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出雲尼子軍記Ⅷ 尼子再興軍の戦い

 山中鹿助幸盛(1545年~1578年)。尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に誓ったというエピソードが有名です。講談などでは鹿之介という名前で広く人口に膾炙しています。尼子家の遺臣は、主君義久が1566年毛利元就に降伏した後四散しました。鹿助は叔父立原源太兵衛久綱とともに京都に潜伏します。そこで尼子家の血を引く一人の若者を見つけました。彼はかつて尼子晴久に粛清された新宮党尼子誠久の五男で唯一生き残った孫四郎でした。

 鹿助らは孫四郎に尼子家再興の希望を託し還俗させます。孫四郎は元服し勝久と名乗りました。勝久を擁した鹿助、久綱らは秘かに隠岐島に渡ります。そこで尼子の旧臣に連絡を取り兵を集めました。その鹿助らにまもなく最大の機会が訪れます。

 1568年、毛利元就は筑前・豊前の支配権をめぐって豊後の大友宗麟を討つため全力をあげ北九州に出兵します。元就は宗麟との間で陶晴賢を討つとき密約し旧大内領の分割を決めていました。おそらく毛利が周防・長門、大友が筑前・豊前を取るという約束だったと推定されますが、いざ陶晴賢を討って防長を平定すると、元就は大友氏に筑前・豊前を譲るのが惜しくなったのです。というのも防長二国は30万石程度しかありませんが、筑前・豊前は合わせて80万石を超える石高を有し大内領国の経済的中心地だったからです。国際貿易港博多があるのも大きかったでしょう。

 元就は筑前豊前の大友方国人を調略し切り崩しを開始します。これに大友氏の重臣高橋鑑種までもが加わりました。元就は次男吉川元春、三男小早川隆景に大軍を授けこれを助けます。筑前・豊前で毛利勢と大友勢は激しく戦いました。宗麟は重臣立花道雪を派遣し鑑種を討たせます。さすがの毛利氏にとっても大友宗麟は侮りがたい敵でした。戦いは泥沼の様相を呈します。毛利勢主力が北九州に渡り後方の山陰地域が空白になったことを知った鹿助は、同年6月尼子旧臣を糾合し出雲に上陸しました。

 鹿助が上陸すると隠れていた尼子方諸将が次々と集まり6千を数えるようになります。尼子再興軍は新山城を攻略し末次城(松江市末次町)を築城、出雲奪還の本拠地としました。尼子再興軍はまたたくまに16の城を奪還し月山富田城に迫ります。尼子方の蜂起は伯耆や美作にも拡大し、毛利氏は危機に陥りました。ただ毛利の月山富田城留守居役天野隆重は寡兵良く守り尼子再興軍を寄せ付けませんでした。

 毛利氏にとって泣きっ面に蜂だったのは、大友宗麟が大内義興の甥で豊後で保護していた輝弘に手勢を授け1568年9月大内家再興を掲げさせ周防に上陸させたことでした。出雲で尼子再興軍、周防長門では大内輝弘が暴れまわり、北九州どころではなくなります。元就は憤懣やるかたないところですが、元春、隆景の北九州遠征軍を呼び戻さざるを得なくなりました。これを見ると大友宗麟もなかなかやるなと思いますが、毛利氏が去り筑前・豊前は宗麟のものとなります。宗麟は九州探題となり筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後6か国の守護を兼任する大勢力に成長しました。単純計算で総石高240万石余。ただ宗麟の絶頂期も竜造寺、島津の台頭で長くは続きません。

 毛利勢は、まず大内輝弘の反乱軍を長門長府に追い詰め1569年10月自害させます。翌1570年2月元就は自ら大軍を率い尼子再興軍を滅ぼすべく出雲に入りました。尼子再興軍にとって難攻不落の月山富田城を奪回できなかったことが致命的になります。2月14日、布部川の戦いで元就率いる毛利の大軍と激突した尼子再興軍は大敗を喫しました。以後再興軍は衰退し、追い詰められていきます。

 1571年6月、元就が75歳で死去し尼子再興軍は一時盛り返しますが、大勢は既に決していました。同年9月、尼子再興軍最後の拠点新山城が落城。尼子勝久は脱出に成功しますが、山中鹿助は吉川元春の手勢に捕らえられました。元春は鹿助の器量を認め自分に仕えるよう求めますが鹿助はこれを拒否。尾高城に幽閉されます。

 鹿助は、何度も厠に行って城兵を油断させ厠を伝って脱出に成功しました。鹿助は一旦隠岐に逃れ但馬に渡ります。すでに尼子勝久は但馬に至っており、ここに尼子再興軍は再び集結しました。鹿助らが狙ったのは隣国因幡です。因幡は尼子勢力圏で守護山名氏の勢力が衰え権力の空白地帯となっていました。尼子再興軍は因幡を制圧し伯耆、出雲と逆襲に転じようと考えます。その為に日本海の海賊奈佐日本助を味方に引き入れるなど着々と準備を進めました。

 当時因幡国は、守護山名氏の勢力が衰えその重臣鳥取城主武田高信が実質的に支配していました。高信は月山富田城の戦いの章で出てきた武田常信の子です。因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と言われ、因幡守護山名豊数と合戦して追放し毛利氏と結んで国を乗っ取りました。因幡山名家は豊数が死に弟豊国が継ぎます。鹿助らは豊国を奉じこれを大義名分として因幡国に攻め込みました。1573年の事です。

 尼子再興軍はわずか千人余りでしたが、お家再興の悲願に燃え5千の武田軍を甑山城の戦いで撃破。同年9月にはなんと鳥取城を攻略、豊国を城に入れます。高信は城を明け渡し鵯尾城に引きました。尼子一党の力で鳥取城を取り戻した豊国ですが、毛利との対決を主張する尼子一党を次第に疎んじ始めます。彼にとっては因幡国を取り戻す事だけが重要で、強大な毛利氏との対決など迷惑だったのです。

 尼子再興軍は私部城を本拠に四方を攻略し兵力も3千余りに拡大しました。ところが同年11月、山名豊国が毛利方の調略に屈し寝返ってしまったのです。すでに因幡国内で毛利方と合戦を始めていた尼子再興軍は背後にも敵を抱える危機に陥りました。但馬守護で尼子再興軍の因幡入りを支援していた山名祐豊ですら毛利氏と和睦するという最悪の状況になり、尼子再興軍は進退窮まりました。

 1575年6月、毛利氏は吉川元春、小早川隆景率いる4万7千もの大軍を因幡に送り込みます。尼子再興軍の息の根を止めるためでした。1576年5月、毛利方の圧力に耐えられなくなった尼子再興軍は最後の拠点若桜鬼ヶ城から退去します。二度目の尼子再興運動も潰えました。またしても浪々の身となった鹿助たち。ただ、彼らとて望みを捨てたわけではありません。鹿助らが頼ったのは上洛を果たし天下統一の道を邁進していた織田信長。



 毛利との最後の決戦は迫っていました。次回最終回『上月城に消ゆ』で彼らの最後の雄姿を見ていきましょう。
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