様なことに料理も出ず新宮党の棟梁国久は嫡子誠久とともに退座し帰途に就きます。すると道の先に晴久側近の大西十兵衛、本田豊前守らがいました。国久が黙礼して通り過ぎようとすると、「上意である」と叫んで大西らがいきなり斬りかかります。抵抗する暇もなく国久は誠久共々凶刃に倒れました。

 生き残りが新宮党の館に駆け込んだため、騒然となります。新宮党の面々は急ぎ籠城の準備をしますがこの時すでに尼子方の追手によって屋敷は囲まれていました。戦いは壮絶を極めます。同じ尼子家中、親兄弟や親戚が殺しあうのです。晴久は新宮党を滅ぼすため5千も集めたそうですから、それだけ新宮党の武勇を恐れていたのでしょう。夜が明けるまでに新宮党は国久の三男敬久以下一族郎党ことごとく討ち果たされました。いや、ただ一人誠久の五男でまだ幼児だった孫四郎(後の勝久)だけが乳母に抱かれ落ち延びます。孫四郎はまず備後の徳分寺を頼り、成長後京の東福寺に上り僧となりました。

 新宮党の討伐は後味の悪いものとなります。いくら国久に専横の振る舞いがあったとはいえ、新宮党は尼子氏の軍事力の中核でした。これを失ったことで尼子氏の力は急速に衰えます。元就は、待っていたかのように1558年本格的に石見に進出しました。ただ晴久存命中は毛利氏も石見銀山を奪うことはできませんでした。

 1561年1月9日、尼子晴久は病を得て47年の生涯を閉じます。大黒柱の早すぎる死でした。家督は嫡男義久(1540年~1611年)が継ぐも、父ほどの器量は無く尼子家の将来に暗雲が漂います。尼子と毛利の軍事バランスが崩れたことで、毛利勢は尼子領への侵略を激化させました。義久は将軍義輝に請い毛利との和睦を図りますが、元就は最初から無視し攻撃を緩めなかったため無駄骨に終わります。

 1562年、元就は次男吉川元春、三男小早川隆景と共に1万5千の兵を率い出雲に雪崩れ込みました。元就の嫡男隆元は尼子攻めに従軍途中1563年病を発し安芸国佐々部で急死します。41歳でした。毛利家家督は隆元の子輝元と定められます。第二次月山富田城攻め(第一次は大内義隆)は長引きます。それだけ難攻不落だったのです。元就は白鹿城など富田城の重要な支城を攻め孤立化を進めました。同時に尼子家中に調略の手を伸ばし次々と寝返らせます。尼子氏累代の重臣亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏までが元就に降伏するという惨状でした。元就の兵糧攻めと味方の裏切りで城内の士気は衰えます。

 それでも一年以上籠城できたのですから月山富田城がいかに堅城だったか分かります。元就の調略は凄味を増し、義久は疑心暗鬼から経久以来の忠臣宇山久兼まで無実の罪で誅殺してしまいました。1566年11月28日、義久はついに降伏を決断します。山中鹿助幸盛ら若手の強硬派は降伏に大反対したそうですが、尼子家中には厭戦気分が蔓延し大勢は覆りませんでした。

 開城した義久は、弟倫久、秀久と共に安芸国に護送され円明寺に幽閉されます。山中鹿助らは同行を願い出ますが、元就に拒否されました。さすがの元就も、義久を殺すのは後味が悪かったのでしょう。ここまでさんざんえげつない策謀をやってきた負い目もあったと思います。義久らは毛利家の客分となり関ケ原後毛利輝元が防長二州に転封となるとこれに従ったそうです。義久の降伏で戦国大名としての尼子氏は滅亡しました。







 しかし、尼子氏の歴史はまだ終わりません。新宮党唯一の生き残り勝久がいます。そして浪人となった山中鹿助ら尼子の遺臣たち。次回『尼子再興軍の戦い』ご期待ください。
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